第3話:田舎の野犬、サイズがおかしい(※フェンリル)
シューーーーーーーーーーーーーーッ!!!
黒と黄色の警戒色がプリントされた巨大なスプレー缶から、勢いよく白いガスが噴き出した。田舎のホームセンターならどこにでも売っている、『対スズメバチ用・超強力殺虫スプレー(特大サイズ)』である。ただし、中身は少しだけ違っていた。
これは亡き祖父が、「山の虫はしぶといからな。ワシの特製ブレンドを混ぜておいたぞ」と言って残してくれた、お手製の防虫スプレーだった。
スプレー缶から放たれた白い霧は、尋常ではない勢いで拡散し、巨大な銀色の獣——S級神獣『フェンリル』の顔面を真っ向から包み込んだ。
「ギャウ…………ッ!?」
フェンリルは、初めは何が起きたのか全く理解できていないようだった。それもそのはずである。
神話の時代から生きるこの誇り高き神獣は、戦車砲の直撃すら無傷で弾き返す『絶対物理耐性』と、あらゆる魔法を無効化する『高位魔法耐性』を併せ持っている。
人類が持ち得るいかなる近代兵器も、魔術師が放つ究極魔法も、この美しい銀色の毛並みを一本たりとも傷つけることはできないのだ。だからこそ、フェンリルは目の前のジャージ姿の人間(ただの獲物)が差し向けてきた謎の白い霧を、完全に舐め切って真正面から浴びた。
しかし、次の瞬間。
神獣の脳髄に、経験したことのない『絶対的な死の恐怖』が駆け巡った。
「ガッ、ゴボッ、ギャァァァァァァァァァァッ!?」
フェンリルは両前足で顔を覆い、地面を転げ回りながら悲鳴を上げた。
白い霧——祖父の特製ブレンド(※世界樹の樹液と神殺しの毒草を極限まで濃縮した、概念レベルの猛毒)が、神獣の無敵の粘膜を容赦なく焼き尽くしていたのだ。目、鼻、口、そして呼吸器系。あらゆる感覚器官が麻痺し、猛烈な刺激臭が脳を直接殴りつけてくる。最強の耐久力を誇るフェンリルにとって、それは生まれて初めて経験する『苦痛』であった。
「うおっ、すっげぇ効いてるな。やっぱりお爺ちゃんの特製スプレーは威力が違うや」
俺はスプレーの噴射を止め、地面でのたうち回る巨大な野犬を見下ろした。これだけ図体がデカくても、やっぱり犬は犬だ。鼻が利く分、こういう強い匂いを発するスプレーには弱いのだろう。
「こら! 痛いのはわかるけど、そこはさっき俺が刈った草をまとめておいた場所だぞ! 散らかすな!」
俺は教師が生徒を叱るような、毅然とした態度で野犬に注意した。ブラック企業で理不尽なクレーマー客の対応を何百回もこなしてきた俺にとって、怒り狂う野犬の一匹くらい、どうということはない。元上司の酒臭い息と理不尽な説教に比べれば、野犬の唸り声など可愛いものだ。
俺の怒声を聞いた瞬間、フェンリルはビクッと体を震わせ、ピタリと動きを止めた。充血した赤い目で俺を見上げ、その瞳には明確な『恐怖』と『服従』の色が浮かんでいる。
この人間は、ヤバい。
神獣としての本能が、フェンリルにそう告げていた。己の命など、このジャージ姿の男が指先一つ動かすだけで容易く奪い去られてしまう。絶対的な力の差を悟ったフェンリルは、ゆっくりと仰向けになり、無防備な腹を俺に向けて見せた。犬の降伏のポーズである。
「クゥーン……、キュン……」
さっきまでの地を這うような唸り声はどこへやら、今のこいつは完全に怯えた子犬のような鳴き声を出していた。長い尻尾を股の間に挟み、申し訳なさそうに俺を見つめている。
「なんだ、案外素直なやつだな。よしよし、もう悪さをするんじゃないぞ」
俺は草刈り機を片手に持ったまま、もう片方の手で巨大な野犬の顎の下をわしゃわしゃと撫でてやった。銀色の毛並みは驚くほどフワフワで、高級なシルクの絨毯を触っているかのような極上の手触りだった。
「へぇ、野良犬のくせにすごくいい毛並みしてるな。シャンプーしてやったらもっと綺麗になりそうだ」
俺が呑気に犬と戯れている間、放置されたスマホの画面では、とんでもない事態が進行していた。
【配信コメント】
[名無し] !!!!????
