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泥濘の再会と結婚式

 季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。

 本来ならば、高台にあるこの別邸には冷たい木枯らしが吹き付ける時期だが、カイル様が構築した結界内は常に春のような心地よい温度と湿度に保たれている。庭園の樹木すらも、彼が特別に調整した魔力によって、色鮮やかな紅葉の美しさだけを保ちながら、一枚の落ち葉すら散らすことなく静寂の中に佇んでいた。


「リディア様。本日は、王都の最高級の宝飾職人たちを『物理的に』連行……いえ、丁重にお招きし、別邸の地下工房にて指輪の型録カタログを作成させました。どうかご覧ください」


 カイル様が私の前に恭しく差し出したのは、分厚い革張りのファイルだった。開いてみると、そこには王族の王冠にしか使われないような大粒の宝玉や、失われた古代魔法が施されたミスリル製の指輪の数々が、精緻な手書きの図面と共に収められている。


「カイル様、これは……?」


「結婚指輪の意匠案です。……私たちはすでに婚約者という立場ですが、私は一刻も早く、貴女を名実ともに『私の妻』として世界に刻み付けたい。貴女の左手の薬指に、私の全存在を懸けた誓いの重みを乗せさせてはいただけませんか」


 カイル様は私の椅子の傍らに跪き、私の左手を取って、その薬指の付け根に熱い口づけを落とした。

 彼の青い瞳は、真っ直ぐに私だけを見上げている。その瞳の奥にあるのは、戦場を支配する冷徹な『剣聖』としての狂気的なまでの執着と、ただ一人の女性を愛し抜くという純粋な祈りだった。


「結婚……。ええ、カイル様。私も、貴方と共に生きる未来以外、もう考えられませんわ。喜んでお受けいたします」


 私が微笑んで頷くと、カイル様は感極まったように小さく息を呑み、私の手を両手で包み込んで額を押し当てた。


「ああ、リディア様……! 我が世界、我が至高の女神。貴女のそのお言葉だけで、私は神を物理的に討ち滅ぼせるほどの力を得た気分です。……すぐに式の準備に入りましょう! 参列者は国王陛下とアルベルト殿下のみ。会場は、不浄な視線を完全に遮断するため、この別邸ごと私の魔力で浮上させ、星空の只中で誓いを立てるというのはいかがでしょうか!」


「カイル様、参列される陛下たちが酸欠で崩御してしまいますから、絶対にやめてくださいな」


「む……。では、陛下たちの周囲半径一メートルにのみ、酸素供給と気圧維持の専用結界を張り巡らせましょう。もし彼らが結界から一歩でも出れば宇宙空間に放り出されますから、絶対に式を邪魔されることはありません」


「参列者を命懸けのサバイバルに巻き込まないでください。式は、この庭園で静かに挙げれば十分ですわ」


 私は呆れながらも、くすくすと笑い声を上げた。

 異常なまでの過保護と、物理法則を軽視した桁外れの魔力。けれど、そのすべてが「私を世界で一番安全で幸福な花嫁にしたい」という不器用で真っ直ぐな愛情から来ていることが分かるから、愛おしくてたまらないのだ。


「貴女がそう望まれるなら、御心のままに。……では、この指輪の土台となる宝石ですが、私が先日、北の霊峰に出向いて、山頂を物理的に両断して採掘してきた『星の涙』と呼ばれる純白の金剛石を使わせます。この石には、リディア様に害をなそうとする悪意を自動で感知し、対象の四肢を無条件で物理的に切断する防護魔術を幾重にも編み込んでおきました」


「……指輪一つで、暗殺者の集団を壊滅できそうな物騒な仕様ですわね」


「貴女を守るためには、これでもまだ足りないくらいです」


 カイル様は至極真面目にそう言い切り、私を力強く、けれど壊れ物を扱うような優しさで抱き寄せた。

 彼の広い胸の中で、私はかつての冷たい孤独が完全に溶け去り、強固で甘い愛の檻の中にいる幸福を、全身で噛み締めていた。


 その頃。

 王都から遥か東に位置する、冷たい雨の降る「バザル鉱山地域」に、王宮からの新たな囚人護送馬車が到着していた。


 泥濘に塗れた採掘場。そこでいつものようにツルハシを振るっていたジュリアスは、新入りとして鞭で追いたてられてきた一人の女を見て、目を剥いた。


「エ……エレーナ!?」


 ジュリアスの口から、掠れた声が漏れる。

 泥まみれの囚人服を着せられ、手首に重い鉄枷を嵌められて泣き叫んでいた女。艶やかだった金髪は汚れで束になり、華やかだった面影は完全に消え失せていたが、それは間違いなく、かつてジュリアスが「真実の愛」と呼び、リディアから奪うようにして寵愛した相手――エレーナ・男爵令嬢だった。


