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【第28話】ファースト・リーフ


 夜明けまで、残り3時間。

 

 ライオネルの実家、その庭の隅に建つ離れの一室は、皮肉なほど静まり返っていた。窓の外では、夜警が鳴らす鐘の音が遠くで響き、刻一刻と「その時」が近づいていることを告げている。

 

 先ほどまでの激情が嘘のように、レイはベッドの端に座り、空中に展開したインターフェースを無言で見つめていた。その指先は、時折バグを起こした映像のように淡く透過し、シーツの柔らかな感触さえもデジタルなノイズへと変換され、手応えを失いかけていた。

 

「直人様、警告します。ガルド氏、ミラ氏、フィリス氏の3名に対する『多重演算による存在固定フリーズ・オブジェクト』は、直人様の記憶リソースを秒単位で摩耗させています。論理的推論によれば、太陽が昇る前に直人様の『コア』が消失し、精神崩壊を起こす確率は98.7パーセントです」

 

(うるさい、ARIA。……黙って計算だけを続けろ。管理者が引いたデッドラインを、上書き(エディット)する方法が必ずあるはずだ。俺が、映像編集でやってきたみたいに……不要なカットを繋ぎ直して、結末を書き換えるんだ……!)

 

「……レイ。また、そんな顔をしているのね」

 

 暗がりの隅、椅子に腰かけ、聖印を握りしめていたエレナが静かに立ち上がった。彼女は、レイが部屋に戻った後も、彼の「欠落」が怖くて眠れずにいたのだ。離れの部屋には微かに薬草の香りが漂い、彼女が戦い傷ついた仲間たちのために、心を砕いて準備をしていたことを物語っている。

 

「エレナ……。起きていたのか」

 

「眠れるわけがないわ。あなたの指先が、さっきよりもっと透けている。……ねえ、レイ。あなたは今、何を対価にしているの? 私たちのために、何を捨てているの?」

 

 エレナが歩み寄り、レイの手を握ろうとした。だが、彼女の指は、まるで冷たい霧に触れたかのようにレイの手の甲を通り抜けた。エレナは息を呑み、絶望に目を見開く。

 

「……レイ、あなた……本当に、消えてしまうの?」

 

「……大丈夫だ。俺が消える前に、この世界を修正してみせる。俺には、そのためのインターフェースがあるんだ」

 

 レイは、彼女の悲痛な問いから逃げるように視線を操作画面へ戻した。レイの視界には、エレナの生命維持コストや、彼女が抱く不安の閾値いきちまでもが数値化されて表示されている。そんな冷徹なデータが、かつては友人であった彼女との間に、決定的な壁を築き始めていた。

 

 その時、離れの扉が静かに開き、夜番を終えたガルドが入ってきた。彼は大きな体を屈めるようにしてレイの横に座った。ずっしりとした重みがベッドのバネを軋ませ、その振動がレイに伝わってくる。

 

「レイ。……エレナもか。2人して、そんなに暗い顔をするな。俺たちは、これまで何度も死線を越えてきたじゃないか。どんなに深い傷だって、お前の策とエレナの光があれば、明日には笑っていただろ?」

 

 ガルドは無骨な手でレイの肩を叩こうとしたが、その瞬間、彼は自分の手がレイの体をすり抜けたことに気づき、眉を寄せた。

 

「……なんだ、これは。レイ、お前……体が霞んでいるぞ。どんな魔法だ」

 

(ARIA、管理者が来る! 座標、至近距離。空間のレンダリングを停止しろ!)

 

 突如、世界から音が消えた。窓の外で鳴っていた鐘の音が、引き延ばされたテープのように歪み、不自然に途絶える。

 

 ガルドも、エレナも、眠っていたフィリスやミラも、時が止まったように動きを止めた。松明の炎さえも、オレンジ色の結晶のように静止した。世界そのものがフリーズしたのだ。

 

 壁を透過し、あの純白のローブを纏った影――管理者が、音もなく現れた。

 

選別ソートの時間だ、観測者」

 

 直接脳の髄に響くような、性別も感情も判別できない無機質な声。

 

「不完全なデータを全て保持しようとするその執着が、領域の負担となっている。……対象を選択せよ。さもなくば、3名同時に消去パージする。これは効率の追求であり、慈悲ではない」