[名無し] !!!!????
[探索者A] おま、それ野犬じゃねえええええええええ!!
[ダンジョンオタク] は???
[名無し] え、待って、今の何? スプレー? 殺虫スプレーで倒したの?
[探索者A] 嘘だろ……。あのフェンリル様が、キャンキャン鳴いて腹見せてるぞ……!?
[名無し] 殺虫スプレー(物理バフ限界突破)
[ダンジョンオタク] 戦車砲でも傷つかないS級神獣が、市販の殺虫スプレーで沈んだ……だと……?
[名無し] どんな成分入ってんだよそのスプレーwwww
[名無し] おっさん、それ絶対に保健所に連絡しちゃダメなやつだからな!?
[名無し] 保健所の職員が来た瞬間、国が消し飛ぶぞ!!
[探索者A] ていうか、撫でてる! 神獣の顎下撫でてる!!
[名無し] この配信者、何者!?
滝のような勢いで流れるコメント。視聴者数は、先ほどのデス・トレント討伐時の『500人』から、一気に『1万人』の大台を突破していた。しかし、当の俺はそんな画面の異変に全く気づいていなかった。
「さてと。とりあえず保健所に連絡しようと思ったけど……こんなに懐いてるなら、うちの番犬にでもするか」
俺はフェンリルの大きな頭を撫でながら、一人で納得していた。田舎の一軒家だ。不用心だし、これだけデカい犬がいれば防犯対策にはバッチリだろう。
「よし、今日からお前の名前は『ポチ』だ。ポチ、そこで大人しく見てろよ。俺は裏山の掃除の続きがあるからな」
「ウォンッ!」
俺が名前を与えると、ポチ(※元・S級神獣フェンリル)は嬉しそうに短く吠え、行儀よくお座りをして尻尾をパタパタと振った。完全にしつけの行き届いた名犬の姿である。神獣としてのプライドはどこへ行ったのか。
俺は満足して立ち上がり、再び草刈り機を構えた。
「ふぅ、ちょっとタイムロスしちゃったな。視聴者の皆さん、お待たせしました。それじゃあ、草刈りの続きをやっていきまーす」
俺がカメラに向かって明るく声をかけた瞬間、スマホからピロン、ピロン、と凄まじい勢いで通知音が鳴り始めた。何事かと思って画面を覗き込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
【配信コメント】
[名無し] ポチwwwwwwwww
[名無し] 神獣にポチって名付けるなwwwww
[探索者A] 終わった。神獣が完全に飼い慣らされた。
[ダンジョンオタク] 歴史的瞬間を目撃してしまった……。人類が初めてS級神獣をテイムした瞬間だ。
[名無し] ¥10,000『ドッグフード代にしてください!』
[名無し] ¥50,000『神獣テイムおめでとうございます!!』
[名無し] ¥10,000『あのスプレーのAmazonリンク教えてください!!』
[海外勢] OH MY GOD!! DOG IS VERY BIG!!
