第五十三話 鳴等途
サフィナの件であたふたしていた昼や夕方とは反対に、とても静まり返った夜。広岡は一人、庭にある小さな噴水の縁に座りながら夜空を見上げていた。ここでは噴水の微かな水の音が心地よい。
そうしてリラックスしていた広岡の頭の上には、いつもと変わらず仄かに発光しながら寝ている光がおり、夜の中だと少し目立つ。
そして自分の隣に突然現れた、中性的でとても美しい相手に広岡は話し掛ける。
「やぁ、鳴等途さん」
広岡が視線を隣に向ける。そこに居たのはナイアーだった。鳴等途と呼ばれたナイアーは、クスクスと笑って広岡を見る。
「おや、名前をバラされちゃったか」
「眼鏡を掛けた黒髪の綺麗な女だってさ」
「その時はそういう姿にしてたからね。ほら、こんな感じでね」
ナイアーはそう言いながら、自身の姿を変化させた。いつもの中性的で褐色の美しい姿とは違い、色白で眼鏡を掛けており、声も骨格も女性的になっている。長い黒髪もポニーテールになり、身に纏っている服装も女性的だ。しかし、赤い目と美しさは変わらない。
その姿を見せた後、ナイアーはすぐにいつもの姿へと戻る。そんなナイアーを見て、広岡は顎に手を当てながら問い掛ける。
「さっきの見た目で鳴等途はちょっと違和感を感じないかい?」
「そう? 名前なんてそんなに深く考えて決めてないよ。今回の鳴等途もほぼ当て字だし。まぁ、そのまま楢の木の楢、戸棚の戸で楢戸でも良かったんだけど、それだと普通すぎるかな~って」
「それならもう、山田ニャルラトホテプとかにすれば」
広岡が雑に提案した名前に、ナイアーが珍しく驚いた顔をして、そのまま広岡を見る。
「山田ニャルラトホテプ!? 語感悪! それならもう山田は外した方がいいよ。それか山田鳴等途で合体させるか……いや、山田仁矢流って名前にするのも……」
「それはそれでちょっとな……仁矢流ってもう殆どそのまんまじゃん」
「山田ニャルラトホテプより何百倍もマシだよ」
ナイアーは広岡にジト目の顔を近付けてそう言った。
広岡は軽く笑った後、少し声を低くしてナイアーにとある事を聞く。
「……ていうかさ、キミは今回の件で満足できたかい?」
ナイアーは小さな噴水の縁に座っている広岡の横に座り、美しい笑顔を向けて返答する。
「それなりに。最近ヒマでしょうがなかったんだよね。そしたら面白そうな事をしている天使を見つけたからつい、ね。それに、まさかミ=ゴがここにいるなんて思わなかったよ。……まぁ、あの爆発に巻き込まれて死んじゃったけど」
愉悦を感じている表情でそう話しているナイアーに対し、広岡は『ミ=ゴ』という単語に、あぁ……という表情をした。
「脳みそ云々の時点で察してた。……居たのは一匹だけ?」
「ええ、一匹だけ。しかも結構弱ってる様子だった。何かしらに巻き込まれたか、誰かが飛ばしたか……今の私には分からないね」
今のナイアーの言葉が嘘かどうか、広岡には知る術がない。しかし、おそらく嘘ではないだろう。
そうでなければ、エンセのやろうとしていた事と話が合わない。『ミ=ゴ』が持つ脳缶の技術を知らなければ、急にあんな発想にはならないし、実際に行動を起こす事もないだろう。
「そっか……」
広岡の小さな呟きは、後ろにある小さな噴水の音でかき消された。
そして、ここに居ない筈の低く圧のある声が広岡とナイアーの後ろから聞こえた。
「やっぱそうだよな」
広岡は声のする後ろへと視線を向ける。
そこにいたのは棚部だった。いつものオールバックではなく前髪を下ろした状態で、リトルシガーを吸いながらこちらへ歩いてくる。服装もシャツ一枚というラフな格好だが、サングラスは変わらず着けたままだ。
「本貴さん、どの辺りから聞いてた?」
「山田ニャルラトホテプの途中から全部聞いてた」
「んははっ、驚いた時のナイアーの声、結構デカかったもんね」
広岡はあまり大きくない声で笑う。隣にいるナイアーは「そんなに大きい声は出してないよ」と訂正している。
実際にナイアーはあの時、そんなに大きな声は出していない。寝ているブレイクやサフィナたちを起こすつもりは特にないからだ。
そんなナイアーに、棚部はリトルシガーを見せながら、自分の部屋にあるベランダに視線をやった。棚部はそこでリトルシガーを吸っていたのだろう。
棚部の部屋である101号室は、広岡やブレイクたちの一人部屋とは違い、大きなベランダがある。そのベランダは小さな噴水のある庭と近い。
つまり、ベランダという実質外に居た棚部だから、ナイアーの声が聞こえたのだ。
「吸ってたらお前らの小さな声がしたんでな。そんでさっさと一階に降りて庭へ来て、それなりに気配を消して聞いてたが……ナイアーは気付いてただろ」
「そりゃあ気付くよ」
ナイアーはにっこりと笑って棚部を見る。
棚部はナイアーとは反対の広岡の横に座った。ナイアー、広岡、棚部という並びで、噴水の縁に座っていることになる。