 

「待て……! エレナが見ている! 彼女の前で、こんな残酷な真似を……!」

 

「彼女は今、観測を停止されている。……優先順位。物理占有面積の最大値を持つ個体。ガルド・バラン。これより、全領域からの削除プロセスを開始する。不要な属性情報の破棄、およびメモリの解放を実行」

 

「やめろッ!!」

 

 レイは叫び、インターフェースを殴りつけた。

 

 ガルドの体が、足元からデジタルな砂となって崩れ始める。

 

 その時、奇跡か、あるいは致命的なエラーか。フリーズしていたはずのエレナの瞳が、ゆっくりと動いた。彼女は、光の粒子となって消えていくガルドの姿を、その目に焼き付けていた。神官としての強い信仰心が、世界の静止さえも一瞬だけ突き破ったのだ。

 

「嫌……! ガルド! 待って、行かないで!」

 

 彼女の叫びは、静止した世界に空虚に響く。神官としての祈りも、蘇生の呪文も、システムによる削除の前では1文字のコードにも満たなかった。

 

「……レイ。……エレナ」

 

 消えゆくガルドが、最後に2人を見た。彼は死を恐れる様子もなく、ただ残される2人を案じるように、静かに微笑んだ。その眼差しは、かつて多くの戦場を共に駆け抜けてきた戦友としての誇りに満ちていた。

 

「……お前たちが……覚えていてくれるなら……俺は……構わな……」

 

 最後の言葉は、音声を構成するデータが消失したことで、耳に届くことはなかった。

 

 光の粒子が部屋を埋め尽くし、眩い白濁ののち、ガルドの姿は跡形もなく消えていた。彼が愛用していた大盾も、戦槌も、最初から存在しなかったかのように消滅した。離れの壁に掛かっていた彼の予備の装備も、彼が書き残していたはずの記録も、すべてが塵となって霧散した。

 

 そして――世界が再び動き出す。

 

「……あれ? 私、なんで泣いているのかしら」

 

 エレナが、頬を伝う涙を震える指で拭った。彼女は、ガルドが座っていた空っぽのベッドを見つめ、ひどく困惑した表情を浮かべている。

 

「レイ、今、ここに誰かいたような……。私、誰か大切な人の名前を呼んでいた気がするの。……思い出さなきゃいけない、誰か。ねえ、レイ、私たちはさっきまで、誰の話をしていたの?」

 

「……誰もいないよ、エレナ。最初から、俺たちは5人と1匹のパーティだろ?」

 

 レイは、心を引き裂かれるような思いで嘘を吐いた。インターフェース上には、ガルドが消えたことで確保された莫大な空きメモリの容量が表示されている。その冷たい数字が、仲間の命と引き換えに得た生存の証だった。

 

 エレナは、自分の記憶が砂の城のように崩れていく恐怖に震えながら、レイの透き通った手を凝視した。

 

「嘘よ……。あなたは、何かを隠している。ねえ、レイ! 消えたのは誰!? あなたが消したの!? 私たちの心の中から、誰を追い出したのよ! 神官として……いいえ、一人の人間として、あなたのその目が、取り返しのつかない罪を犯したことを告げているわ!」

 

 エレナの悲鳴のような問いに、レイは答えることができなかった。答えてしまえば、彼女の精神は世界の不整合に耐えきれず、ガルドと同じように削除対象となってしまうからだ。

 

 ガルドを消した無慈悲な朝日が、離れの床に長い影を落としながら、窓から差し込み始める。

 

 レイの瞳に宿るのは、烈火のような闘志と、狂気にも似た記録者の執念。

 

 彼は決意した。たとえ、自分一人が世界から怪物だと蔑まれようと、たとえ最愛の仲間たちから憎しみの眼差しを向けられようと。

 

(助ける。絶対にだ。たとえ、エレナに罵られようとも……。1文字のデータさえも、これ以上消させはしない。……俺が、この世界のすべてのログを支える柱になってやる)

 

 レイ・クロノスという人間が、冷徹なシステムへと堕ちていくカウントダウンは、もう誰にも止めることはできなかった。足元でルクスが、ガルドのいなくなった場所を一度だけ嗅ぎ、悲しそうに主人の足に顔を寄せた。


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