80 忘れろ。身分違いだ
ピノは、王城に戻るまで目を覚まさず、ずっと俺が抱えていた。
執事見習いになったばかりの俺は仕事のこともわからず、ピノをどう扱うべきかもわからなかった。
先輩の執事に尋ねると、ピノを客用寝室に運ぶよう言われた。
俺の知り合いである。だが、それも本人が目を覚まさないと、はっきりとはしないのだ。俺の知っているピノには尾鰭があった。本当に同一人物かどうかの確認ができていない。
俺が知らない他人の空似だとしたら、ただの行き倒れである。客用寝室に運ぶのは不思議だった。俺が尋ねると、王子の指示だと言われた。
素性もわからない行き倒れを客扱いするとは、やはりこの国には危機感が欠けていると思いながら、俺は王子の優しさに感謝した。普段は横柄で威圧的だが、根はいい人なのだ。
客用寝室にピノを運び、俺はしばらくその部屋にいた。
ピノが目覚めるのを待ちたかった。仕事だと呼び出された。ピノに回復魔法をかける。今なら効くはずだ。
あとは、自然に目覚めるだけだ。
俺は呼び出されるまま、仕事に向った。
ピノが目を覚ましたと聞かされたのは、その日の晩のことだった。
俺は1日かけて仕事のイロハを叩き込まれ、閉口していた。疲れていたが、仕事が終わると急いでピノの部屋に向った。本当にピノかどうか確かめたかったし、疲れていた俺はピノと話がしたかったのだ。
客用寝室の扉を開けると、意外な光景が飛び込んできた。王子がいたのだ。
絨毯の上に膝を突き、豪華なベッドから伸びた白い手に口づけをしていたようだ。
俺が部屋に入ると、王子が立ち上がった。
「取り込み中だ。それに、婦人の部屋に突然入ってくるなど、執事見習いとしても礼儀をわきまえなさすぎる」
「失礼いたしました」
王子は何をしていたのだろう。ピノはどんな表情で王子の行為を受けたのだろう。
俺は複雑な思いで背を向けた。
その時、背後で重い音がした。
俺が振り返ると、寝間着姿のピノが、絨毯の上に落ちていた。王子が止めようとしていたのを、振り切って落ちたようだ。
「ピノ?」
絨毯の上から俺を見上げ、ピノは一生懸命に頷いた。俺に向って細い両腕を伸ばしている。俺は、急いで駆け寄った。
王子が助け起こそうとした手を振り払い、ピノが絨毯の上を這い進む。
「止まれ」
王子の言葉は、俺に向けられていた。
俺の喉に、剣の切っ先が当てられた。
「拾ってやった恩を、仇で返すのか?」
「こ、この子は……ピノは、俺の知り合いです」
「そうだろうな。見ればわかる。だが、忘れろ。身分違いだ」
「……身分……違い……」
今日拾ってきたばかりのピノは、確かに海底の姫だ。それは間違いない。だが、王子は本当にそのことを理解して言ったのだろうか。
「今日から、后候補となる。余以外の男が手を触れることはまかりならん」
「ピノ……どういうことだい?」
ピノは自分の喉を指し、首を振った。声が出ない。俺はすぐに理解した。
人魚姫の童話を思い出す。足をもらい、代わりに喉を失う。
どうして、こんな異世界で、俺の世界の童話に忠実でなければならないのだ。
「ピノ……俺を……」
最後まで言えずに、王子の剣の切っ先が俺の肌を割り、血が垂れた。ピノが顔色を変えた。足に力を込め、立ち上がろうとしていた。足元がふるえている。足を生やしたばかりで、力の入れ方がわからないのだろう。
「もう、戻れ。この娘に今後近くことは許さない。ああ……一つ、教えてくれ。この娘は口が利けないらしいからお前に尋ねるのだが……生娘だと思うか?」
俺は少しだけ逡巡した。違うと言えば、王子はピノに興味をなくすのではないだろうか。だが、ピノは人魚であった頃、たぶん卵生だ。無精卵を生んだことはあったかもしれない。それは俺にはわからない。
解っているのは、足を生やして、流されて打ち上げられたばかりだということだ。
ピノを汚すわけにはいかない。
「間違いありません」