隣に来た棚部に、広岡はリトルシガーを指差しながら話す。
「鼻炎で鼻がイカれてる僕でもなんとなく気付けるぐらいには、キミのリトルシガーの臭いは結構キツいからね」
「あぁ、それもそうか」
棚部はそのリトルシガーを吸って煙を吐いた。その煙はある程度上へ上がると、夜の中で暗闇に溶けて消えた。
「にしてもミ=ゴか……」
そう呟く棚部に、ナイアーが少しだけ前のめりになりながら、棚部にニコニコと笑みを向ける。それは、見る人によっては心を奪われる美しさだ。
しかし、ナイアーに笑みを向けられた棚部や、それを近くで見ている広岡は何一つ心が動かない。
「鳴等途が私だった事に言及しないのかい」
棚部はサングラス越しにナイアーを見ながら口を開く。
「察しのいい奴なら、有益な情報を渡してきた黒髪美人でなんとなく分かる」
その棚部の言葉に、広岡は「だろうね」と言いながら少し笑う。
そしてそのまま、広岡は棚部に問い掛ける。
「ミ=ゴも大体把握できてたてじょ?」
「あぁ、ミ=ゴなのは分かってた。問題はなんで弱ってたのか、それと何故あの実験場にいたのか……って事だな」
棚部はリトルシガーを吸いながら、悩むようにして言った。
広岡が思うに、後者は幾らでも想像の余地がある。問題は前者の方だ。なぜ弱っていたのか。弱っていたと言っても、どの様に弱っていたかが分からない。ただ、広岡はこの世界に来たばかりのナイアーを思い出しながら、隣にいるナイアーへ視線を向けて口を開く。
「そう、それなんだよ。ナイアーも最近は本調子っぽいけど、最初の頃はあんま元気なかったよね? それと何か関係がある……?」
「うーん、そうだね……この世界は慣れるまでが大変なんだけど、ミ=ゴがそこまで影響を受けるものかと言われると微妙かな。別の要因があったと考えるのが自然だね」
ナイアーは底の見えない表情のまま、思ったことをそのまま言った。
広岡の質問に対するナイアーの答えに、棚部は少し考える。ナイアーの言うことを信じるのなら、『ミ=ゴ』を弱らせた犯人として一番最初に上がるのはやはりエンセだろう。しかし、確証はない。あくまで可能性が高いだけだ。
「別の要因としてありえそうなのは、やっぱエンセか?」
「うーん、その可能性は高いけど、こればっかりは今の僕たちじゃ分からないかな。どうにか調べるしかないんじゃない? とは思うけど、別にそこまでミ=ゴの優先順位は高くない。時間があって調べられそうなら、とりあえず調べとくかぁ……ぐらいでいいと思うよ」
棚部の疑問に広岡は軽い口調で答える。
広岡の言う通り『ミ=ゴ』の優先順位はそこまで高くない。ナイアーが言ったように『ミ=ゴ』が既に死んでいる場合、その真相を知るのはエンセぐらいだろう。そしてそのエンセは現在捕縛されているため、今すぐ聞き出すのは難しい。
「まぁ、当事者であるミ=ゴはもういないし、エンセにも当分の間は会えんだろうからな」
そうポツリと呟いた棚部を横目に、広岡は人差し指を立てながら、棚部に顔を向けてこう言った。
「それに今一番用心しなきゃいけないのは、サフィナの件とブレイク本人だからね」
「そうだな。……何も解決できないまま、問題だけが増えていく……」
顎に手を当てながらそう言う棚部を横から見ていた広岡は、普段と変わらないニヒルな笑みで棚部にこう伝える。しかし、そのニヒルな笑みの中には、微かな棚部に対する心配が見て取れた。
「あぁ、それと本貴さん。あんまり頑張りすぎないようにね。キミが思ってる以上に、キミは人外化が進んできてる」
「あー……知ってる」
棚部は広岡の指摘に低い声で答える。その声からは心労や憔悴を感じる。
そんな棚部に広岡は、彼の下ろした前髪に軽く触れてこう言う。
「前髪を下ろすと、ちょっとツノが見えるよ」
広岡はそう言いながら、自分の手を棚部の前髪から、頭の上で少し見えるツノの先へ移動させて触る。
そして空いている片方の手で、広岡は懐から小さな鏡を出し、棚部にツノが見える角度へ向けた。
棚部はその鏡に映ったツノの先と、それを触る広岡の手を見て小さく呟く。
「……マジか」
「あの子たちの前では髪を下ろせないね。まぁ、キミは風呂の時と寝る時以外で下ろさないから、気を付ければ大丈夫だとは思うよ」
広岡は少し優しい笑みを溢しながら、棚部のツノから手を離した。
そんな広岡の隣にいるナイアーは、口に手の甲を当てながら上品に笑う。そして視線を棚部の髪から少し見えているツノの先へと移す。
「ふふ、これからどんどん大きく、逞しい二本のツノになるんだろうね。私は楽しみだよ。キミがいったいどんな人外になるのか、ね」
「俺は楽しくねぇ……」
ニコニコと笑っているナイアーとは反対に、棚部はため息をついて項垂れる。
そんな二人を横目に広岡は、いつのまにか頭の上から肩へと移動していた光を撫でながら、元いた世界と全く同じ様にしか見えない星空と月が浮かぶ夜空を眺めた。




