酒場にて
「姉ちゃん、いい女だな」
「そりゃどうも」
酒場のカウンターで一人飲んでいた女性――クローネは、右隣に座った大柄で髭面の男から声を掛けられ、素っ気ない言葉を返した。
黒い革のハーフジャケットとハーフパンツにブーツという装いで大人の色気を存分に漂わせている彼女は、惜しげもなく晒した長い足を組み、遠目からでもわかる豊かな胸も相まって、他の客の視線をも独占していた。
「姉ちゃん、名前は?」
「クローネよ」
「いい名前だ」
「そりゃどうも」
会話とは名ばかりの短い言葉の応酬の後、男はクローネが右腰に携えている剣に目をつけた。
燃えるような紅い色の鞘は、まるで炎を具現化したような独特の形状をしている。
「変わった鞘だな、その剣」
「あら、お目が高い」
クローネは初めて笑顔を見せた。品のある上品な笑みは、美麗な顔に映える。
「ちょっと見せてくれないか?」
男が剣に手を伸ばそうとすると、クローネはその手を容赦なく払い、右手で剣を押さえた。
「だめよ。この剣はヘルヴァーテといって、命の次に大事な剣なんだから」
「ほぉ、名のある剣か……気に入った。その剣をいただこうか」
欲望に火がついた男が目をぎらつかせると、クローネは眉をひそめて声を荒らげた。
「あなた、人の話を聞いてる? これは命の次に大事って言ったじゃない!」
「だから欲しいんだよ! さぁ、おとなしくよこせ!」
男は酒臭い息を吐きながら、剣を守る右腕に手をかけた。クローネはその手を振り払って席を立つと、左手でヘルヴァーテの柄に手をかけた。
「抜いてみろ。相手になってやる」
剣を抜き放ち、男も戦う構えをとる。
「本当にいいの? 後悔してもしらないわよ? ……そんな暇なんてないでしょうけど……」
囁くように付け加えた言葉は、男の耳には届いていない。
一触即発の空気が流れる中、マスターが不安そうな顔で話し掛けた。
「あんた、彼が誰だか知っとるのかね?」
「さぁ? 管を巻くしか能のない中年親父かしら?」
「何を馬鹿な。彼はスラン公国騎士団の元騎士でアヴィスといってな、とてもあんたが剣で敵うような相手じゃありゃせん。悪いことは言わんから、その剣を差し出して謝るんじゃ」
「へぇ、騎士さんがこんな悪党みたいなことしちゃっていいの?」
目を細めて薄い唇に笑みを浮かべながら、クローネはわざと間違えて挑発した。
「うるせぇ! 称号を剥奪された俺はもう騎士じゃねぇ! だから好き勝手に生きているんだ! お前にとやかく言われる筋合いはねぇ!」
アヴィスは頭に血がのぼり、剣のことなどもう眼中にはない。ただ、目の前の生意気な女を殺したいという衝動のみが感情を支配している。
アヴィスの品のない言葉遣いに呆れ、クローネは柄から左手を離した。
「つまり、あなたは悪党みたい、じゃなくて、悪党そのものってことね?」
「黙れ! さっさと剣を抜け!」
怒鳴りながら剣を突きつけたアヴィスに対し、クローネは真剣な眼差しで再度問う。
「本当にいいのね? あなた、確実に死ぬわよ?」
「上等だ! やれるもんならやってみやがれ!」
なまじ剣の腕に自信があるだけに、アヴィスは一歩も引かない。
クローネはこの戦いが不可避だと判断し、剣の鞘を右から左の腰に付け替えると、店内に響き渡る大声で叫んだ。
「巻き添えになりたくない人は、今すぐ店から避難して!!」
だが、誰一人として動こうとしない。皆、面白い見世物が見られると酒を片手に見物を決め込んでいる。
その様子を見たクローネは悲しそうな表情を見せた。
「馬鹿な人たち……」
そう囁き、剣を抜いた途端、彼女の表情は一変。豊かな感情は影を潜め、狂気を宿した冷たい瞳がアヴィスを捉えた。
「……」
無言で放った初撃を、アヴィスは難なく受け止めた――が、ヘルヴァーテに宿る超高熱は刀身を溶かし、彼に触れるや、発火して骨も残さずに燃やし尽くした。
主を失った剣の柄が鈍い音を立てて床に落ちる。
途端、店内がざわめいた。
眼前で起こった現実を受け入れられず、目撃者たちは全員目を丸くして謎の女剣士を見つめている。
「……」
クローネは視線を店内に向け、客たちを捉えるや、疾風の如き速さで店内の全ての客を燃やし、その存在を完全に消し去った。
絶望的な死の予感に戦慄し、マスターは店から逃げ出そうとしたが、背後から心臓を一突きにされ、絶命するとほぼ同時に肉体は焼失した。
視界から人の姿が消え、クローネは正気を取り戻した。剣を鞘に収め、辛そうな表情で閑散とした店内を見回す。
「だから言ったじゃない……避難してって……」
勧告を無視したのは彼ら自身であるが、どうにも後味が悪い。
もし店内で人的被害を出さないために外に出ていれば、より多くの通行人を殺していただろう。つまり、彼女の判断は最善であり、この店でアヴィスがクローネに声をかけたことが犠牲者たちの不運であったといえる。
クローネはカウンター席に戻り、物憂げにグラスを回しながら呟く。
「ヘルヴァーテは、どうして私を選んだのかしら……」