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国家契約の締結と、泥濘の中で知る代償

 バルトロ・フォン・ゼーゲンらの一派が王宮から完全に放逐され、東部領地へと送られてから一週間。王宮の対応は驚くほど迅速だった。第一王子アルベルト殿下の強力な主導のもと、リディアが提示したすべての条件を盛り込んだ「国家公式誓約書」が、特別な魔導馬車によって別邸へと届けられた。


 その誓約書が私の手元に届くまでには、丸一日を要した。

 理由は、カイル様による徹底的な「検閲」が行われていたからだ。


「リディア様、お待たせいたしました。王宮から提出された誓約書ですが、羊皮紙の繊維の隙間に遅効性の精神弱体化魔術が組み込まれていないか、またインクの成分に極微量の水銀や鉛などの有害物質が含まれていないか、我がブライト家の魔導解析班と医療班、総勢五十名で三回にわたり精密検査を行わせました。結果、物理的・魔術的な危険性は『零』であると証明されましたので、安心してお手をお触れください」


 書斎の机に恭しく置かれた誓約書は、カイル様が放った浄化魔術の余波で、微かに銀色の粒子をまとって発光していた。


「……カイル様、国家の公式文書をそこまで疑うのは、アルベルト殿下に対して少々不敬ではありませんこと?」


「不敬なのは王宮の方です。リディア様の健康と安全は、一国の信用よりも遥かに重い。もし万が一、この書類に指を触れた貴女が小さな刺し傷一つでも負うようなことがあれば、私はその瞬間に近衛騎士団を解散し、王城の結界の基部を物理的に反転させて、城ごと異空間へ埋没させる手筈を整えておりました」


 カイル様は至極真面目な顔で、私の椅子に寄り添い、私の髪にそっと触れた。その言葉に誇張がないことは、彼の背後に漂う、世界の物理法則さえも縛り付けるような静かな魔圧が物語っている。この人は、私のためにいつでも「国家の敵」になる覚悟を完了しているのだ。


 苦笑しながらも、私はその徹底された庇護の中に深い安らぎを感じつつ、誓約書に署名した。

 私が署名を終え、特定の魔力を書類に流し込むと、先日王宮に提出した「東部通商路再構築の指示書」の最終封印が自動的に解除される仕様になっている。


「これで、東部の魔石流通網は正常化に向かうはずですわ」


「ええ。王宮は今後、東部から得られる税収の二割を、永続的に『リディア・フォン・アシュバートン個人の資産』としてブライト公爵家の口座へ振り込むことになります。そして、ジュリアス元殿下、およびアシュバートン前公爵らの王都立ち入り禁止、並びに平民への格下げも法的に確定いたしました。彼らは二度と、貴女の視界に入る資格すら得られません」


 カイル様は私の手から羽ペンを受け取ると、その指先に、いたわるような深い口づけを落とした。

 誰の目にも触れないこの聖域の中で、私はかつて背負わされていたすべての理不尽な重荷を、国家に正当な「代償」として支払わせることに成功したのだ。


 その頃、王都から遥か東に位置する、険しい岩山に囲まれた「バザル鉱山地域」。

 かつてはアシュバートン公爵家の直轄地であり、現在は国庫に接収されたこの場所は、昼夜を問わずツルハシの音が響き渡る、文字通りの泥濘と岩石の世界だった。


「おい、手を休めるな! 今日のノルマを達成できなければ、夕食の配給は半分だぞ!」


 粗末な麻の衣服を纏い、泥にまみれて地面を掘り返している男たちがいた。

 一人は、かつて第二王子として社交界の寵児であり、「真実の愛」を叫んでリディアを切り捨てたジュリアス。

 もう一人は、才能を「女の遊び」と蔑み、愛人の言葉に踊らされて公爵家を破滅に導いたアシュバートン前公爵。

 そして最後の一人は、数日前まで王宮内務省の次官補としてエリート街道を突き進んでいたはずの、バルトロ・フォン・ゼーゲンだった。


「くそっ……なぜ、私がこのような場所で、平民どもと交じって泥を掘らねばならないのだ……!」


 バルトロは、手のひらにできた無数の血豆を眺め、絶望に声を震わせた。カイルによって魔力核を物理的に破壊された彼は、もはや一介の非力な人間にすぎない。かつて魔法を使って書類を動かしていたその手は、今や冷たいツルハシの重みに耐えるだけで精一杯だった。


「うるさいぞ、バルトロ……! 元はといえば、お前がリディアを脅迫しようなどという愚かな真似をしたから、私も連座でここに送られたのだ!」


 隣で岩を運んでいた前公爵が、怒気を含んだ声で怒鳴り返す。彼の顔にはかつての威厳など微塵もなく、飢えと疲労で老人以上に老け込んでいた。


「黙れ、二人とも! 私の前で大声を出すな! 私は王子だぞ……! いずれ父上や兄上が、私をこの地獄から救い出してくれるはずなんだ!」


 ジュリアスが狂ったように叫ぶ。だが、その声に応える者は誰もいない。彼らの周囲にいる他の労働者たちは、冷ややかな、あるいは忌々しげな視線を向けるだけだった。王家からも見捨てられ、国を危機に陥れた大罪人たち。それが彼らに与えられた現実の役職だった。


 その時、鉱山の入り口付近が俄かに騒がしくなった。

 王宮の紋章をつけた、最新鋭の魔導輸送車が数台、岩道を上ってきたのだ。車から降りてきたのは、王宮直属の技術官や魔導技師たちだった。彼らは手にした大きな図面を広げ、鉱山の監督官と話し合いを始めた。


