届かぬ悪あがきと、聖域の不変なる日常
初夏の風が、高台の別邸に植えられた白薔薇の香りを運んでくる。
かつて王宮の片隅で、終わりのない書類仕事に追われながら冷たい冷遇に耐えていた日々が、今ではまるで遠い前世の出来事のように感じられた。
私の前に広がる世界は、今や完璧な静謐に満ちている。
カイル様がこの敷地全体に施した銀色の多重障壁は、外部からの物理的な侵入を防ぐだけでなく、周囲の魔力濃度や気温、湿度に至るまでを、私の身体にとって最も最適な状態に保ち続けていた。それは一見すると過剰なまでの管理だが、その根底にあるのが私への歪みのない、そして底知れないほど深い愛情であることを、私は痛いほどに理解している。
「リディア様。本日は、王都の最高級ギルドから取り寄せた特製の羊皮紙を用意いたしました。繊維が極めて緻密で、貴女がどれほど筆を走らせても指先に負担がかからないよう、表面に滑らかな魔力コーティングが施されております」
書斎の机に向かう私の傍らで、カイル様が静かに新しい羽ペンを差し出した。
彼の手によって、ペンの持ち手部分には疲労を軽減する特殊な魔飾が施されている。国家最高戦力である『剣聖』の精緻な魔力制御が、今や私の執筆環境を整えるためだけに費やされているのだ。
「ありがとうございます、カイル様。貴方のおかげで、東部の流通網を安定させるための補足書も、間もなく書き終えられそうですわ」
「貴女の知性は、真に国の至宝です。アルベルト殿下からも、先日届いた契約金の追加分と共に、貴女への深い感謝を綴った親書が届いております。……もっとも、あの殿下のことですから、貴女の能力をさらに引き出そうと、小賢しい外交案件の相談を紛れ込ませておりましたが。それは私が事前に物理的に破棄しておきました」
「……カイル様、アルベルト殿下の親書を勝手に処分しては流石にいけませんわ」
「いいえ。リディア様にこれ以上の労働を強いる文面は、それ自体が一種の精神的有害物です。彼女の時間をこれ以上奪うことは、我がブライト公爵家に対する明確な搾取であると、殿下には私から厳重に抗議文を送っておきました」
カイル様は至極真面目な顔で言い、私の椅子の背もたれにそっと手を置いた。その佇まいは冷徹な守護者のそれでありながら、私を見つめる青い瞳だけには、蕩けるような熱が宿っている。
彼が世界の手触りを私のためにこれほど優しく、そして強固に変えてくれたからこそ、私は過去の傷を完全に乗り越え、前を向くことができた。かつて私を道具として扱った者たちが今、どのような境遇にあるかなど、今の私には微塵の関心もなかった。
その頃、王都から遥か東に位置する「バザル鉱山地域」では、どんよりとした曇り空の下で、金属の擦れ合う音と、重苦しい喘ぎ声が響き渡っていた。
かつて第二王子として栄華を極めていたジュリアスは、今や泥と汗にまみれた粗末な麻衣を纏い、一本の古いツルハシを握り締めていた。指先は裂け、手のひらは無数の血豆で覆われている。
「おい、ジュリアス! 貴様の運ぶ岩の量が足りんぞ! 元王子だからと怠けるな!」
背後から容赦なく浴びせられる監督官の怒声。ジュリアスは屈辱に歯を食いしばりながら、重い足取りで岩を台車へと積み込んだ。
彼の隣では、かつてアシュバートン公爵として権勢を誇っていた実の父が、飢えと疲労で老人以上に衰え、地面に這いつくばるようにして泥を掻き出している。さらにその向かいには、数日前まで王宮の法務審議会で議長を務めていたクロムウェル伯爵が、カイルによって魔力核を物理的に破壊され、ただの非力な人間として息を切らせていた。
「……こんなはずではなかった。私は王子だぞ……。リディアさえ、リディアさえ私の元に戻れば、こんな地獄からは今すぐに抜け出せるはずなんだ」
ジュリアスは、妄執に囚われた目で呟いた。
彼らがこの過酷な重労働に耐えなければならないのは、彼ら自身がリディアの価値を理解せず、その労働と献身を搾取し、最後には悪女として追放したからだ。その結果、国政は麻痺し、彼らの犯した罪の代償として、この鉱山への終身労働が課された。
だがジュリアスはまだ、自らの犯した罪の本当の重さを理解していなかった。
彼はリディアがかつて自分に向けていた「優しさ」や「責任感」に、最後の一縷の望みをかけていたのだ。
(あいつは、本当は情に厚い女だ。私がこれほど惨めな姿で、心から詫びれば、きっと同情してくれる。アシュバートン公爵家を再興させ、私を再び王位へ就けるための知恵を貸してくれるはずだ……!)
