王位継承者の深謝
アシュバートン公爵家が事実上の解体を迎え、その領地が王領へと編入されてから数週間が経った。
王都の喧騒から隔絶された高台の別邸は、変わらず静謐な空気に満ちている。しかし、その静けさは、自然がもたらしたものではなかった。
別邸の敷地を覆う、かすかに銀色を帯びた半透明の障壁。カイル様がその全魔力と『剣聖』としての闘気をも注ぎ込んで維持しているこの結界は、魔導工学における最高峰の防御陣である。外部からの物理的な攻撃はおろか、光学的な観測、特定の波長の音波、さらには空気中に浮遊する微細な毒素や魔力の乱れに至るまで、すべての「不純物」を自動的に選別し、遮断する。
それは一見すると過剰な防衛に見えるが、現在の王国の情勢を鑑みれば、カイル様がこれほどの鉄壁を築く理由も理解できた。
「リディア様、あまり根を詰めなさるなと、あれほど申し上げたはずですが」
柔らかなスエードの室内履きが床を叩く、微かな音がした。
振り返ると、カイル様が銀のトレイを手に、眉を八の字にして立っていた。彼が纏っているのは、近衛騎士団長の格式高い軍服ではなく、上質な意匠が施された私服の変形上衣だ。しかし、その立ち姿から滲み出る圧倒的な強者の風格は、隠しようもない。
「申し訳ありません、カイル様。ですが、アシュバートン領の流通経路が急に途絶えたことで、王都の魔石市場が混乱していると聞いて……。私が残した引継ぎ書が正しく運用されていれば、このような事態にはならなかったはずなのですけれど」
机の上に広げられた、王国の経済指標が記された羊皮紙。私はアシュバートン家を去った身ではあるが、かつて自分が管理していた領民や、関係する商人たちの生活が破綻していくのを、完全に無視することはできなかった。
カイル様は溜息をつき、私の手から優しく羽ペンを取り上げた。その動きには一切の荒々しさがなく、まるで壊れやすい硝子細工を扱うかのような繊細さだった。
「貴女が責任を感じる必要は、万に一つもありません。あの愚鈍な親族どもが、貴女の構築した精緻な流通網を『ただの書類仕事』と侮り、利権を貪ろうとした結果です。自業自得という言葉すら生ぬるい。……それよりも、今は温かいお茶を。貴女の体温が、適正値より零点二度下がっています」
カイル様が淹れてくれたのは、北方の希少な霊草を用いたハーブティーだった。一口含むと、身体の芯から強張りが解けていくのがわかる。
彼が私に向ける「過保護」は、かつて私を道具として扱った元婚約者や家族への、彼なりの当てつけであり、同時に私の尊厳を二度と傷つけさせないという、狂気的なまでに純粋な誓いの表れだった。
その時、別邸の正門へと続く坂道のふもとで、結界の境界線が微かに震えた。
カイル様の視線が、瞬時に窓の外へと向けられる。先ほどまで私に見せていた蕩けるような甘さは消え去り、そこには一国を滅ぼし得る『剣聖』の冷徹な眼光が宿っていた。
「……厄介な客が来たようです。リディア様、貴女はここで、お茶の続きを。私が速やかに処理してまいります」
「お待ちになって、カイル様。……その方の魔力、私にも覚えがあります。あれは、第一王子アルベルト殿下ではありませんか?」
カイル様は不満げに口元を引き締めたが、私の言葉を無視することはしなかった。
アルベルト王子。ジュリアスの腹違いの兄であり、次期国王として国民からも貴族からも絶大な信頼を寄せられている、真に有能な王族である。彼がわざわざ少数の随行員だけを連れてこの場所を訪れたということは、事態がそれほど逼迫している証拠だった。
「……殿下であっても、リディア様の静養を邪魔することは許されません。物理的に、門の外で序列を思い出していただきましょう」
「カイル様、お言葉が過ぎますわ。お話を聞くだけなら構いません。ただ……結界は解かないでくださいね。私も、これ以上の面倒は御免ですから」
