第3節:それぞれの2026年――3/3
―― 7. 100円の日常、100円の未来――
『サトウ電器』の重い引き戸が閉まり、ガラガラという乾いた音が路地裏に響く。
キシの手のひらには、店長から100円で買い取った傷だらけのデジタル時計が握られていた。アオイが遺した「13話目のコード」は世界を正しく上書きし、彼が実在した証拠はすべて消え去った。だが、この100円の時計の重みだけは、確かにキシの現実いまに存在している。
「ふぅ……。なんだか、ものすごく長い1日だった気がするわね」
サツキが伸びをしながら、中央通りのまばゆい光の中へと一歩踏み出した。
彼女の着ているパーカーも、スニーカーも、もう二度と走査線のようにブレることはない。30代後半の彼女は、自分の過去を「偽物の理想郷」にされることを拒絶し、みっともなくても愛おしいこの2026年を選び取った。その横顔は、とても晴れやかだった。
「サツキさん、ありがとうございました。俺、サツキさんがいなかったら、あのまま1998年の幻に飲み込まれてました」
「お互い様よ、キシくん」
サツキは足を止め、振り返って悪戯っぽく笑った。
「私だって、あなたがあのジャンク屋で最初のビデオを見つけてくれなきゃ、一生、昔は良かったなんて後ろばかり見て、退屈な大人として燻くすぶり続けてたもの。……寂しさに負けそうになったら、いつでもアキバに来なさい。私がいくらでも、泥臭いオタクトークで現実に戻してあげるから」
―― 8. 地続きの世界のどこかで――
二人は電気街のロータリーへと歩いた。
すれ違う人々の誰もが、スマホの画面を見つめたり、友達と笑い合ったりしながら、それぞれの2026年を生きている。
この雑踏のどこかに、あるいは日本のどこかの街に――かつて1995年に『アルカディアの残光』を描き、1998年にそれを手放した、本物の「神谷アオイ」も、30代か40代の大人になって、同じようにこの空を見上げているのかもしれない。
「あいつ、最後に『2026年のアキバも悪くないって伝えておいて』って言いました」
キシは夜空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「ええ。ちゃんと伝わったわよ。だって、今のこの街並みが、何よりの証拠じゃない」
サツキが指差した先、建て替えられた綺麗な『秋葉原ラジオ会館』の大型ビジョンには、最新のエンターテインメントの広告が眩しく輝いていた。
過去を否定するのではなく、過去の上に新しい地層を積み重ねていく。それこそが、この秋葉原という街が持つ、本当の『再生のコード』だったのだ。
―― 9. アルカディアの残り香――
「じゃあね、キシくん。また大学サボりたくなったら連絡しなさいよ」
駅の改札前で、サツキは小さく手を振ると、現代の通勤客の波の中へと颯爽と消えていった。
「はい。また!」
一人になったキシは、バキバキに割れたスマートフォンをポケットから取り出した。
画面には、もう緑色の文字列も、アオイの警告メッセージも表示されていない。ただ、いつもの見慣れたホーム画面が冷たく光っているだけだ。
けれど、キシは知っている。
自分の胸の奥には、あのみっともなくて、けれど狂おしいほど熱かった「世界のバグ」の記憶が、永遠に消えない大切なノイズとして刻まれていることを。
「……よし」
キシは100円の時計をポケットにしまい、スマートフォンの画面をしっかりとタップした。
明日からの大学生活が、急に薔薇色になるわけじゃない。孤独が完全に消えるわけでもない。
それでも、彼はもう目を逸らさない。
2026年。
世界屈指の電脳都市の喧騒に背中を押されながら、大学1年生のキシは、自分の「現実」に向かって力強く一歩を踏み出した。
(第3章・本編 完結)




