完璧なる指示書と、門前に這いつくばる傲慢
アルベルト殿下との会談から三日後。私は別邸の書斎に籠もり、東部通商路の再構築に関する指示書の執筆に没頭していた。
かつてアシュバートン公爵家で何年もかけて洗練させてきた知識と経験を、一国を動かすための国家規模のシステムへと昇華させる作業だ。東部は複雑な起伏に富んだ地形で、かつては魔獣の出没地帯でもあった。それを安全に、かつ迅速に物資が流通できるようにするためには、単に道を整備するだけでなく、各地の領主との関税交渉の履歴、季節ごとの魔力密度の変動予測、さらには中継都市における魔石の備蓄効率に至るまで、すべての歯車を噛み合わせる必要がある。
「……よし、これで第一段階の予算編成と、商工ギルドの再配置計画は網羅できたわね」
私が最後に羊皮紙へサインを書き加えると、傍らで完璧なタイミングで控えていたカイル様が、すっと手を伸ばした。
「お疲れ様でございました、リディア様。貴女が三日間で書き上げたこの数枚の羊皮紙は、王宮の財務官たちが逆立ちしても百年は構築できない、奇跡のような至宝です。……ですが、やはり執筆中、貴女の指先がわずかに震えておられました。今すぐ私の魔力を直接、貴女の体内に流し込み、細胞単位で疲労を霧散させますが、よろしいでしょうか」
「カイル様、それは流石に過剰ですわ。少し肩が凝っただけですから、休めば治ります」
「肩凝り、ですか……! なんということだ。私の配慮が足りないばかりに、リディア様の気高く美しいお身体に、そのような物理的な負荷をかけてしまうとは。今すぐこの椅子を、座る者の体重を魔力で完全に相殺する『浮遊式王座』に造り替えさせます」
カイル様は本気で狼狽しながら、私の肩にそっと触れた。彼の大きな掌から、心地よい、温かな魔力がじんわりと伝わってくる。その絶妙な加減の指圧は、どんな一流のマッサージ師よりも的確で、瞬時に凝りが解けていくのがわかった。
彼の「過保護」は、かつては時に突飛な行動として現れていたが、その本質は常に私の心身の快適さを最優先に考えた、徹底的な気配りだった。国家最高戦力である『剣聖』の力を、ただ一人の女性の肩凝りを癒すためだけに注ぎ込む。その歪なまでの献身が、今の私には酷く愛おしかった。
「ありがとう、カイル様。……さあ、この書類を王宮へ。アルベルト殿下なら、これがどれほどの価値を持つか、すぐに理解してくださるはずよ」
「承知いたしました。我が君。……ただし、これを受け取った王宮の役人どもが、貴女の知性にただ乗りしようなどと考えぬよう、ブライト公爵家の印章をもって、厳重に鍵をかけて届けさせましょう」
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同日午後、王宮の政務室。
第一王子アルベルトの前に提出されたリディアの指示書を前に、集まった財務官や内政官たちは、一様に言葉を失っていた。
「……信じられん。これは、本当に一人の令嬢が、わずか数日で書き上げたものなのか?」
老練な財務大臣が、震える手で羊皮紙をめくる。そこには、東部領地が抱える赤字の原因が、正確な数字と共に一目瞭然の形で指摘されていた。さらに、ジュリアスが勝手に改変したせいで滞っていた魔石の供給ルートを、既存の街道を一切使わずに「風の回廊」と呼ばれる魔力対流を利用して空輸する代替案までが、完璧な魔術式と共に記されていたのだ。
「ジュリアス殿下たちが『ただの紙遊び』と侮っていた業務が、これほどのものだったとは……。我々が数ヶ月かけても解決の糸口すら見えなかった東部の混乱が、この書類一枚で完全に掌握されている」
居並ぶ官僚たちの中に、かつてジュリアスの側近として、リディアを「実務能力のない、ただの不愛想な公爵令嬢」と嘲笑っていた若き貴族、バルトロ・フォン・ゼーゲンの姿があった。
彼はリディアの追放劇の際、ジュリアスに阿ねて、彼女の進言を何度も握り潰した張本人である。
(……この指示書さえあれば、東部の利権は完全に我が物となる。だが、この記述の一部、魔力対流の制御方法の肝心な部分が、暗号化されていて読み解けん……!)