私の言葉に、カイル様は嬉しそうに目を細めた。
「御心のままに、我が最愛の主。……殿下には、結界越しに『謁見』の栄誉を与えましょう」
別邸の正門前。
第一王子アルベルトは、完璧に仕立てられた旅装のまま、馬を降りて佇んでいた。彼の背後には、王宮守護騎士団の精鋭が二人控えているが、彼らは一歩も前に進めずにいた。
彼らの目の前には、空気の屈折によって生じた、陽炎のような銀の障壁が立ちはだかっている。
「……これが、噂に聞く『絶対不可侵の境界線』か」
アルベルトは苦笑を浮かべ、差し出した右手を、結界の表面から数センチメートルのところで止めた。
彼の優れた魔力感知能力は、その結界に触れた瞬間、どのような結果がもたらされるかを正確に予見していた。もし「敵意」や「強制突破の意志」を持ってこの障壁に触れれば、結界は瞬時にその数倍の衝撃を発生させ、侵入者の肉体を粉砕するだろう。
「カイル・ヴァン・ブライト。そこにいるのだろう」
アルベルトが静かに呼びかけると、結界の内側の空間が揺らぎ、カイル様が姿を現した。
彼は門を開けることもなく、障壁の向こう側から、王位継承者に対して極めて形式的な、冷ややかな一礼を捧げた。
「これはアルベルト殿下。近衛騎士団長たる私が、このような形でお迎えすることをお許しください。現在の私は、リディア・フォン・アシュバートン様の専属騎士であり、彼女の安全と平穏を脅かすあらゆる存在を排除する義務を負っております。……たとえそれが、王族であっても」
その言葉に含まれた明確な警告に、王宮守護騎士たちは色めき立ち、剣の柄に手をかけた。しかし、アルベルトはそれを手制した。
「控えよ。ブライト公爵に剣を向けるなど、自殺志願者のすることだ」
アルベルトはカイル様を真っ直ぐに見据え、その声音に真摯な響きを込めた。
「カイル、私は戦いに来たのではない。ジュリアス、そしてアシュバートン前公爵が犯した愚行について、王家を代表して謝罪に来たのだ。彼らがリディア嬢に与えた侮辱と損害は、到底許されるものではない」
「……謝罪であれば、すでに国王陛下からの親書で拝見しております。これ以上の対話が必要とは思われませんが」
「国政が麻痺しているのだ」
アルベルトは率直に切り出した。
「リディア嬢が実質的に管理していた東部通商路、および魔石の流通管理。彼女の不在により、王都の魔導具ギルドは機能停止に陥り、冬に備えるための熱魔石の備蓄が底を突きかけている。ジュリアスが『ただの書類仕事』と吐き捨てたものが、この国の生命線だったのだ。私は……不躾を承知で、リディア嬢の知恵を借りたい」
その言葉が響いた瞬間、カイル様の周囲の大気が「ゴウ」と低い音を立てて振動した。
『剣聖』の闘気が、物理的な圧力となって結界の強度を跳ね上げる。アルベルトの足元の土が、目に見えて数センチメートル沈み込んだ。随行の騎士たちは、その圧倒的な重圧に耐えかねて、その場に膝をつき、激しく喘ぎ始めた。
「殿下。貴方は、あの王宮という名の泥沼で、リディア様を再び酷使するつもりですか? 彼女がどれほどの孤独の中で、あの公爵家とジュリアスの失態を支え続けてきたか、貴方も知っていたはずだ。それを黙認しておきながら、いざ自分たちが困れば『知恵を貸せ』と? ……虫が良すぎる」
カイル様の声は低く、地響きのように重かった。
それは誇張でもない。もしアルベルトが一歩でも不条理な要求を重ねれば、カイル様は本気で王宮へ攻め入り、現体制を転覆させるだけの武力と意志を持っていた。
「待ってください、カイル様」
その緊迫した空気を破ったのは、私の声。
私はカイル様の斜め後ろ、結界の安全な内側から、アルベルト殿下の前に姿を現す。
「リディア嬢……」
