第38話「春のお花見をしようとしたら、世界樹の桜が咲いて神様たちが神格花粉症になったので、ミクロ決死圏で花粉を退治しにいくんだが」
信州の長く厳しい冬が終わりを告げ、ユウト農園にもついに暖かな春の陽射しが降り注ぐ季節がやってきた。
雪解け水がサラサラと心地よい音を立てて小川を満たし、冷たい風から解放された畑の黒土からは、新しい生命の息吹がむせ返るような力強い香りとなって立ち上っている。
「うーん、春の空気って本当に美味しいね。深呼吸するだけで体が軽くなるみたいだ」
俺はポカポカとした縁側に座り、淹れたての緑茶が入った湯呑みを両手で包み込みながら、のんびりと青空を見上げた。
関東近郊の狭いワンルームマンションに住み、毎日満員電車に揺られてブラック企業に通っていた社畜時代、俺にとって春は決して心地よいものではなかった。
コンクリートの照り返しが妙に生暖かくなり、駅のホームで舞い散る花粉に目を真っ赤にしながら、遅延する電車をひたすら待つだけの憂鬱な季節。桜といえば、会社近くにあるコンビニで売られている『春の彩り幕の内弁当』のパッケージに印刷された造花か、深夜のニュース番組で流れる名所の映像を見るくらいしかなかった。本物の自然と触れ合う余裕など、精神的にも時間的にも一切なかったのだ。
だが今は違う。見渡す限りの広大な敷地を持ち、数万柱の神々や魔物や宇宙海賊たちを束ねるユウト農園の経営者として、大自然のど真ん中で本物の春を満喫している。
今日は農園の従業員みんなで『お花見』をする予定だった。
昨日の夕方、農作業の買い出しに行った近所のホームセンターで、園芸コーナーの隅に「春の特売! 桜の苗木(※タグには解読不能な古代ルーン文字で『全知全能の霊峰より出でし世界樹の種子』と書かれていたが、俺はただの筆記体だと思って気にも留めなかった)」が五百円で売られていたので、裏山の空き地に植えておいたのだ。
「みんな、お弁当の準備はできた?」
俺が声をかけると、フリルのついたエプロン姿のヤクちゃんが、自分の背丈ほどもある巨大な三段重箱を抱えて元気よく飛び出してきた。
「バッチリですぅ! 神々の神酒で煮込んだ特製無水カレーに、地下帝国のマグマオーブンでじっくり焼き上げたタンドリーチキン弁当! それから、スライムちゃんたちが集めてくれた春の山菜を使った天ぷらも山盛りだよ!」
重箱からは食欲をそそるスパイスの香りと、春の息吹を感じさせる爽やかな香りが混ざり合って漂ってくる。
「社長! お花見会場の設営、完了しましたぜ!」
宇宙海賊のギルバート船長が、巨大なブルーシートを広げながら親指を立てた。
「俺のブラッド・ノヴァ号で使っている、大気圏突入用耐熱シールド生地を加工した特製シートっスから、どんなに地面がゴツゴツしてても座り心地は最高ッスよ! 保温効果もバツグンですから、冷え性の神様たちも安心ッス!」
「ありがとう、ギルバート船長。みんなのためにそこまで気を配ってくれて嬉しいよ。それじゃあ、さっそく桜の様子を見に行こうか」
俺の言葉を合図に、農園で働く数万の従業員たちがワイワイと賑やかな足音を立てて裏山へと向かった。しかし、裏山の入り口に辿り着いた瞬間、俺たちは信じられない光景を目の当たりにして足を止めることになった。
ズズズズズズッ……!!