バルトロの目に、醜い欲望と焦燥が浮かんだ。
リディアが提出した書類は完璧だったが、最も重要な魔術回路の「起動キー」に該当する部分は、彼女にしか解除できない特殊な魔力封印が施されていた。アルベルト王子との約束通り、王宮が「税収の二割」を支払うという法的な誓約書を正式に提出しなければ、その封印は解けない仕様になっていたのだ。
(ふん、所詮は家を追われた身を隠すだけの元公爵令嬢だ。国家の危機を盾に、王宮の公式な使者として赴き、少し脅せば、残りの部分も白状するに決まっている。それを私が持ち帰れば、東部再建の功績はすべて私のものだ……!)
バルトロは、カイル・ヴァン・ブライトという男の「本当の恐ろしさ」を、まだ理解していなかった。彼は単なる武力の高い騎士ではなく、リディアという存在を脅かす者に対しては、世界の理さえも踏みにじる冷徹な守護者であることを、宮廷の生ぬるい温室にいた彼は知る由もなかったのだ。
翌日、バルトロは四名の護衛騎士を従え、意気揚々と高台の別邸へとやってきた。
彼の目的は、リディアに直接面会し、王宮の威光を傘にきて指示書の完全な開示を迫ることだった。
「おい、開けろ! 私は王宮内務省の次官補、バルトロ・フォン・ゼーゲンである! 国家の重大な政務に関わる件で、リディア・フォン・アシュバートン嬢に緊急の面会を求める!」
別邸の正門前で、バルトロは大声で叫んだ。
しかし、彼の目の前には、陽炎のように揺らめく銀色の障壁が立ちはだかっているだけだ。門番すら配置されていない。その静寂そのものが、侵入者を拒絶する強固な意志のように感じられた。
「チッ、不気味な結界め。……構わん、魔法障壁破りの魔導具を使え。王宮の公務を妨害する者は、たとえ騎士団長であっても処罰の対象だ」
バルトロの指示を受け、護衛の魔導騎士が特殊な魔導具を突き出そうとした、その瞬間だった。
「――そこまでにしてもらおうか、羽虫ども」
結界の内側の空間が、まるでガラスが割れるかのように歪み、そこから一人の男が歩み出てきた。
白銀の甲冑を纏い、腰に一本の古びた長剣を佩いた男――カイル・ヴァン・ブライト。
彼の登場と共に、周囲の空気が一変した。大気が物理的な「質量」を持ったかのように重くなり、バルトロたちの呼吸が瞬時に止まる。
「カ、カイル・ヴァン・ブライト……! 私は王宮の公式な使者だぞ! リディア嬢に、国家の最高機密に関わる書類の不備について問い詰める権利がある!」
バルトロは恐怖を隠すように、大声を張り上げた。
カイル様は、その言葉を聞いても眉一つ動かさなかった。ただ、その青い双眸には、極夜の氷河よりも冷酷な、絶対的な「拒絶」が宿っていた。
「書類の不備、だと? ……リディア様が書き上げたあの完璧な指示書を、その腐った脳髄で理解できなかった己の無能を、彼女のせいにするつもりか」
「な、何だと……! 無礼な! 私は王宮の――」
「黙れ」
カイル様が静かに、たった一言、そう呟いた。
その瞬間、バルトロとその背後の騎士たちの周囲で、爆音なき「大気の破裂」が起きた。
カイル様が放ったのは、魔法ではない。純粋な闘気の放出によって、局所的な高気圧を作り出し、それを一瞬で解放する武技の応用だ。
「がはっ……!?!?」「ひ、ひぃっ!」
バルトロたちは、目に見えない巨大な鉄槌で胸を強打されたかのように、一斉に吐血して地面に激突した。彼らが誇り高く身に纏っていた高級な外套は、一瞬でボロ雑巾のように引き裂かれ、大理石の床に這いつくばる。
「……私のリディア様は、アルベルト殿下との間に『対等な取引』を成立させた。王宮が正式な契約を交わさぬ限り、あの書類の封印が解かれることはない。それが世界のルールだ。それを、小賢しい権力ごっこで覆せるとでも思ったか?」
カイル様が一歩、前に踏み出す。
