第3節:タイムライン――1/3
―― 1. 歴史が反転する音――
ラジオ会館の最上階から、半壊したエスカレーターを駆け下り、キシとサツキは再び駅前広場へと脱出した。
しかし、外の空気は一変していた。地鳴りのような重低音が街の底から響き渡り、空間そのものが数秒ごとに激しくブレる。まるで、2026年という現代のフィルムの上に、1990年代後半のネガフィルムを重ね合わせて、力任せにノリで貼り付けているかのような異様さだった。
「キシくん、スマホ見て……! ノイズが消えたわ!」
サツキの悲鳴のような声に、キシはポケットから自分のスマートフォンを引っこ抜いた。
画面を覆っていた緑色の砂嵐は綺麗に消え去っている。しかし、そこに表示されている液晶の画面は、2026年のそれとは全く異なっていた。
「電波が……繋がってる。でも、これ……っ」
画面の最上部、通信事業者のロゴの横には『3G』の文字が冷たく輝いていた。
そして、自動的に同期されたスマートフォンの時計は、あり得ない数字を刻んでいた。
『1998年 5月25日(月)』
「年号が……戻ってる? いや、違う。書き換わったんだ……!」
キシの手がガタガタと震える。
ネットを開くと、いつも使っているSNSのアプリはすべて消滅していた。代わりに立ち上がっていたのは、化石のようなテキスト主体の掲示板や、個人が運営する「テキストサイト」の数々。
そして、そのすべてのトップページに、驚くべき「客観的事実」が記載されていた。
『【速報】アニメ「アルカディアの残光」、劇場版制作決定!』
『今だから語ろう。95年のテレビ版「アルカディア」が僕らの人生を変えた理由』
検索エンジンで『2026年』や『令和』と打ち込んでも、結果はすべて『該当するページはありません』。
ただの「個人の記憶の錯覚」ではない。ネットの集合無意識(視聴者たちのノスタルジー)が、世界中のすべてのサーバーのログを、メディアの記録を、歴史の教科書を――「アルカディアが空前の大ヒットを記録した1990年代」へと、強制的に塗り替えてしまったのだ。
―― 2. すれ違う「平成の亡霊たち」――
「そんな……じゃあ、私たちの生きてきた2020年代はどこにいっちゃったのよ……!?」
サツキが声を荒らげて周囲を見回す。
中央通りを歩く人々の服装は、完全に90年代後半のそれに統一されていた。ルーズソックスを履いた女子高生、ダボついたチノパンにリュックを背負ったオタクたち。誰もが楽しそうに、そしてごく自然に、その「1998年の日常」を生きている。
彼らにとって、数分前まで存在していたガラス張りの高層ビルや、スマートフォン、VTuberといった2026年の文化は、「最初から存在しない幻」だった。
世界は完全に、システム(アオイ)の手によって肯定され、再構築されてしまった。
「お姉さん、お兄さん。まだそんな顔をしてるの?」
歩道に設置された、旧式のカプセルトイ(ガチャガチャ)の筐体に腰掛け、アオイが二人を見ていた。
黒い詰襟の学生服。その輪郭は、先ほどサツキの拒絶によって受けたデジタルノイズをすっかり克服し、以前よりもはるかに強固に、そして息を呑むほど美しく物質化していた。
世界がアオイ(過去)を肯定したことで、彼の存在強度はマックスに達していた。
アオイはトコトコとキシに近づき、その端正な顔に満面の笑みを浮かべた。高校生特有の、瑞々しく、めちゃくちゃ可愛い笑顔。彼はキシの腕に自分の細い腕を絡め、甘えるように体重を預けてくる。
「ほら、スマホを見てよ。もう誰も君を無視しない。ネットを見れば、みんな君のアップした動画から始まった『アルカディア』の話で大盛り上がりだよ? 君はこの世界の、最高のヒーローなんだ」
アオイの体から放たれる、圧倒的な多幸感とノスタルジーの波。
キシの脳裏に、現代の退屈な大学生活、孤独だった自分の部屋の景色が、まるで「悪い夢」であったかのように急速に薄れていく感覚が襲った。
(ここにいれば……この子が隣にいてくれるなら、もう、何もいらないんじゃないか……?)
―― 3. 孤立無援の二人――
「離れなさいって言ってるでしょ!!」
サツキがアオイの手を引っ剥がそうとする。しかし、今回は違った。
アオイの身体はびくともせず、逆にサツキの手が、アオイの身体をすり抜けるようにして空を切った。
「あ……」
アオイはサツキを憐れむような、ひどく寂しげな目で静かに見つめた。
「無駄だよ、サツキさん。だって、この世界の何億人という人間が、今のこの『1998年』を本物だって信じてるんだ。二人の『2026年の記憶』なんて、もうどこにも居場所のない、ただのシステムエラーなんだよ?」
アオイの言葉の通りだった。
通りを行き交うオタクたちが、奇妙な私服を着たキシと、パーカー姿で取り乱すサツキを、「なんだあいつら?」と不審な目で冷たく見始め、避けるように歩いていく。
世界から切り離され、完全に孤立した大学1年生のキシと、30代?のサツキ。
過去という名の巨大な怪物が、二人の足元にある「現代」の床を、完全に消し去ろうとしていた。




