第3節:タイムライン――2/3
――4. 1998年の包囲網――
「うそ……私の手が、すり抜ける……?」
サツキは自分の手のひらを見つめ、愕然と立ち尽くしていた。
世界がアオイを、そして「書き換えられた1998年」を肯定した今、2026年の記憶に固執するサツキの存在強度は、この街においてアキバの路地裏の幽霊よりも薄くなっていた。
中央通りの喧騒は、どこまでも眩しく、どこまでも残酷だった。
マツモトキヨシの派手な黄色い看板、路上で怪しいジャンクパーツを売る露店、まだ開発の「か」の字もない駅前の薄暗い風景。すべてが、30代後半のサツキが少女時代に確かに目撃したはずの、リアルな過去そのものだった。
「ねえ、お兄さん。もう諦めなよ」
アオイがキシの腕に再び細い手を絡め、ぎゅっと抱きついた。
その体温は、今度は冷たくなかった。生々しいほどに温かく、柔らかい。16歳の高校生としての「実体」を完全に得たアオイは、この狂った世界で唯一、キシを全肯定してくれる絶対的な存在だった。
アオイはめちゃくちゃに可愛い笑顔をキシに向け、その耳元で愛おしそうに囁く。
「サツキさんは、もうすぐ消えちゃう。この世界に馴染めないエラーデータだから。でもお兄さんは違う。お兄さんは僕を見つけてくれた『特別』だもん。僕と一緒に、この最高の1998年で、ずっと新番組の『アルカディア』を観て暮らそう?」
少年の透き通った瞳、甘い匂い、そして孤独を完璧に埋めてくれる優しい言葉。
キシの脳内で、2026年の大学の退屈な講義、誰にも話しかけられなかった昼休みの食堂の風景が、急速に色褪せていく。「あれはただの悪い夢だったんだ」と、脳の細胞が勝手に記憶を書き換えようとしていた。
「俺……は……」
キシの瞳から、ゆっくりと光が消えかけていく。
―― 5. レジェンドメイドの最後のハッタリ――
「……舐め、ないで……っ!」
その時、消え入りそうに薄くなっていたサツキが、最後の力を振り絞るようにして二人の前に踏み出した。
彼女の身体はチラチラと走査線のようにブレ、今にも背景の1998年の雑踏に溶けてしまいそうだった。だが、その目はまだ死んでいなかった。
「アオイくん。あんた、完璧な1998年を作ったつもりでしょうけど……ツメが甘いのよ。アキバのオタクを、10年間毎日相手にしてきた私を騙せると思わないことね!」
アオイはキシに抱きついたまま、不思議そうにサツキへと首を傾げた。長い睫毛が揺れる。
「何が間違ってるの? 街並みも、ネットのデータも、みんなの記憶も、全部完璧だよ?」
「大間違いよ!」
サツキは、ブレる人差し指をピシッとアオイに突きつけた。
「いい? 1998年の5月といえば、Windows98の発売直前で、アキバのPCショップはどこも深夜販売の準備で狂ったような熱気に包まれてたはずよ! それに、当時のオタクたちが着ていたチェックシャツのネル生地は、今のペラペラなポリエステル混紡じゃない、もっとゴワゴワした質の悪い綿100%だったわ!」
「え……?」
アオイの完璧な美貌が、初めて微かに強張った。
「あんたがネットのデータから再現したこの街は、2026年の人間が『こうだったんだろうな』って都合よく想像した、綺麗すぎる高解像度(HD)の幻よ! 泥臭さも、当時の本当の空気の重さも、何一つ再現できてないわ! そんなスカスカな偽物の1998年に、私の大切な思い出を上書きされてたまるもんですか!」
―― 6. 2026年への未練――
サツキの、執念とも言える「超局所的なオタクの知識」が、1998年の空間に目に見えない亀裂を入れた。
パリィン!と、ガラスが割れるような乾いた音がストリートに響く。
アオイの足元のコンクリートが一瞬だけ、2026年の小綺麗なインターロッキングブロックの舗装へと剥がれ落ち、また元に戻った。
「サツキ……さん……」
キシの目が、その音でハッと正気を取り戻した。
腕に絡みつくアオイの温もり。それは確かに心地いい。でも、サツキが命を削るようにして叫んでいる「みっともなくて、泥臭い現実」の拒絶が、キシの胸の奥にある、ジャンク屋の血を呼び覚ました。
「アオイ……ごめん。俺、やっぱり、ここにはいられない」
キシは静かに、しかし確かな意志を込めて、アオイの身体を自分から引き離した。
「なんで……!?」
アオイの大きな瞳に、みるみるうちに絶望の涙が溜まっていく。その胸が締め付けられるほどに可哀想な表情は、キシの心を激しく痛めつけた。
「お兄さんも、僕を捨てるんだね。こんなに綺麗な世界を作ってあげたのに……!」
アオイの声が低く響いた瞬間、周囲を歩いていた1998年のオタクたちの足が、一斉にピタリと止まった。彼らはロボットのようにギギギ、と首を回し、怨嗟の籠もった無表情な目で、キシとサツキの二人をじっと見つめ始めた。
「だったら……無理矢理にでも、ここにいてもらうよ」
可愛らしい少年の口から、地割れのような重低音の声が漏れ出す。世界の崩壊を伴う、最後の強制フェーズが始まろうとしていた。




