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崩壊する公爵家と、冷徹なる守護者の裁定

 窓の外に広がる景色は、かつて私が見ていた「空」とは決定的に異なっていた。

 カイル様が用意したこの別邸は、王都を一望できる高台にあるが、その周囲には常に薄い銀色の光が揺らめいている。それは単なる装飾ではない。古代の言語で紡がれた多重防護障壁――「物理的侵入」だけでなく、外部からの「音」「視線」「悪意ある魔力」のすべてを遮断し、内部の環境を一定に保つための極大魔術の結界だ。


 私は、カイル様が自ら淹れてくれたハーブティーの香りに包まれながら、一通の書類に目を通していた。

 かつて私を「悪女」と呼び、家族としての絆さえも断ち切ったアシュバートン公爵家……私の実家から届いた、哀れなまでの嘆願書である。


「リディア様。そのような不快な紙片、指が汚れる前に私が処分しましょうか」


 背後に控えていたカイル様が、音もなく歩み寄る。彼の歩調は常に一定で、鎧が擦れる音すらしない。その気配はあまりにも完成されており、側近というよりは、獲物を守る飢えた獣のような、鋭利な静謐さを纏っている。


「いいえ。……自分たちが捨てたものが、どれほどの価値を持っていたのか。それを理解せずに堕ちていく様を見届けるのも、私の責任かもしれませんから」


 私がそう告げると、カイル様の瞳がわずかに細められた。その青い双眸には、私に向ける時だけ宿る深い慈しみと、それ以外のすべてを「不純物」として排除しようとする冷酷な意志が同居している。


「貴女はどこまでも慈悲深い。……ですが、アシュバートン公爵家が現在直面しているのは、単なる経営難ではありません。貴女という『実務の心臓』を失ったことで、彼らの領地運営、王宮への献上品の品質管理、さらには他国との通商ルートの維持さえもが停止しています。彼らが求めているのは『娘』ではなく、自分たちの不始末を埋めるための『道具』です」


 カイル様の言葉は、研ぎ澄まされた刃のように的確だった。

 私が公爵家でこなしていたのは、夜会で着飾ることではない。父の放漫経営を帳尻合わせし、愚鈍な兄が引き起こす外交問題を裏から火消しすることだった。

 それらの功績をすべて「女の遊び」と一蹴し、私を追放した父――。


「――お会いしましょう、カイル様。門前で」


 私は立ち上がった。カイル様は一瞬、眉を寄せたが、すぐに恭しく一礼して私の手を取った。その握る力は驚くほど繊細だが、もし誰かが私に害をなそうとすれば、この手は瞬時に世界で最も硬い「盾」にも「剣」にもなることを、私は知っている。


 別邸の正門へと続く大理石の道。

 そこには、かつて私が「お父様」と呼んでいた、痩せ細り、身なりの整わない男が立っていた。アシュバートン公爵。王国の重鎮として名を馳せていたはずの彼の威厳は、今や見る影もない。


 彼の背後には、数名の騎士が控えていたが、彼らは門の前で立ち往生していた。

 理由は単純だ。カイル様が門に施した「物理的拒絶」の圧力が、彼らの歩みを阻んでいたからだ。それは目に見えない巨大な壁となって、門から半径五メートルの空間を重力的に支配していた。


「リディア! ああ、リディア……!」


 父が私を見て叫ぶ。その声には、かつての冷淡さはなく、ただただ卑屈な期待だけが混じっていた。


「頼む、一度だけでいい。屋敷に戻ってきてくれ! エレーナが……あの女が持ち逃げした金や、ジュリアス殿下が引き起こした負債のせいで、公爵家は破産寸前なんだ。お前なら、お前の知恵なら、どうにかできるだろう!?」


 私は門のこちら側で、カイル様に支えられながら立ち止まった。

 距離にしてわずか十数メートル。だが、そこには越えられない断絶がある。


「お父様。貴方はあの日、私に『お前の代わりなどいくらでもいる』とおっしゃいました。エレーナ様こそが我が家の守り神だと、そう確信していらしたはずです」


「それは……あ、あの時は騙されていたんだ! お前こそがアシュバートン家の誇りだ! さあ、この無礼な騎士をどかせなさい。親子が対面するのを邪魔するとは、不敬であろう!」


