第3節:それぞれの2026年――2/3
―― 1. いつもの路地裏、いつもの店――
中央通りの喧騒から一歩外れ、自動販売機の薄暗い光が差し込む路地裏へと入る。
そこには、世界が凍りつく前と全く変わらない、古びた佇まいの『サトウ電器』があった。
引き戸の隙間から漏れてくるのは、あの怪しい蛍光灯の白い光。そして、鼻を突くのはやっぱり、埃と焦げた電子基板の匂いだ。
「店長……!」
サツキが勢いよく引き戸を開けて店内に滑り込む。
キシもその後に続いた。
カウンターの奥、お決まりのプラスチックの丸椅子には――いつも通り、不機嫌そうな顔で古い虫眼鏡を覗き込み、ラジオの基盤をいじっている老店長の姿があった。
「なんだい、騒々しいねえ。うちは冷やかしはお断りだよ」
店長は顔を上げ、めんどくさそうに二人を睨みつけた。その目には、世界を巻き戻そうとした狂気も、ゴーストの気配も一切ない。ただの、アキバの移り変わりをずっと見守ってきた偏屈な頑固親父の目だった。
「店長、無事だったのね……っ!」
サツキが胸をなでおろす。
「無事も何も、ずっとここにいるがね。サツキ、お前さんもいい歳して、若い男を連れ回して何やってんだ。……ん? その兄ちゃん、どっかで見たような顔だな」
店長はキシをじろじろと見たが、すぐに「まあいいや」と興味を失ったように手元に目を戻した。彼の中から、あの「神谷アオイ」に関する特殊な記憶は綺麗にリセットされているようだった。
―― 2. 消えた聖典――
キシは吸い寄せられるように、カウンターの下や、あの黒いVHSが山積みにされていた棚へと向かった。
(アオイの遺稿は……あの買取ノートは、どうなったんだ?)
棚を探すが、どこを見ても、あの日キシが最初に見つけた『アルカディアの残光』のビデオテープは存在しなかった。ネットで爆発的な都市伝説を起こしたあのタイトルは、最初からこの世になかったかのように、ジャンクの山から完全に消え去っていた。
「店長、あの……ここに置いてあった古いビデオテープや、昔の買取ノートって……」
キシが思わず尋ねる。
「ああん? 何言ってるんだ。ビデオテープなんてとっくに全部処分しちまったよ。ノート? そんな昔の帳簿、とっくにシュレッダー行きさ。うちはゴミ溜めじゃねえんだ、過去の遺物にいつまでもこだわってられるかってんだよ」
店長はフンと鼻を鳴らした。
冷たい言葉だった。だが、それは「本物の神谷アオイが、1998年に自分の過去を処分して大人になった」という、あの正しい歴史がしっかりと世界に定着した証拠でもあった。
アオイはもう、ネットの海を彷徨うバグではない。
1995年に傷つき、1998年に前を向き、そしてこの2026年のどこかで、普通の大人として、普通に生きている。あるいは、もうアキバとは無関係の、静かな日常を過ごしているのかもしれない。
―― 3. 2026年の「サトウ電器」――
「……そう、ですか。よかった」
キシは静かに笑った。
アオイという少年が消えてしまったのは寂しい。けれど、彼が「綺麗にパッケージされた過去の神様」ではなく、自分たちと同じように、この地続きの現実のどこかで年齢を重ねて生きているのだと思えば、不思議と胸の奥が温かくなった。
「店長、これ、いくらですか」
キシは棚の隅で見つけた、傷だらけの古いデジタル時計を手に取った。アオイがいた証明は何一つ残っていないけれど、この泥臭いジャンク屋で何かを買ったという「今の現実」を、自分の手元に留めておきたかった。
「そんなボロ、100円でいいよ」
店長はぶっきらぼうに言った。
100円。それは1995年、神谷アオイが最初に自分の夢の死骸を売ったのと同じ金額だった。
キシが小銭をカウンターに置くと、サツキがその様子を見て、優しく微笑んでいた。
「さあ、キシくん。お腹空かない? 2026年の美味しいものでも食べて、これからの話をしましょう」
サツキに促され、キシは店を後にしようと振り返った。その時、バキバキに割れたスマートフォンの画面が、ポケットの中で一度だけ、かすかに優しく明滅したのを、キシは確かに感じていた。




