聖域の不可侵境界と、ゴミ捨て場の再会
昨日の「スラム事件」から一夜明け、私の住む別邸の周囲は、もはや別の国の要塞か何かのような変貌を遂げていた。
朝、バルコニーから外を確認した私は、思わず持っていた扇子を落としそうになった。
「……カイル様。あそこにそびえ立っている、あの、天を突くような白亜の塔は何かしら?」
「ああ、あれですか。リディア様の視界に、万が一にもあの不潔な男が入らないように設置した『視覚遮断式超高層防壁』です。さらに、塔の頂上からはリディア様の好みの香料を混ぜた魔力霧を散布しており、周囲の空気も常に清浄に保たれています」
カイルは、さも当然のことのように私の背後に立ち、私の髪を一房掬い上げて熱心に口づけた。
……視界に入らないように塔を建てる? 普通はカーテンを閉めるとか、せいぜい生垣を高くする程度ではないだろうか。
「それにしても、やりすぎではありませんか? あれでは近隣の方々が太陽の光を浴びられませんわ」
「ご安心ください。あの塔の壁面はすべて特殊な魔力反射板になっており、太陽光を一点に集めて、あいつら……いえ、あの不浄な者たちが現在身を寄せているスラムの廃屋だけを、ピンポイントで二十四時間照らし続ける仕様になっております。彼らには日光浴が必要でしょう? 逃げ場のない、灼熱のね」
カイルの笑顔は、この世のものとは思えないほど美しい。だが、その背後に見えるオーラは、魔王のそれよりも遥かに禍々しい。
あの二人は今頃、逃げ場のない光に晒され、自分たちの醜い姿を四六時中見せつけ合っているということか。……うん、自業自得ね。
その日の午後。
王都から一通の親書が届いた。差出人は、現国王――つまり、ジュリアスの父上である。
内容は「ジュリアスの不始末についての謝罪」と、「事態の収拾のための話し合い」を求めるものだった。
「リディア様。王宮へ行く必要はありません。陛下には、私が『リディア様は現在、過度の精神的ショックにより、私以外の人間が半径十メートル以内に近づくと発作が起きる状態にある』と伝えておきました」
「……いつの間にそんな虚偽の申告を」
「虚偽ではありません。私の心臓が、リディア様に近づく不届き者を見るたびに『殺せ』と激しく発動……いえ、発作を起こすのですから。実質的に真実です」
カイル様。それは貴方の独占欲が暴走しているだけです。
しかし、彼が「どうしても」と言うので、私は結局、王宮ではなくこの別邸の「謁見の間(カイル様が昨日、三時間で改築した)」で、国王の使者、そして……なぜか無理やり同行を許されたジュリアスと対面することになった。
もちろん、対面と言っても「物理的」な距離は凄まじかった。
「……リディア、そこにいるのか!? 何も見えないぞ!」
謁見の間の入り口で、ジュリアスが叫んでいる。
それもそのはずだ。私の座るソファと、入り口の間には、カイル様が設置した『多重次元防護結界』が幾重にも重なり、さらにその前には近衛騎士団の精鋭たちが十列に並んで壁を作っている。
ジュリアスからは、私の影すら見えないはずだ。
「ジュリアス様。貴方のような不浄な存在の吐息が、リディア様の吸う空気に混じることを許可するわけにはいきません。用件があるなら、その場に跪き、床に頭を擦り付けながら喋りなさい。声が小さければ、即座に排除します」
カイルは私の隣で、私の手を握り締めながら冷たく言い放つ。
その握る力は羽のように軽いが、発せられる威圧感は王宮全体を震わせるほどだ。
「カ、カイル・ヴァン・ブライト! 貴様、いい加減にしろ! 私は王子だぞ! リディア、私を助けてくれ! あのエレーナという女、あいつは……あいつは、私を捨てて、隣国の商人と逃げようとしたんだ! だがその商人も実は詐欺師で、今、二人して憲兵に捕まっている! 私にはもう、君しかいないんだ!」