[名無し] 視聴者数、急に3万人超えてて草
[名無し] そりゃそうだろ、さっき誰かがSNSに切り抜き動画アップして大バズりしてるもん。
「え……? 視聴者3万人!?」
俺は画面の左上に表示された数字を見て、思わず声を裏返らせた。
3万人。
東京ドームが半分埋まるレベルの人間が、今、俺のこの『田舎の草刈り配信』をリアルタイムで見ているというのか。しかも、画面には赤や黄色、緑といったカラフルな帯と共に、次々と金額が表示されている。これが噂に聞く『スーパーチャット投げ銭』というやつか。
「いやいやいや! なんで!? ただの草刈りだよ!? 野犬にスプレーかけただけだよ!?」
俺が困惑してカメラに向かって叫ぶと、それがまた視聴者のツボに入ったのか、さらにコメントと投げ銭が加速していく。
【配信コメント】
[名無し] 自覚なしwwww
[名無し] ただの草刈り(A級モンスター瞬殺)
[名無し] 野犬(S級神獣)
[探索者A] このおっさん、本気で自分が何やってるか分かってないのか……(戦慄)
[ダンジョンオタク] 無自覚な最強テイマー。これは伝説になるぞ。
[名無し] ランキング急上昇1位に乗ったぞ!!
[名無し] もっとやれ!! 次は何を刈るんだ!?
どうやら、このチャンネルは何か大きな勘違いによってバズってしまったらしい。みんな、俺の草刈りを『凄腕のダンジョン探索』かなにかと勘違いして、面白がって見ているのだ。ネットの悪ノリというやつだろう。
しかし、無職で貯金が十万円しかない俺にとって、この画面を飛び交うスーパーチャットは、まさに砂漠で見つけたオアシスだった。
「え、えーと……皆さん、たくさんのコメントと投げ銭、本当にありがとうございます! ポチの餌代として大切に使わせていただきます!」
俺は深々とカメラに向かって頭を下げた。勘違いだろうが悪ノリだろうが、お金を払って見てくれるお客様は神様だ。
ブラック企業で培った『どんな理不尽な状況でも笑顔で乗り切るスキル』が、ここに来てついに役に立った。
「皆さんが応援してくれるなら、俺も頑張ってこの裏山を綺麗にしちゃいますよ! よーし、じゃあ次は……あそこらへんに固まってる『角の生えたデカい牛』みたいなヤツらと、『羽の生えたトカゲ』の群れを追い払ってきますね!」
俺が指差した先には、裏山の中腹あたりで群れをなしている異形の生物たちの姿があった。二足歩行する筋骨隆々の牛の化け物と、空を飛び回る巨大なトカゲ。
【配信コメント】
[ダンジョンオタク] は?
[探索者A] ちょっと待て、今映ったの……
[名無し] 『迷宮牛ミノタウロス』の群れと……
[名無し] S級指定の『業火の飛竜ワイバーン』の群れじゃねえか!!
[探索者A] 逃げろバカ!! さすがに数がおかしい!! 国が滅ぶレベルのスタンピード大暴走だぞ!!
[名無し] 終わった。日本沈没のお知らせ。
コメント欄が再び阿鼻叫喚の渦に包まれる。しかし、俺の目にはそれが『ちょっと育ちすぎた田舎の野生動物』にしか見えていなかった。
「まったく、田舎の自然は豊かすぎますね。これ絶対、市役所にクレーム入れた方がいいレベルですよ。まあ、俺とお爺ちゃんの草刈り機にかかれば、あんなの一瞬で片付きますけどね!」
俺は頼もしい相棒である草刈り機のエンジンを再び全開にし、狂暴なモンスターの群れへと向かって、元気よく駆け出していった。
ブルルルルルルルルルルルルンッッッッ!!!
轟音を立てる草刈り機の刃が、陽炎のように空気を歪ませる。背後では、新しく番犬となったポチ(フェンリル)が、「ご主人様、がんばえー」とでも言うように、行儀よくお座りをして尻尾を振っていた。
こうして、世界中をパニックに陥れることになる俺の『ただの草刈り配信』は、いよいよ本格的なスタートを切ったのだった。
次回、第4話「害獣の山と、鳴り止まない通知」
ミノタウロスとワイバーンを雑草感覚で「山積み」にしていくユウト。切り抜き動画は瞬く間に世界を駆け巡り、同接数は未知の領域へ。そしてついに、あの『プロ探索者』たちが実家に迫る……!どうぞお楽しみに!