「――おい、聞いたか? 王宮から特別な『指示書』が届いたらしいぞ」


 休憩を許された他の労働者たちの会話が、ジュリアスたちの耳に届いた。


「指示書だって? このバザル鉱山の開発計画か?」


「ああ。東部全体の魔力対流を利用して、これまで手作業で運んでいた鉱石を、空中に作った『風の回廊』で一気に王都まで空輸する仕組みらしい。それが稼働すれば、俺たちの労働環境も劇的に改善されるし、この鉱山の産出量は十倍になるそうだ。王宮の連中は『国家の奇跡だ』って大騒ぎしてるらしいぜ」


「へえ、一体どこの天才大魔導師がそんなものを考えたんだ?」


「魔導師じゃないさ。かつてアシュバートン公爵家にいた、リディア様という令嬢だそうだ。あの方は、家を追われる前に、この東部全体の地形と魔力特性をすべて頭の中に叩き込んで、完璧な運行計画書を遺されていたらしい」


 その名前が聞こえた瞬間、ジュリアス、前公爵、バルトロの三人は、まるで雷に打たれたかのように硬直した。


「リ、リディアが……? あいつがそんなものを……?」


 ジュリアスはツルハシを落とし、ガタガタと震え出した。

 彼が「実務能力のない、ただの不愛想な女」として切り捨て、エレーナとの華やかな生活のために邪魔だと排除した婚約者。彼女が遺した、あるいは新しく提示した知識こそが、今や国家を破滅から救い、この東部領地を未曾有の繁栄へと導こうとしている。


 技術官たちの一人が、図面を見ながら感嘆の声を上げた。


「本当に素晴らしい、完璧な設計だ。アシュバートン前公爵やジュリアス殿下は、これほどの至宝を『女の遊び事』と呼んで追放したというのだから、信じられない無能だな。彼らがどれほど愚かだったか、この図面の一行を見るだけで理解できる」


「全くだ。あいつらのせいで国庫は空になりかけたが、リディア様がブライト公爵家と共に立ち上がってくださらなければ、今頃この国は隣国に買収されていた。あの方こそ、真の聖女であり、王国の恩人だ」


 技官たちの容赦のない言葉が、ジュリアスたちの胸に、物理的な刃となって突き刺さる。

 彼らが今、この冷たい泥の中で這いつくばり、重労働に喘いでいる原因。それは他でもない、彼ら自身がその手で「救い」をドブに捨て、その「救い」を侮辱したからに他ならない。


「ああ……ああああ……!」


 前公爵は地面に膝をつき、泥に顔を埋めて咽び泣いた。自分がどれほど大きな存在を失ったのか。どれほど完璧な娘を、己のくだらないプライドのために踏みにじってしまったのか。その代償の巨大さを、この過酷な労働の中で、死ぬまで噛み締め続けなければならないという絶望が、彼の精神を完全に粉砕した。


 ジュリアスもまた、遠い空を見上げながら、ただ涙を流すしかなかった。

 あの時、リディアが自分に向けていた冷徹な、しかし確かな支えの眼差し。それを拒絶した結果が、この泥濘だ。彼がいくら「戻ってきてくれ」と叫ぼうとも、彼女の周りには、世界最強の騎士がそびえ立ち、彼らの声の一片すら届かせない鉄壁の境界線を敷いている。

 彼らはもう、二度と彼女の輝きに触れることすらできない。ただ、その輝きによってもたらされた繁栄の底辺で、泥を啜り続けることだけが、彼らに残された唯一の「生」だった。


 東部領地がリディアの指示書によって劇的な復興を遂げ始め、王宮から莫大な「ロイヤリティ」がブライト公爵家に振り込まれたその日。


 別邸の美しい庭園では、穏やかな木漏れ日のもとで、私とカイル様の二人だけのティータイムが設けられていた。

 カイル様が設置した銀色の結界は、今日も外世界のすべての汚れを完璧に拒絶し、内部には暖かな、薔薇の香る空気だけを満たしている。


「東部の流通が改善され、平民たちの生活も安定したようですね。リディア様」


「ええ、カイル様。アルベルト殿下からの報告書を読みましたわ。私の設計が正しく機能しているようで、安心いたしました」


 私が微笑むと、カイル様はそっと私の前に跪き、私の両手を優しく包み込んだ。その瞳には、戦場を支配する『剣聖』の冷徹さは微塵もなく、ただただ私という存在を全霊で愛おしむ、深い熱が宿っている。


「貴女の知性は世界を救いました。ですが、私は世界のために貴女を差し出すつもりはありません。貴女がその才能を振るうのも、あるいはただ静かにこの庭園で微睡むのも、すべては貴女の自由であるべきだ」


「カイル様……」


「世界がどれほど貴女の価値を理解しようとも、私の過護ガードが緩むことはありません。むしろ、これからはさらに防衛を強化し、王宮からの使者であっても、私の許可なき者は半径十キロメートル以内に近づいた時点で、自動的にその衣服を分子レベルで消滅させて精神的な社会的死を与える結界を構築中です」


「……カイル様、それは流石に、国家間の大問題になりますから本当にお止めなさいな」


 私は可笑しくなって、心からの笑い声を上げた。

 かつて私を道具扱いした者たちは、自らが作り出した泥濘の中で一生をかけて這いつくばり、私は今、この物理的にも政治的にも最強すぎる騎士様の、甘く過剰な愛の中にいる。


 窓の向こうで、銀色の障壁が陽光を浴びて美しく煌めいていた。その絶対的な境界線の内側で、私の新しく、そして最も幸福な物語は、これからも誰に邪魔されることもなく、どこまでも続いていく。

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