ジュリアスは、かつて彼が中央貴族だった頃に隠し持っていた、最後の私金――憲兵の目を盗んで靴の底に仕込んでいた一枚の特級金貨を取り出した。そして、鉱山に出入りする、素行の悪い雇われの隠密を密かに呼び寄せた。
「……これをやる。だから、王都の高台にあるブライト公爵の別邸へ向かい、リディアにこの手紙を渡してくれ。私の命が危機に瀕していること、そして、心から彼女を愛していると伝えてくれれば、彼女は必ず動く」
差し出された手紙には、ジュリアスの身勝手な言い訳と、哀れみを乞う言葉が血文字のように書き連ねられていた。
隠密は金貨の重みを確認すると、不敵な笑みを浮かべて頷いた。
「へっ、お安い御用だ。ブライト公爵の結界がどれほど頑丈だろうと、影に潜む俺の歩みを止めることはできねえよ」
隠密はそのまま、音もなく鉱山の闇へと消え去っていった。
ジュリアスはその背中を見送りながら、胸の中で醜い期待を膨らませていた。あの日、自分が冷たい雨の中でリディアを切り捨てたことなど都合よく忘れ、彼女が再び自分のために動いてくれるという、傲慢な幻想に縋り付いていたのだ。
翌々日の深夜。
王都の高台に位置する、リディアの別邸の周囲は、深い静寂に包まれていた。
ジュリアスに雇われた隠密は、息を殺し、敷地の境界線へと近づいていた。彼の特殊な技巧である「影渡り」は、障壁の魔術的な弱点をつき、探知を無効化し、空間の隙間を通り抜けることができる。これまで数々の厳重な宝物庫を破ってきたという自負が、彼の足を前へと進めさせた。
「ふん、ここが噂の絶対不可侵の結界か。確かに凄まじい魔力密度だが、影の隙間までは埋め尽くせまい」
隠密が、銀色に煌めく障壁の手前で、自身の身体を完全に平らな影へと変化させた。そして、結界のわずかな歪みに向かって、滑り込むようにして一歩を踏み出した。
――だが。
彼がその「境界線」に触れた、まさにその刹那。
バチィィィィィン……!!
静寂を切り裂くような、しかし極めて局所的な高電圧の放電音が響いた。
隠密の「影渡り」は、無効化されたのではない。カイル様が構築した結界は、侵入者の「概念」そのものを物理的な質量として認識し、それを逆位相のエネルギーで完全に相殺する構造になっていたのだ。
「な……がはっ……!?」
隠密は影の形態を強制的に解除され、大理石の床へと弾き飛ばされた。
それだけではない。彼の周囲の空間が、目に見えない強固な「立方体」の形に変形し、彼の身体を物理的に固定した。動くことも、呼吸をまともにすることもできない。空間そのものが、彼を捕らえる檻となったのだ。
「――夜分遅くに、不躾な訪問者ですね」
闇の中から、音もなく白銀の甲冑を纏った男――カイル様が姿を現した。
彼の腰に佩いた長剣は、鞘に収まったままだ。しかし、その全身から放たれる圧倒的な威圧感は、隠密の精神を恐怖だけで圧し潰すには十分すぎた。
「ひ、ひぃっ……あ、あり得ん……俺の影渡りが、物理的に止められるなど……っ!」
「リディア様が眠りについていらっしゃる時間です。大きな声を出すな」
カイル様の冷徹な一言と共に、隠密の周囲の空間圧がさらに増した。みしり、と骨がきしむ音が響く。
「貴殿が持っているその不浄な紙片……。それが何であるか、確かめるまでもありません。あの泥の中で這いつくばっているゴミが、まだ懲りずに我が君の平穏を脅かそうとした。その事実だけで、貴殿も含めて万死に値する」
カイル様が右手を軽く掲げると、隠密の懐から、ジュリアスが認めた手紙がふわりと宙に浮き上がった。
その手紙は、リディアの目に触れることも、その耳に内容が届くこともなく、カイル様が放った極小の青い炎によって、一瞬にして原子レベルで焼き尽くされ、灰すら残さずに消滅した。