「嫌よ、嫌っ! 私は騙されたのよ! あんな隣国のスパイだなんて知らなかった! 私をこんな汚い場所に置かないで!」


 エレーナは狂乱したように看守にすがりついていた。

 彼女はジュリアスの資産を持ち逃げした後、隣国の商人(実際は間諜)と逃亡を図ったが、国境付近で憲兵に捕縛された。商人は彼女を囮にして逃げようとしたが失敗し、エレーナは「国家反逆幇助」の重罪で、このバザル鉱山へと送られてきたのだ。


「エレーナ! 貴様ぁっ!!」


 ジュリアスは手にしたツルハシを放り出し、泥を跳ね上げながらエレーナに掴みかかった。


「きゃああっ!? な、何よあんた……ジュリアス!?」


「よくも、よくも私を裏切ったな! お前が私の財産を盗み、公爵家の資産にまで手を出したせいで、私はこんな地獄にいるんだぞ! お前の甘言に乗って、リディアを捨てた私が馬鹿だった!」


 ジュリアスはエレーナの首元を掴み、狂ったように揺さぶる。

 だが、エレーナも負けてはいなかった。彼女はジュリアスの顔を鋭い爪で引っ掻き、泥まみれの地面に彼を突き飛ばした。


「ふざけないで! あんたが頼りないからよ! リディア様に任せきりで、自分では書類一枚まともに読めない無能な王子のくせに! あんたがもっと頭が良くて、ちゃんとお金を持っていれば、私だって逃げたりしなかったわよ!」


「なんだと!? この卑賤な女狐め!」


「あんたこそ、王族の面汚しよ!」


 かつて王宮の煌びやかな舞踏会で見つめ合い、永遠の愛を誓い合ったはずの二人は、今や泥濘に塗れ、互いの醜い本性を剥き出しにして、獣のように殴り合い、罵り合っていた。

 周囲の囚人たち――ジュリアスの父である前公爵や、元法務官のバルトロたちは、そんな二人を虫けらでも見るような冷ややかな目で傍観している。彼らにはもう、誰かを助けるような気力も義理も残されていなかった。


「おい、新入りと元王子。作業の手を止めるな!」


 看守の容赦のない鞭が、二人の背中を打つ。

 鋭い痛みに、二人は悲鳴を上げて地面に転がった。


「痛いっ、嫌だ、助けて……誰か助けて……」

 エレーナが泥水を啜りながら泣き崩れる。


「リディア……リディア……!」

 ジュリアスは、もう届くはずもない元婚約者の名前を、うわ言のように繰り返していた。


 そんな惨めな二人の頭上を、看守たちの世間話が通り過ぎていく。


「おい、聞いたか? 王都じゃ来月、あのアシュバートン家の元令嬢、リディア様と、近衛騎士団長のカイル公爵の結婚式が執り行われるらしいぜ」

「ああ、聞いた聞いた。なんでも陛下とアルベルト殿下が、国家の恩人であるリディア様のために、王庫を開いて最高の祝いの品を贈ったとか」

「東部を立て直した本物の天才と、国内最強の剣聖の結婚だ。これ以上ないくらいお似合いの、最強の夫婦だな」


 その言葉は、ジュリアスとエレーナの心に、最後にして最大の絶望という名の物理的な杭を打ち込んだ。


 彼らが泥の中で永遠の苦しみを味わっている間、彼らが踏みつけ、追い出したはずのリディアは、国家中から祝福され、最強の男の愛を一身に受けて、光の当たる頂点へと上り詰めていたのだ。

 二人はもう、声を発することすらできず、ただ絶望の泥の中にうずくまるしかなかった。


 王都の高台。カイル様の別邸。

 私が書斎の窓から澄み切った秋の夜空を見上げていると、背後から温かな外套が私の肩に掛けられた。


「夜風は冷えますよ、私の女神」


 カイル様が、私の背中からそっと抱きすくめる。彼の大きな体が発する熱と、清潔な香りが私を包み込む。


「カイル様……。私、今とても幸せですわ」


「足りません」

 カイル様は私の耳元で、甘く、低く囁いた。

「今の千倍、万倍、貴女を幸せにします。貴女が過去に流した涙の数だけ、この世界の法則を書き換えてでも、貴女の人生を光で埋め尽くしてみせる。……リディア、私の花嫁。私のすべて」


 カイル様の手が私の左手を取り、その薬指に、先ほど彼が見せてくれた『星の涙』の指輪が、魔法のように音もなく嵌められた。

 それは、私の指にぴったりと合い、微かな温もりを持って輝いている。

 この指輪がある限り、物理的にも、そして愛の深さにおいても最強すぎる彼が、私のすべてを守り抜いてくれるのだ。


 かつての悪意はすべて自滅し、泥の中へと沈んだ。

 私を囲む絶対的な結界は、もう冷たい孤独の檻ではなく、世界で最も温かく甘い誓いで満たされた「愛の聖域」となっていた。

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