 父がカイル様を指差して吠える。

 その瞬間、周囲の空気が「凍りついた」。

 比喩ではない。カイル様から放たれた殺気が、物理的な圧力となって大気を圧縮し、温度を急激に下げたのだ。


「……不敬ですか」


 カイル様が一歩前へ出る。

 たった一歩。だが、その一歩に合わせて、門の外の地面が「ズン」と深く沈み込んだ。

 父の背後にいた騎士たちは、悲鳴を上げることすら許されず、凄まじい重力に押し潰されて膝をついた。


「貴様のような男が、どの口で『父親』を名乗る。リディア様が泥水を啜るような思いで公爵家を守っていた十数年、貴様は何をしていた。彼女の献身を、彼女の才能を、その卑俗な自尊心で踏みにじってきたのは貴様だ」


 カイル様の声は、低く、そして冷徹に響く。


「現在、リディア様はブライト公爵家の全面的な保護下にあり、国王陛下からも『独立した意思を持つ尊厳ある個人』として認められている。もはやアシュバートン家の籍にはない。貴様が彼女に触れることはおろか、その視線を向けることさえ、私は『ブライト公爵家に対する物理的な宣戦布告』と見なす」


「ひっ……な、何を……私はただ……!」


「下がれ。これ以上、リディア様の耳をその汚れた言葉で汚すなら、貴様の領地に残された最後の資産――公爵家の城館そのものを、私の魔力で根こそぎ消滅させる。これは脅しではない。決定事項だ」


 カイル様が右手を軽く振りかざすと、門の外にいた父の体は、巨大な不可視の旋風に巻き込まれたように後方へと吹き飛ばされた。

 荒々しい投げ方ではない。だが、逆らうことのできない「圧倒的な力の差」を見せつける、無慈悲な排除だった。


 地面に転がった父を、カイル様はゴミを見るような目で見下ろした。


「リディア様。これ以上、この者たちと対話する必要はありません。過去を清算するのは私の仕事です。貴女はただ、新しく芽吹いたバラの世話をすることだけを考えていればいい」


「カイル様……。お父様たちは、これからどうなるのかしら」


 私が尋ねると、カイル様は私の肩にそっと手を置き、私を屋敷の方へと促した。


「国庫への負債返済のため、彼らの爵位は剥奪され、平民として開拓地へ送られることが決定しました。……死なせはしません。彼らには、リディア様がこれまで背負ってきた『重責』がいかに重いものだったか、その身をもって、一生をかけて学んでもらわねばなりませんから」


 それはカイル様が用意した最も残酷で、最も「正しい」報復だった。

 死による救済すら与えず、かつての自分たちの過ちを、汗と泥の中で噛み締めさせること。


 私は一度だけ振り返り、遠ざかっていく父の背中を見た。

 悲しみはなかった。ただ、一年前のあの日、冷たい雨の中で絶望していた私を、今のカイル様が、そして今の私が、物理的にも精神的にも救い出したのだという確信だけがあった。


 別邸の中に戻ると、カイル様はすぐに私の足元に膝をつき、ドレスの裾についたわずかな埃を、魔法で丁寧に消し去った。


「リディア様、疲れたでしょう。今日の夜は、貴女の神経を癒すために、屋敷全体の重力を少しだけ軽く設定しておきました。羽のように軽い夢を見られるはずです」


「……カイル様、貴方は本当に、私を甘やかしすぎですわ」


「いいえ。世界が貴女に冷たくあたった分、私が物理法則を書き換えてでも、この世を楽園に変えなければならないのです。それが、私という男の存在する理由なのですから」


 カイル様は、私の手を取り、その掌に深く、重厚な忠誠を誓う口づけを落とした。

 

 かつて私を束縛していた「家族」という名の鎖は、カイル様の圧倒的な力によって粉砕された。

 これから始まるのは、誰にも邪魔されることのない、最強の騎士に守られた私の、本当の意味での人生だ。

 

 窓の向こうでカイル様の魔力が生み出した銀色の障壁が、今日も美しく、冷徹に世界を拒絶していた。

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