「……う、あ……」
「安心しなさい。リディア様は『これ以上の面倒は御免だ』とおっしゃった。だから、貴殿の命までは取らない。だが――」
カイル様が指をパチンと鳴らす。
刹那、隠密を拘束していた空間の檻が、そのまま「空間転移」の座標へと接続された。隠密の身体は、声なき絶望と共に、その場から一瞬にして消失した。
転移先は、王宮の最深部にある、二度と光を見ることのできない国家最特級の地下監獄だ。独断で動き、国家契約の対象であるリディアを脅迫しようとした罪人として、彼は一生をそこで過ごすことになる。
そして、その空間転移の余波は、物理的な衝撃波の「一部」として、正確に計算された状態で、遠く離れたバザル鉱山へと送り返された。
翌朝、ジュリアスがいつものように泥の中でツルハシを振るっていると、彼の目の前の空間が突然、激しく歪んだ。
「な、なんだ……!?」
次の瞬間、歪んだ空間から、真っ黒に焼け焦げた「特級金貨の残骸」と、一本の氷の矢が、ジュリアスの足元へと突き刺さった。
その氷の矢の表面には、カイル様の冷徹な魔力によって、明確なメッセージが刻まれていた。
『次はない。彼女の視界に、貴様の存在という汚れを一片でも近づけようとするならば、その瞬間に貴様の肉体を、この世界の物理法則から永久に抹消する』
ジュリアスは、その圧倒的な力の残滓を前にして、ガタガタと激しく震え、その場に崩れ落ちた。
彼が放った隠密は、リディアに会うどころか、その別邸の結界に一歩踏み入れた瞬間に、完全に、そして無慈悲に排除された。彼が認めた必死の手紙も、彼女の目に触れることすらなく灰になった。
「あ……ああ……リディア……私は……私は……!」
ジュリアスは泥の中に顔を伏せ、絶望の涙を流した。
彼らはどれほど足掻こうとも、どれほど言葉を尽くそうとも、リディアという存在に近づくことすらできない。彼女の周囲には、世界で最も強固で、最も冷酷な守護者がそびえ立っているからだ。彼らに残されたのは、ただその圧倒的な「拒絶」の重みに圧し潰されながら、一生をかけて泥を掘り続けるという、終わりのない代償だけだった。
同じ頃、高台の別邸のテラスでは、眩い陽光の下で、穏やかな朝の時間が流れていた。
「リディア様。本日の紅茶は、貴女の昨晩の睡眠の質に合わせて、特別に調合したハーブをブレンドしております。少しお疲れのようでしたが、体調はいかがですか?」
カイル様が、完璧な所作で私のカップに透き通った琥珀色のお茶を注ぎ入れた。昨夜、結界の端で小規模な排除劇があったことなど、彼の爽やかな笑顔からは微塵も感じられない。
「ええ、とてもよく眠れましたわ。カイル様。貴方が守ってくださるこの場所は、本当に世界で一番安心できますもの」
私が微笑みながら紅茶を口に含むと、カイル様は嬉しそうに目を細め、私の足元にそっと跪いた。そして、私の手を取り、その甲に深く、熱烈な、けれどどこまでも優しい口づけを落とした。
「貴女の平穏を守ることこそが、私の世界のすべてです。これからも、どのような羽虫が近づこうとも、私の過護がそれを完全に、物理的に遮断し続けます。貴女はただ、その美しい瞳で、私の愛だけを見ていれば良いのです」
過剰で、過保護で、圧倒的に最強すぎる騎士様。
彼の腕の中にいる限り、私の世界が脅かされることは二度とない。
窓の向こうで、銀色の障壁が今日も美しく煌めきながら、私たちの聖域を世界から冷徹に切り離していた。私はその鉄壁の優しさの中で、これ以上ない幸福な日々を、静かに紡ぎ続けていくのどった。