……案の定すぎる展開に、私は思わず額を押さえた。
エレーナもエレーナだが、彼女にすら見捨てられ、さらにその逃亡先さえも偽りだったとは。
「リディア! 私が悪かった! あんな女の誘惑に負けた私が愚かだった! 君が毎日こなしていた書類仕事、あれを私がやるようになって初めて分かったんだ。あんなに膨大な量、人間業じゃない! 私の生活はメチャクチャだ、借金取りは毎日来るし、食べるものさえ……!」
「……それが、私に縋る理由ですか?」
私は結界越しに、静かに問いかけた。
「貴方は私が好きなのではなく、自分の生活を整えてくれる『便利な装置』が欲しかっただけ。そして今、その装置がなくなって不便になったから、返せと言っている。……あまりにも、私を馬鹿にしすぎていませんか?」
「違う! 私は、私は君を愛して……!」
「黙れ、クズが」
カイルが低く呟いた瞬間。
物理的な圧力が、ジュリアスの周囲の空気を爆発させた。
ジュリアスはまるで透明な巨大な手に叩かれたように、謁見の間から廊下の端まで一気に吹き飛ばされた。
「ぐはっ……!? ひ、ひぎぃっ!」
「愛などという尊い言葉を、その汚れた口で二度と紡ぐな。貴様がリディア様に与えたのは、絶望と侮辱だけだ。……陛下への返答は決まった。リディア様は、私が一生をかけて、貴様の想像も及ばない高みで幸せにする。貴様は、その底辺で、泥を啜りながら彼女の背中を拝んでいればいい」
カイルは立ち上がり、吹き飛ばされたジュリアスに向けて、右手を掲げた。
「――騎士団長権限、およびブライト公爵家当主として命ずる。この男の王都への立ち入りを永久に禁じ、辺境の鉱山での終身労働を課す。これは、彼が横領した公金の返済に充てられるものとする。……連れて行け」
「な、なんだと!? 父上! 父上、お助けを! あ、あああああああ!」
ジュリアスの叫び声は、近衛騎士たちによって強引に引きずられていく音と共に遠ざかっていった。
彼はもう、二度と私の前に現れることはないだろう。鉱山での重労働は、甘やかされて育った彼にとって、死よりも辛い苦しみになるに違いない。
嵐のような騒がしさが去り、室内には再び静寂が訪れた。
カイルは、先ほどまでの冷酷な顔が嘘のように、子犬のような潤んだ瞳で私を見つめてきた。
「リディア様。……少し、怖がらせてしまいましたか? やはり、物理的に消し飛ばすのではなく、異次元に追放して存在自体を抹消すべきでしたね。私の配慮が足りませんでした」
「いえ、そうじゃないんです、カイル様。……ただ、そんなに私のために怒ってくださるのが、少し意外で」
私がそう言うと、カイルは私の両手を包み込み、そのまま膝をついて跪いた。
「意外? とんでもない。私は、貴女が婚約破棄を言い渡される前からずっと、貴女を愛していました。……あの日、泣いている貴女を抱きしめた時、私は神に誓ったのです。この世界にあるすべての悪意から、貴女を物理的に隔離し、甘やかして、二度と涙を流させないと」
彼の言葉は重く、そしてどこまでも真剣だった。
過保護。過剰。異常なまでの守護欲。
けれど、それはすべて、私という人間を心から肯定してくれるためのもの。
「カイル様……。私、もう泣きませんわ。貴方がこんなに、壁を作ってくださるんですもの」
「壁だけではありませんよ。明日は、リディア様が歩く場所に花びらが自動で舞い散る魔法回路を庭園全体に埋め込む予定です。それと、屋敷を浮かせて雲の上で生活できるように改造する計画も……」
「それは本当にお止めなさいな。買い物が不便になりますわ」
私はカイルの頬に手を触れ、くすくすと笑った。
元婚約者は地を這い、私は空を飛ぶような愛の中にいる。
物理的に最強な騎士様に守られた私の人生は、これから先、どんな復讐よりも甘く刺激的なものになりそうだった。