「……そうか。安心した。行っていい」
「……はい」
俺は退出した。ピノは最後まで、扉が閉まる瞬間まで、俺に向って両手を伸ばしていた。俺には、その手に応えることはできなかった。
翌日から、俺はピノを忘れようと、与えられる仕事に集中した。執事の仕事は大変だった。王族が覚えるべきことの全てのことを、代わりに覚えなければいけないらしい。
仕事だけではない。本来の目的は別にあるのだ。俺は近衛兵士に近づき、街の治安や、海沿いに面したこの城の脅威となる存在について聞いてみた。
結果として、特にいないらしいと解った。何を心配しているのかと、逆に聞き返された。
海賊はどこかにいるだろうが、少なくともこの近くにはいないらしい。
本当に平和な国なのだ。少なくとも数週間ののちには海賊船に襲撃されることなど、言っても無駄だろう。逆に、俺の方が疑いをかけられる。
黙っているしかない。執事見習いをしてみてわかった。俺は、牢に繋がれることに慣れすぎだ。普通は、あれほど酷い仕打ちを受けたりはしないし、受けた者は死んでいるのだ。
俺は数日を執事の見習いとして過ごした。その間に事件は起きず、俺はただ忙しく過ごしていた。
異世界に来たからといって、戦うばかりが能ではない。こういった暮らしも悪くない。俺もそう思い出していた。
カロン少年は、頭はよかったという噂だ。中身の方がだめでも、もともとの出来がいいのなら、頑張れば執事になれるだろう。執事は立派な仕事だ。そのうち、ファニーを迎えに行く金も貯まるかもしれない。
勝手にそんなことを考え出していた時、俺は現実に引き戻された。
夜遅くまで働き、ようやくあてがわれたベッドに潜り込む。
先客がいた。暗いので誰かわからなかった。
ベッドを間違えたかと思った。
出て行こうとしたら、腕を掴まれた。
冷たい手だった。
細く、しっかりとした手の感触に、俺は固まった。
シーツを頭からかぶっていた。シーツを剥ぎ取る。
見事な黄色い髪に、白い肌、澄んだ瞳は海中にいた時よりも美しく感じられた。
「ピノ?」
ベッドの中から、ピノはしっかりと頷いた。
「どうした? 体は大丈夫なのか?」
ピノは頷いた。自分の喉を指差し、声が出ないことを改めて訴える。海底の民は文字を持たない。筆談もできない。
「この脚は、どうした? 尾びれは?」
ピノは首を振る。俺は、童話を思い出した。
「……声を引き換えに……足をもらったのかい?」
ピノは嬉しそうに笑った。意思が通じたのが嬉しかったのだろう。
「ひょっとして……こんなことを言うと……笑われるかもしれないけど……俺を追って来たのかい?」
ピノは笑わなかった。俺の手を取り、握りしめた。顔を寄せ、俺の胸に、額を押し付けた。ぐりぐりと押し付ける。俺は、ピノの肩を抱いた。海中ではずっとむき出しだった肩が、柔らかい夜間着に包まれていた。服を着た現在の方が、ずっと扇情的に感じられた。
「……どうして……」
俺は抱きしめられた。まるで、叱られているようだと思った。それだけ、強く抱きしめられていた。ピノとしては、力一杯抱きついているのだろう。
「……ホライ・ゾンの呪いは、まだ俺の体の中にある」
ピノは頷いた。
「誰かの……中に出さないと、ホライ・ゾンの命令に逆らえない」
ピノは頷く。
「だから……誰かを見つけないと……」
ピノは顔を上げた。震える手で、自分の顔を指差した。
「ダメだ。その後で、ホライ・ゾンを殺せれば助かる。でも……ホライ・ゾンは強い。俺が負けたら、ピノも死ぬんだぞ」
ピノが頷いた。覚悟はできているとでも言うのか。
「それに……ホライ・ゾンがいつ来るかもわからない。あまり早いタイミングで呪いを外に出すと、戦う前にピノが死んでしまう」
ピノが両手を上げた。指が7本立っている。
「七日後? 七日後に、ホライ・ゾンがこの国に?」
ピノが首肯した。その時、俺の背後で扉が開く。
そこに、王子が立っていた。




