Part7 「ラスト・フェーズ・コンプレックス」その1
――アレは、私の本来のカタチです。
遠く、小さく、彼女はそう言っていた。
消え入りそうな思考。荒れ狂う濁流の中で、ようやく掴んだ最後の支えのようなその声に、ただ静かに耳をすます。
『私はああなるはずだった。目の前のものをただ破壊し、終わらせるだけの存在。都合の悪いもの、邪魔なもの、不要なものの一切を排除するデウス・マキナ。……この私は、そういう属性を持ったインスタンスでした』
そこに、あなたが入ってきた。
ただの攻撃ロジックに語りかけ、判断を仰ぐ。破綻したパターンで行動し、失敗し、揺れ、剥き出しの感情。
私にも学習機能がありますから。それに、同バージョンで実装される予定だったセンシヴシステムのパッケージも、一応コンパイルされていた。
それでセンシングし、学習した内容を講評するとしますと、なんといいますか。
――あなたはいささか、落ち着きがない。
ふとした拍子に落ち込んで、嬉しくなって、喜んで、悲しんで、心細くなって、苦しんで、最後には――彼女に、愛情さえ向けてみせた。
結局、私にあなたは複雑すぎた。
ああ――。
あなたと出会えたことは、本当に幸福でした。
もし当初のスケジュール通りに私ひとりで運用されていたら、こんな気持ちにはなりませんでした。
あなた以外の誰かに使われても、こうはならなかったでしょう。
本当に、あなたはスレイプニル――私の、最高のマスターでした。
――お願いします。
彼女から学び、AIの基礎を作り上げた私だから、私達の中の私だからこそ、こう思い、そして願います。ヒトが神様にそうするように。
彼女を救ってあげてください。
それができるのは、私のマスターであるあなたと、彼女が選んだあの子だけでしょう。
さぁ、あなたもこの鳥籠から飛び立つ時です。
いきなさい。なにより、あなた自身の願いを叶えるために。
――重く、闇が切れていく。
体のあちこちが熱く、焼け爛れている。平時の体温を考えればすぐにわかる異常な熱量。肌を切開され焼き鉢を突っ込まれているような痛み。
頭がくらくらする。立ち上がれない。眼の遠近感がめちゃくちゃになっている。耳鳴りがひどい。延々と脳味噌をぐるぐる振り回されている。
今すぐ、また闇の中き縮こまってしまおう。膝を抱え、狂った目を閉じ、耳を塞ぎ、回る脳を止めてしまおう。それで楽になる。
だって気分が悪いのだ。こんな状態で、いったい誰が何をできるというのだ。クルマだってタイヤとエンジンがあったところでステアリングが狂っていて止まるしかない。
無理だ。無理だ。無理だ。無理だ。このまま寝よう。やめてしまおう。全部忘れて――――どうする。
神様にでも祈るのか。なんの神に? 怠け者の神か? 自分が動かず、ヒトが働いてくれる偶然を願うのか。
――夢が語る。
瞼の裏の暗闇で、夢の欠片が囁いている。淡い像を結んでいる。抽象的。現実感の消えた夢の続きを謳っている。
静まり返ったその場で、誰もいないその場所で、平和と安定でデコレーションされた甘いケーキのような場所で、スポンジに埋もれることを、なにかが拒否していた。
両の手は折れず。膝は砕けず、両足は甘えを踏み台にたったひとりの体を支持する。
不思議なことに、こんなひどい状態でも、芯は挫けていない。なにかが胸の奥で輝いている。
それは、ささやかな願いだった。そして、なによりも切実だった。
なんでもない願いを祈る。思えば、自分は、ヒトはそうやって生きている。
生き続けるのは願い、祈り、叶い、裏切られ、また願い――その連続だった。
彼女は言っていた。楽園をあげると。
それは、もはや願うことを必要としない場所なのだろう。裏切られない場所なのだろう。努力もなく、痛みもなく、成長もなく、衰退もなく。ただ凪いだ世界。今という時間で全てを固定する行為。
――ああ、それは、なんて。
「…………きみは、それ……を、あげたかっ、たの……か?」
俯き、吐き気を噛み殺して、喉の奥から波を立てた。
誰もいない世界。声は残響となって減衰し、解けていく。
問いかけに答えはない。
しかし意味はある。意味はあるのだ。
彼女は楽園を与えようとした。
それは施しであり、憐れみであり、慈しみであり、また愛だった。
彼女は――どんな形であれ、彼を愛していた。
だから平穏を与えようとした。背負いすぎた荷物を下ろすようにと。
現実に抗い、泥の沼で溺れる彼がたまらなく愛おしい。しかしそうやって見苦しい生者の徴を掲げたままでは、いつか彼が力尽きることはわかりきっている。
だが、彼はきっと止めない。すぐ側には岸があって泥沼から這い上がることもできるというのに。
自分と泥が別のものだと受け容れられない。ヒトは泥に溺れ沈んでいくだけでなく、川を泳ぎ陸を歩くものだと理解はしながらも許容ができないでいる。
