利権に群がる亡者たちと、完全なる合法の檻
東部領地の復興が始まってからというもの、私を取り巻く環境は、目に見えない巨大な潮目のように変化していた。
私が書き上げた指示書は、アルベルト殿下の主導のもとで正確に運用され、滞っていた魔石の流通は劇的に改善された。結果として、王都の冬の備えは完璧なものとなり、市場は活気を取り戻している。その功績の対価として、ブライト公爵家の口座には毎月、東部税収の二割という、個人が所有するにはあまりにも莫大な富が「ロイヤリティ」として振り込まれ続けていた。
しかし、私がその富を実感することはほとんどない。
なぜなら、この高台の別邸から一歩も外に出る必要がないほど、カイル様が私の生活のすべてを完璧に、そして過剰なまでに満たしてくれているからだ。
「リディア様。本日の朝食は、東部で新たに収穫された最高品質の小麦を用いたキッシュと、私が昨晩から魔力で温度管理を徹底した特製の果実スープです。お口に合うと良いのですが」
白磁の食器が静かにテーブルに並べられる。カイル様は私の斜め後ろに立ち、私の髪が料理に触れないよう、細心の注意を払いながら絹のリボンで緩くまとめ上げてくれた。彼の指先が項に微かに触れるたび、心地よい緊張感が走る。
「ありがとうございます、カイル様。……それにしても、最近の別邸は、以前にも増して静かですね」
「当然です。貴女の思考を妨げるあらゆる雑音――風の鳴る音や、遠くの街の馬車の駆動音に至るまで、結界の振動周期を調整して完全に相殺しております。さらに、王宮からの定期連絡以外の書状は、すべて私が事前に開封し、貴女にとって不利益、あるいは不快を催す内容が含まれていないか、精神干渉魔術の有無を含めて厳重に検閲しておりますので」
カイル様は至極当然のように言って微笑むが、その背後にあるのは、徹底した情報統制と物理的な遮断だ。
彼が構築した銀色の多重障壁は、単に敵の侵入を防ぐだけでなく、私という存在を世界から隠し、同時に守り抜くための「完璧な聖域」として機能していた。かつて私がアシュバートン公爵家で、冷遇されながら絶え間ない書類仕事と人間の悪意に晒されていたことを思えば、この行き届いた静寂は、奇跡のような救いだった。
だが世の中には、その静寂を破ってでも己の欲を満たそうとする愚者が絶えない。
東部が莫大な利益を生み出し、その一部が「家を追われた元令嬢」の懐に入っているという事実は、王宮の保守派貴族たちにとって、到底見過ごせるものではなかったのだ。
「……なるほど。アシュバートン家の旧縁であり、中央貴族の重鎮であるクロムウェル伯爵ですか」
朝食後、書斎に届けられたアルベルト殿下からの「警告書」を読み、私は小さく溜息をついた。
クロムウェル伯爵。かつて私の父と結託し、東部の利権を不当に貪っていた男だ。今回の私の指示書による改革で、彼が密かに得ていた中間搾取のルートは完全に潰された。さらに、私に支払われる税収の二割という特権を「不当な売国行為」であると断定し、王宮の法廷でその契約を無効化しようと画策しているらしい。
「リディア様、お心を痛める必要はありません」
カイル様が、私の手から書類をそっと取り上げた。彼の青い瞳は、冷徹な氷河のように冴え渡っている。
「クロムウェル伯爵が、本日、数名の私兵と法務官を連れてこの別邸に向かっているとの情報が入っています。彼は、私が『暴力』で解決しようとすれば、それを王宮で『騎士団長による貴族への不当な武力行使』として告発する腹積もりです。小賢しくも、法という後ろ盾があれば、私の結界を突破できると信じているのでしょう」
「法ですか……。お父様たちと同じように、私を『立場』で屈服させられると思っているのね」
「ええ。ですが、彼らは決定的な勘違いをしています。私は『剣聖』と呼ばれる武人ですが、同時にこの国の法を司る最高法務貴族の一人、ブライト公爵家の当主です。……彼らが望むのが『法廷の論理』であるなら、その論理の檻の中で、二度と身動きが取れないよう物理的に粉砕して差し上げましょう」
カイル様が一礼し、書斎を後にする。その足取りには、一切の迷いも容赦もなかった。
一時間後。別邸の正門前には、豪華な紋章を掲げた馬車と、武装した十数名の私兵を従えたクロムウェル伯爵が立っていた。
彼の目の前には、陽炎のように揺らめく銀色の障壁がそびえ立っている。
「おい! 私は王宮法務審議会の議長、クロムウェル伯爵である! リディア・フォン・アシュバートンに対し、不当利得の返還、および国家機密横領の容疑での任意同行を求める! これは正式な王宮の告発状だ! 結界を解き、門を開けろ!」
クロムウェル伯爵は、羊皮紙の書類を高く掲げ、傲慢な声を張り上げた。
彼はカイル・ヴァン・ブライトの武力を恐れてはいたが、同時に「現役の近衛騎士団長が、王宮の公式な法務手続きを無視して中央貴族を傷つければ、その地位を失う」という確信を持っていた。ゆえに、この結界さえ突破すれば、リディアを言葉で脅し、利権を吐き出させることができると踏んでいたのだ。
だが、結界の内側から現れたカイル様は、抜剣すらしていなかった。
彼は門の向こう側で、冷ややかな視線を伯爵に向ける。
「クロムウェル伯爵。貴殿が掲げているその『告発状』ですが、王宮の最高法務印、および第一王子アルベルト殿下の公式な御璽が欠けていますね。法務審議会の議長権限を濫用し、私的に偽造した書類をもって、国家の特別功労者であるリディア様を脅迫する行為。……これは、王国家刑法第十四条における『国家反逆予備罪』、ならびに『違法監禁未遂罪』に該当しますが、異論はありますか?」
「な、何だと……!? 私は正当な疑義を申し立てているのだ! 一介の元公爵令嬢が、国家の税収の二割を貪るなど、法的に認められるはずがない!」
「認められます」
カイル様の声は、低く、そして周囲の大気を物理的に圧縮していくような威圧感を伴っていた。
「リディア様が結んだ契約は、国王陛下、および第一王子殿下が国家の存続に関わる『特級技能提供に対する正当な報酬』として承認した、不可逆の国家契約です。これに異議を唱えることは、王室の決定に対する明確な反逆と見なされる。……貴殿が連れてきたその法務官たちも、すでにその事実を理解しているようですが?」
カイル様が視線を向けると、伯爵の背後にいた法務官たちは、恐怖で顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら後ずさりした。彼らはカイル様が放つ、目に見えない「闘気の重圧」によって、立っていることすら限界だったのだ。
「く、くそっ! ならば力ずくでも……! おい、者ども! その結界を破れ! これは王命であると私が許可する!」
伯爵の命令に押され、私兵たちが武器を構えて結界に一歩踏み出そうとした。
「――愚かな」
カイル様が静かに、右手を前に突き出した。
彼が指を弾いた瞬間、結界の表面から、目に見えない『物理的な衝撃波』が全方位に放たれた。
――ズ、ゥゥゥン!!