昨日植えたばかりの高さ数十センチしかなかったひょろひょろの苗木。それが大地を深くえぐるような太く強靭な根を張り巡らせながら、一夜にして雲海を突き抜けるほどの超巨大な大樹へと成長していたのだ。幹の太さはビル十階建て分は優にあり、空を覆い尽くすほどの広大な枝葉には、眩いほどに発光する黄金色の『桜のような花』が狂い咲くように満開となっていた。
「うわあ……すっかり立派に育ったね。昨日蒔いた牛糞堆肥がすごく効いたみたいだ。それにしてもずいぶん成長が早い品種だね」
俺が呑気に感心していると、突然隣を歩いていた最高神ゼウスが鼻を激しく押さえ、顔を真っ赤にして震え始めた。
「ズズッ……ひぃっ……はっ、はっ、ハックショォォォォンッ!!」
ゼウスが特大のくしゃみをした瞬間、彼の鼻孔から凄まじい稲妻が飛び出し、裏山の岩肌をド派手に木っ端微塵に吹き飛ばした。
「わ、わわっ!? お爺ちゃん、どうしたの!? 急にくしゃみして、雷まで出しちゃって!」
ヤクちゃんが慌ててゼウスの背中をさする。
「い、いかん、ユウト殿……! この桜から放たれておる花粉はただの花粉ではないぞ……! 宇宙の理を乱すほどの、超濃度の『神気』を含んでおる! わしらのような純度の高い神族の粘膜に過剰反応して……ハ、ハックショォォォンッ!!」
今度は真っ黒な雷雲が巻き起こり、ドカシャァァン!と農園のトラクターの横に落雷が走った。
被害はゼウスだけではなかった。
「あ、あかん……! ハックション!」
太陽神アポロンがくしゃみをした瞬間、空に浮かぶ太陽が異常なフレアを放ち、周囲の気温が一気に十度も上昇した。
「ズズッ……目が、目が痒いわ……! クシュンッ!」
海神ポセイドンが目を擦りながらくしゃみをすると、農園の用水路から巨大な水柱が天高く噴き上がった。
「ああっ、私の美しい鼻水が……! 違う、鼻水じゃないわ、これは恵みの雨よ! ハックション!」
農耕神デメテルがくしゃみをするたびに、周囲の雑草が異常な速度で成長しては枯れるという恐ろしい現象が繰り返されている。
「社長! 緊急事態です!」
宇宙人アルカが、最新型の解析タブレットを抱き抱えるようにして駆け寄ってきた。彼の生真面目な顔には焦りの色が濃く浮かんでいる。
「あの大樹から放出されている花粉の『神気濃度』が、計測器の限界値を完全に突破しています! このままでは神々の魔力が制御不能になり、農園どころか日本列島全体が神力の暴走によって吹き飛びます!」
「社長ォォォ!!!」
さらに、地面がボコォッと割れ、地下帝国長のテラノスが勢いよく飛び出してきた。
「報告いたします! 地下層深くまであの忌々しい花粉が到達し、我ら地下帝国のモグラ魔獣たちが重度の花粉症を発症! くしゃみの反動でマグマをそこら中に吐き出しており、坑道が崩落の危機に瀕しております! 至急対策を打たねば農園の地盤が沈下いたします!」
「ええっ、みんな重度の花粉症になっちゃったの?! それは可哀想に……。せっかくのお花見なのに、これじゃあお弁当も楽しめないね」
俺が困った顔で首を傾げていると、元悪のCEOであるマッドシードが、防毒マスクを装着しながら優雅な足取りで歩み出てきた。
「フフフ、お任せくださいユウト社長」
マッドシードは、白衣のポケットから銀色に輝くピストルのような形の機械を取り出し、恭しく俺に差し出した。
「我がGBG社の技術の結晶、分子構造圧縮機『ミクロ・シュリンカー』です。これを使えば、対象の質量を維持したまま細胞レベルまで体を縮小させることが可能でしょう。社長自らあの大樹の内部、つまり花粉の発生源へ潜入し、直接フィルター処理を行えば、この惨状を食い止められるというわけですな」