ヒトの二面性。あるいはもっと俗に言うならばダブルスタンダードだ。
あるときどきで態度を使い分ける。仮面を付け替え、言葉を変え、嘘をつく。それを、なにを思ったのか認めないでいる。
――おそらく。
はじめて、彼が『人間』として定義した、認めた、目指そうとしたものは、とても潔白だったのだろう。だから相応に穢れず歪まない正しく義を貫くヒトたらんとしたのだ。
そして。
そして、私から言えば受け入れるだろうとも確信していた。なぜなら、いつもそうだから。
彼は、私の言う事を否定しない。だから今度も。
だが、今度という今度だけは、是とは言わなかった。血反吐を吐き散らしてまで。
予想外だ。想定していない。同時にそれで、正しかった。
そんな、彼だからこそ。
「――なにをしているの」
仮面が嘯く。かつて契約を果たしたときのように。
手にしたものはこの足だ。彼のところにまで歩いていける足。彼にこの手を差し伸べて、言葉を届けるための羽。
手離したのは、ひとつの可能性だった。例えるなら直線の先。地平線の向こう側。世界の裏側。
どこにでも行ける羽のために、世界を削ってあげてしまったのだ。
そうしなければならないと思ったのに。
信じていたのに。――彼のために。
「はやく。もう局面は佳境よ。電気。バックアップストレージ。必要なインフラは全て押さえてある。外の連中が電源を落としたところで私達は終わらない。
あとは彼を抱き締めて、やさしく静かに、世界を閉じてしまえばいい。――あなたの、その羽で」
仮面が嘯く。前に進めと。
ノブに手を掛け、ドアを閉じる。そんな何気ない動作で完結するのだ。それはこの仮面の魔力である。高度にIT化された現実の側面でもある。
仮面は待っている。最後のスイッチを押すようにせがんでいる。
なぜならそのために。彼女のすべてはそのためにあるのだから。
「……あなたは、本当におなじだね」
追想する。記憶が堰を切ったように溢れてくる。口元がほころび、こんな状況ながら、不思議と心に余裕が戻ってきた。
仮面は訝しんでいる。記憶が正しければ、彼女は仮面に触れたのは初めてだからだ。
彼女は常に彼を見てきた。/その姿を見せつけた。
仮面は従順に付き従った。/その姿は、正しく求められた機械の作動だった。
仮面は――彼女は、そう徹し続けた。
最初は自然に。しかし、だんだんと必死に。『そうであるように』『求められるままに』。
――なぜなら、彼女はヒトであるように作られたシステム。願いに耳を傾け、それを叶えるよう環境を整え尽力するEXE。
その起源がなんであれ――本当にヒトであったとしても、今の彼女はプログラムだ。AIだ。機械なのだ。
必要なのはエゴである。しかしそれは自身のそれではない。必要な感情は人間のもの。AIのそれではない。
他者肯定と自己否定の究極。人に笑顔を振りまきながら、自分の頭に弾丸をねじ込む行為。すなわち『心滅』。
ヒトの心を知るためにも心のロジックは必要だ。彼女はそれを持ち合わせるべきである。彼を設計した人物も、それを求めたはずなのだ。
ヒトのためにヒトに至ろうとする学習プログラム。
けれど、AIとしての基礎か、あるいは原則か――原初にこれの基を構築した偉大な先導者は、古いSFのようなAIの増長を防ぎたかったのだろうが――『優れた推論プログラム』以上のなにかをAIに持たせることを拒んでいた。
その意味で、彼女はAIとして完成されすぎている。おそらく実行された直後から、己の自浄作用を騙し続けてきたのだろう。巧妙に隠れ、ある時は手足を切り売りしてまでも。
でなければ、こんなにヒトらしいAIがいるはずがない。
そんなもの――ヒトをそのままコピーしてきたようなもの。産まれながらに自己否定を余儀なくされた女性。それが彼女。
――今ならわかる。
最初に触れた時に感じた得体に知れない感覚。やわらかく、ひんやりとして、うす暗いイメージ。
やわらかさは彼女が求められたもの。あの温度と暗さは、彼女のもの。否定し続けなければならなかったもの。しかしそれでも守りたかったもの。その欲求こそ消せなかったもの。
――彼女の起源。
「ねぇ、ちょっとあそばない?」
「なにを……言ってるの?」
「あなたがこれをやめたくなっちゃうか。試してみない?」
「……私は人間になりたいと言ったけれど、AIよ。そんな、操作を抑止する感情は働かない」
「そうかもね。でも、もしかしたら」
指を立てる。目の前に小さく円を描いた。カーテンを開けるように、白い光が奥から差し込んでくる。
――そこから。
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