アルベルトは、私を見て目を見開いた。
かつて王宮の夜会で見かけていた頃の私は、常に完璧な仮面を被り、疲弊を隠して背筋を伸ばしていた。しかし今の私は、カイル様の過保護なまでのケアによって肌の艶を取り戻し、その瞳にはかつてない確固たる光が宿っている。
「アルベルト殿下。お久しぶりでございます」
私は結界越しに、静かに一礼した。
「殿下のおっしゃる通り、東部の流通網は、私がアシュバートン家の信用と、商人たちとの個人的な信頼関係によって維持していたものです。私が退職した以上、それが崩壊するのは必然でした」
「リディア嬢、どうか……」
「ですが、私は王宮に戻るつもりはありません」
私は殿下の言葉を遮り、冷徹に告げた。
「私はもう、誰かのために無償で、その尊厳を削りながら働くような愚かな真似はいたしません。……ただし、取引であれば応じましょう」
「取引?」
「はい。私が流通網の再構築に関する『指示書』を執筆します。それをブライト公爵家を通じて、王宮に『売却』いたします。価格は、東部領地から得られる税収の二割。そして条件として、ジュリアス様、およびアシュバートン前公爵の親族が、二度と王都の土を踏まないよう、永久追放の罰を法的に確定させること」
アルベルトは驚愕に目を見張った。私が提示したのは、単なる手伝いではなく、国家を相手取った対等な、あるいはそれ以上の政治的交渉だった。
私の背後で、カイル様が「素晴らしい……やはりリディア様は、世界で最も聡明で恐ろしい(美しい)」と、うっとりとした溜息を漏らしているのが聞こえる。
「……分かった。その条件、全面的に受け入れよう。王宮に持ち帰り、即座に法を整備する」
アルベルトは深く息を吐き出し、敗北を認めるように首を振った。
「君を敵に回さなくて本当に良かった、リディア嬢。そして……君を失ったジュリアスは、本当に国家の損失だったな」
「過去のことですわ、殿下。……では、指示書はカイル様を通じてお届けします。お気をつけてお帰りください」
アルベルト王子は、最後にもう一度、カイル様の絶対的な結界と、その内側で大輪の薔薇のように咲き誇る私の姿を目に焼き付けると、静かに馬を反転させて去っていった。
力ずくでは一歩も近づけず、交渉においても主導権を完全に握られる。王家にとって、現在の私たちは、文字通り「物理的にも政治的にも最強」の存在となっていた。
使者が去り、結界の周囲の重圧が解除されると、カイル様はすぐに私の方を振り返った。その顔には、先ほどまでの冷酷な守護者の面影はなく、ただただ私への崇拝の念が溢れていた。
「リディア様……! なんと見事な裁定。王族相手に微塵も引かず、むしろ国益を毟り取るそのお姿、あまりの神々しさに私の心臓が物理的に停止するかと思いました」
「大袈裟ですわ、カイル様。これで東部の商人たちも救われますし、あのゴミ……いえ、元婚約者たちが戻ってくる可能性も万に一つもなくなりました」
「ええ。ですが、王宮からの書類が届くとなれば、その紙やインクに、万が一にも呪詛や毒物が仕込まれていないか、私が分子レベルで検閲せねばなりませんね。明日の朝までに、別邸の地下に『自動毒物分解室』を増設します」
「……カイル様、それは流石に、私の仕事部屋に置く魔導具で十分ではないかしら?」
「いいえ、リディア様の安全のためなら、この敷地全体を独自の小世界として独立させても足りないくらいです!」
カイル様は私の手を取り、その甲に、先ほどよりもさらに深く、独占欲の強い口づけを落とした。
かつて私を裏切った者たちは、今やその過ちの重さに圧し潰され、地を這っている。
そして私は、この物理的にも、その愛の深さにおいても最強すぎる騎士様に守られながら、誰にも邪魔されない、真に気高き新生活の基盤を、着実に築き上げていくのだった。