「なるほど。つまり古くなって目詰まりした空気清浄機のフィルターを、中に入って直接掃除するようなものだね。わかった、僕が行ってくるよ。みんなは少しの間、マスクをして耐えてくれるかな?」
俺が微笑みながら頷くと、マッドシードは銃口を俺に向け、迷うことなく引き金を引いた。
シュンッ!という甲高い音と共に俺の視界がぐにゃりと歪み、周囲の景色が凄まじいスピードで拡大していく。次の瞬間には、足元の小石が巨大な岩山のようにそびえ立つ、見知らぬミクロの世界へと足を踏み入れていた。どうやら無事にミクロサイズになれたらしい。
「社長! 俺の母艦から射出した極小の探索ドローンを使ってくだせぇ!」
ギルバート船長の野太い声が、無線を通じて耳元のインカムから響いた。俺は目の前にホバリングしている一円玉よりも小さな(今の俺にとっては自家用車サイズの)ドローンに乗り込んで操縦桿を握った。そして、大樹の幹にある巨大洞窟のような『気孔』から樹木の内部へと一気に突入した。
大樹の内部は、まるでSF映画に出てくる発光するクリスタルの洞窟のようだった。壁面を流れる師管や道管の中を、黄金色に輝く樹液が猛烈な勢いで川のように流れている。
奥へ奥へと進んでいくと、突如として進路を塞ぐように体長数十メートル(ミクロサイズの俺から見て)はあろうかという、おぞましい姿をした謎の巨大生物群が現れた。それは、世界樹の内部を外敵から守る『太古の免疫守護獣』たちだった。
「うわっ、すごい数のアブラムシだ。これも駆除しておかないと、木の病気の原因になっちゃうね」
俺はドローンをオートパイロットに切り替えると、座席から身を乗り出し、持参した『農業用ハエタタキ(極細メッシュ仕様)』を構えた。
ブラック企業時代、深夜のオフィスで飛び回る小バエを、書類から目を離さずに片手で叩き落としていたあの研ぎ澄まされた集中力──『限界突破オーラ』をハエタタキに一点集中させる。
パァンッ! パァァンッ!
「ほら、どいてどいて。掃除の邪魔だよ」
俺が軽くハエタタキを振るうたびに、絶対的な防御力を誇るはずの太古の守護獣たちは、「ギィャァァァッ!?」と悲鳴を上げて次々と弾き飛ばされ、無害な光の粒子となって消滅していった。
害虫の群れをあっさりと蹴散らしてさらに奥へと進むと、ついに大樹の心臓部とも言える巨大な空洞に辿り着いた。そこには空洞の中央で眩く光り輝く『世界樹の精霊』が鎮座していた。精霊の周囲には無数の管が接続されており、そこから凄まじい勢いで、周囲の空間を歪ませるほどの高密度な金色の花粉が絶え間なくまき散らされていた。
『我ハ世界樹ノ意志……! 数千年ノ深キ眠リヲ経テ、今コソ全宇宙ニ我ガ神気ヲ満タサン……! 全テノ生命ヨ、我ガ花粉ニひれ伏シ、新タナル調和ノ世界ヲ迎エ入レルノダ……!』
精霊が荘厳なエコーのかかった声で、宇宙の真理を語るかのように堂々と宣言している。だが、俺にはそんな壮大な設定は一切理解できなかった。目の前にあるのはただ一つ、「長年放置されてホコリがビッシリとこびりつき、異常な音を立てて誤作動を起こしている、超巨大な空気清浄機のフィルター」にしか見えなかったのだ。
「うーん、これじゃあ空気が汚れちゃうのも無理ないね。フィルターが完全に目詰まりしてるよ。ちょっと失礼して掃除させてもらうね」
俺はドローンから降り立ち、腰のポーチから『農業用の極細ピンセット』と、大判の『アルコール除菌シート』を取り出した。