その足が地を踏むたびに、バルトロたちの背中に、数百キログラムの石碑を叩きつけられたかのような「物理的な重圧」が加わっていく。骨がきしむ音が、静かな空間に生々しく響いた。
「う、あ……あが……助け……!」
バルトロは、泥まみれの顔を床に擦り付けながら、必死に許しを請おうとした。かつてリディアを「実家の威光しかない無能」と見下していた男が、今はそのリディアの守護者の足元で、虫のように身をよじらせている。
「貴様らの目的は、リディア様の才能を再び搾取し、己の手柄にすること。……その浅ましい思考そのものが、私にとっては万死に値する不浄だ。本来なら、その汚れた頭部を肉体から物理的に切断し、王宮の門前に晒すところだが……」
カイル様は、冷徹な視線を這いつくばる男たちに向けたまま、右手を軽く掲げた。
「……リディア様が『これ以上の面倒は御免だ』とおっしゃった。だから、命だけは救ってやる。ただし、私の結界に『敵意』を持って触れようとした罪は、その肉体に支払ってもらう」
カイル様が指を弾いた。
刹那、バルトロたちの身体を包んでいた魔力回路が、内側から「弾ける」ような乾いた音がした。
「ああああああああっ!?!? ま、魔力が……私の魔力核が……っ!」
バルトロは絶叫した。カイル様が放った闘気の微粒子が、彼らの体内の魔力経路を物理的に破壊し、二度と魔法を使えない身体にしたのだ。魔導官僚としての彼のキャリアは、この瞬間、完全に終わった。
「連れて行け。……これ以上、この場所の空気を汚すな」
カイル様の背後から、影のように現れたブライト家の私兵たちが、意識を失いかけたバルトロたちを家畜のように引きずり、坂道の下へと放り出していった。彼らはもう、二度と表舞台に戻ることはできないだろう。アルベルト王子との約束を違え、勝手に独断で動き、国家最高の頭脳であるリディアを脅迫しようとしたのだ。王宮に戻れば、待っているのは反逆罪に準ずる厳しい審判だけだ。
嵐のような排除劇が終わり、カイル様が結界の内部へと戻ってくると、私は庭のテラスで、新しく咲いた白い薔薇に水をやっていた。
「おかえりなさい、カイル様。随分と賑やかでしたわね」
「リディア様……! 申し訳ありません、私の処理が甘く、不快な鳴き声がここまで届いてしまいましたか。やはり、音波の減衰率をもう十倍ほど引き上げるべきでした」
先ほどまで人間の魔力核を平然と破壊していた男とは到底思えない、子犬のような潤んだ瞳で、カイル様は私の前に跪いた。そして、私のドレスの裾にそっと触れ、汚れがないかを確認する。
「いいえ、大丈夫ですわ。それよりも、バルトロ様たちは、これからどうなるのかしら?」
「アルベルト殿下の耳には、すでに私から事の顛末を『物理的な証拠(彼らが持っていた違法魔導具)』と共に報告してあります。殿下は激怒され、ゼーゲン家の一族はすべての官職を剥奪、全財産を没収の上、東部領地の鉱山開発の『無償労働者』として送られることが決定しました。……奇しくも、ジュリアス元殿下と同じ場所ですね。かつての主従で、仲良く泥を掘るのがお似合いです」
カイル様は、ふわりと完璧な、美しい微笑を浮かべた。
それは、私を傷つけようとした者たちに対する、最も冷徹で、寸分の狂いもない「ざまあ」の結末だった。
「これで、王宮の誰もが理解したはずです。貴女は利用すべき道具ではなく、国を左右する至高の存在であり、そして――私のすべてであるということを」
カイル様は私の手を取り、その掌の中心に、熱く、刻印を押すような深い口づけを落とした。
かつて私を軽んじ、その労働を貪ろうとした者たちは、今や自らの無能の檻の中で、一生をかけて這いつくばる。
そして私は、この物理的にも、その愛の深さにおいても最強すぎる騎士様に守られながら、誰にも侵されない聖域の中で、静かに、けれど確実に、世界を動かしていくのだった。