爆音はなかった。しかし、伯爵の私兵たちが持っていた鋼鉄の剣や盾が、結界に触れた瞬間に「ミリ単位の塵」へと物理的に破砕され、空中へと霧散した。それだけではない。彼らが身に纏っていた鎧の金属部分だけが、カイル様の精密な魔力制御によって瞬時に高熱化し、溶け落ちて地面を焼いた。
「ひ、ひぃいいいいっ!?」
「腕が……! 武器が消えた!?」
私兵たちは、武器を失い、熱に焼かれた衣服を抱えて無様に地面を転げ回った。カイル様は、彼らの肉体そのものは傷つけていない。ただ、彼らの「武力」を、物理法則の彼方へと完全に消し去ったのだ。
「ひっ……あ、貴様……中央貴族の私を、本気で……!」
クロムウェル伯爵は膝を激しく震わせ、泥まみれの大理石に尻餅をついた。
カイル様はゆっくりと、結界の境界線まで歩み寄る。彼の足が地を踏むたびに、伯爵の背中には、目に見えない巨大な岩がのしかかるような「重力圧」が加わり、その身体を地面へと強制的に押し付けた。
「クロムウェル伯爵。貴殿が過去十年にわたり、東部領地から不正に横領していた金額、総額にして金貨四万枚。そのすべての帳簿と、貴殿が隣国の闇ギルドと交わしていた通信記録は、すでに我がブライト家の情報部が押さえ、一時間前にアルベルト殿下の元へ提出されました。……貴殿が本日ここへ来たのは、その罪が露見する前に、リディア様を人質にして王宮と交渉するためだった。違いますか?」
「な、なぜそれを……! あ、あり得ん……!」
伯爵の顔から、完全に血の気が引いた。彼は法でカイル様を縛るつもりだったが、カイル様はそれよりも遥かに精緻に、法の刃を伯爵の首筋に突き立てていたのだ。
「貴殿の爵位は本日をもって剥奪、全財産は国庫に没収。そして、貴殿とその一族は、東部領地バザル鉱山での『終身重労働』が課されることが、先ほど正式に決定いたしました。……ああ、安心してください。そこには、貴殿の良き友人であったアシュバートン前公爵や、ジュリアス元殿下もいらっしゃいます。かつての仲間たちと、泥の中で過去の罪を数え上げるといい」
「あ、あああ……そんな……私は、私は伯爵だぞ……! こんな場所で……っ!」
カイル様が右手を軽く一振りすると、突風が巻き起こり、クロムウェル伯爵とその従者たちは、門前の坂道の下へと、文字通り「ゴミのように」吹き飛ばされていった。そこには、すでに彼らを捕縛するために待機していた、王宮の憲兵団が待ち構えていた。
正門前の騒がしさが完全に消え去り、カイル様が書斎に戻ってきた時、私は窓辺からその様子を静かに見届けていた。
「おかえりなさい、カイル様。……見事な手際でしたわね」
「リディア様……! お見苦しいところをお見せいたしました。法の建前を使う羽虫でしたので、少々手続きに時間を取られてしまいました。やはり、敷地に入った時点で、彼らの存在そのものを法的に『存在しないもの』として抹消する特別措置を王宮に認めさせるべきでした」
先ほどまで一国の重鎮を冷徹に破滅に追い込んでいた男とは到底思えない、熱い、従順な瞳でカイル様は私の前に跪いた。そして、私の手を取り、その甲に深く、熱烈な口づけを落とす。
「いいえ、これで十分ですわ。彼らが私の労働を搾取し、私を道具として扱おうとした代償は、彼ら自身の人生をもって支払われることになりましたもの」
私はカイル様の銀髪にそっと触れ、微笑んだ。
かつて私を裏切り、利用しようとした者たちは、今や全員が、私が救った東部の冷たい泥の中で、一生をかけて這いつくばっている。
そして私は、この物理的にも、社会的にも、そして愛の深さにおいても最強すぎる騎士様に守られながら、誰にも侵されない聖域の中で、真の自由と幸福を享受し続けるのだ。
窓の向こうで、銀色の障壁が今日も美しく、冷徹に世界を拒絶していた。