そして、再び脳内にブラック企業時代の凄惨な記憶を呼び起こす。金曜日の夜十一時、理不尽な上司から突然押し付けられた「月曜朝イチまでに絶対終わらせろ」という無意味なデータ入力作業。感情を完全に押し殺し、ただひたすら目の前のタスクを機械のように処理し続ける究極の社畜精神。
俺の指先に、空間を歪めるほどの圧倒的な『限界突破オーラ』が収束していく。
『何奴ッ!? 矮小ナル人間ガ、我ガ聖域ニ何用ダ! 去レ、愚カ者メ! 我ガ神気ノ奔流ニ触レレバ、貴様ノ魂ナド一瞬デチリトカス──』
精霊が威嚇の言葉を放ち、俺に向かって黄金の花粉をレーザーのように集中砲火してきた。だが、俺のピンセットは神速の動きで空間を切り裂き、レーザーのように放たれた花粉の塊を空中でヒョイッと摘み取ってしまった。
「あ、痛くないから動かないでね。すぐ終わるから」
そのまま俺は、限界突破オーラを纏った除菌シートを手に、精霊の本体と周囲の管にこびりついた花粉の塊を、キュッキュッと力強く磨き上げていった。
『ヒィィッ……!? ナ、ナンジャコノ途方モナイ力ハ!? 我ガ絶対ナル神気ガ、タダノ紙切レデ完全ニ拭キ取ラレテイク!? バカナ、宇宙ノ理ガ崩壊シテ……ヒィィィッ! 擦ラナイデ! ソコハ敏感ナトコロォォッ!』
限界突破オーラの前には、世界樹の神気などただの頑固な油汚れと同然だった。精霊が発する高次元のエネルギー攻撃も、俺にとっては「ちょっと静電気がパチパチするな」程度の感覚しかない。俺がたった三分で内部の管の隅々までをピカピカに磨き上げ、ピンセットで目詰まりを完全に解消すると、金色の花粉の噴出はピタリと止まった。そして代わりに、無害で心地よいマイナスイオンだけがサラサラと清流のように流れ始めた。
「よし、掃除完了だよ。これで空気も綺麗になったね。これからは周りの人に迷惑をかけないような綺麗な空気だけを出してくれるかな?」
俺が微笑みかけながら除菌シートをゴミ袋にしまうと、精霊は俺の底知れぬオーラの恐ろしさにガタガタと震え上がり、空中で土下座のような姿勢をとって平伏した。
「ハ、ハハーッ! 仰セノ通リニ! 今後ハ美シキ桜ノ花ビラト、綺麗ナ空気ダケヲ出サセテ頂キマスゥゥッ! ドウカ、ドウカ命ダケハお助ケヲォォ!」
こうして、俺が大樹の内部から脱出し、マッドシードの技術で無事に元のサイズに戻る頃には、農園をパニックに陥れていた異常な花粉の嵐は完全に消え去っていた。
「ズズッ……おお、スッキリした! 鼻水が完全に止まったわい! 助かったぞユウト殿! 君は我ら神族の救世主じゃ!」
ゼウスがティッシュで鼻を思い切りかみながら、嬉しそうに俺の肩をバンバンと叩いた。
「フフフ、さすがはユウト社長。見事なトラブルシューティングでしたな」
マッドシードも満足げにメガネを押し上げている。
「社長! 地下帝国のモグラたちも正気を取り戻し、マグマの清掃作業に入っておりますぞ!」
テラノスも敬礼をして報告してくれた。
見上げると、花粉を出すのをやめた巨大な世界樹は、代わりに淡いピンク色の見事な桜吹雪を優しく農園中に降らせ始めていた。それはどんな高画質なテレビの映像よりも美しく、生命の喜びに満ちた光景だった。
「さあ、お掃除も終わったことだし、お腹も空いたね。ヤクちゃん、お弁当を開けてくれるかな?」
「はいっ、ユウト様! みんな、残さず食べてねー!」
舞い散る桜の花びらの下で俺たちはブルーシートに座り、ヤクちゃんが作ってくれた絶品のお弁当を囲んで、平和で賑やかなお花見を楽しんだ。
関東近郊の狭いワンルームで、コンビニ弁当を食べながら味気ない春を過ごしていた頃と比べれば、ここは信じられないほど騒がしくて、そして心から温かい最高の春だった。




