【第27話】重複する残像
宿屋の二階の一室。
窓の外では、王都の夜が何事もなかったかのように更けていく。
遠くで夜警の鳴らす鐘の音が響き、酔った客の笑い声が微かに届く。
そんな「ありふれた日常」が、今のレイには酷く空々しい舞台装置のように感じられた。
レイは机の上に置かれた木製のコップに手を伸ばした。
指先が冷えた水差しに触れようとした、その瞬間。
キィィィィィィィン!
鼓膜を突き刺すような高周波の耳鳴りと共に、レイの右目に激しいノイズが走った。
世界が、二重に重なる。
ガシャリ、という硬質な音。
目の前で寛いでいたはずのライオネルの胸を、虚空から突き出された漆黒の刃が容赦なく貫く。
熱血漢の象徴であった屈強な体が、抗う術もなく「消去」の光に呑み込まれていく。
ライオネルの絶叫。
鮮血がベッドのシーツをどす黒く汚し、肉の焼ける嫌な臭いが鼻を突く。
「……あ、が……ッ!?」
レイは喉の奥から絞り出すような悲鳴を上げ、その場にうずくまった。
だが、次の瞬間。
視界は元の静かな部屋に戻っていた。
ライオネルはベッドに腰掛け、相棒である大剣を丁寧に布で拭っている。
胸に傷などどこにもない。
彼はレイの異変に気づき、慌てて身を乗り出した。
「おい、どうしたレイ! 顔色が真っ青だぞ。……やっぱり、さっきの無理が利いてるんじゃねえのか? エレナ、こいつを診てやってくれ!」
ライオネルの太い声が部屋に響く。
俺は震える右手を左手で必死に押さえつけ、荒い呼吸を整えようと努めた。
冷や汗が背中を伝う。今視たものは、単なる悪夢や幻覚などではない。
(……ARIA、今の「映像」は何だ。説明しろ。今すぐだ!)
脳内で、冷徹なまでに平坦な合成音声が即座に応答する。
『それは戦闘時、直人様がインターフェースによる「固定」に失敗した場合に発生していたはずの確定事象――「ライオネルの死亡ログ」です。本来なら時間軸の修正と共に破棄されるはずの不要データが、直人様の拡張された記憶領域にキャッシュとして残留しています』
(キャッシュだと……? ふざけるな。ライオネルは生きてる。俺が、この手で助けたんだ!)
『論理的には肯定します。しかし、現在の直人様のインターフェースは「観測可能なすべての可能性」を等価に処理し始めています。今の直人様にとって、ライオネルが生きている現実と、無惨に殺された記録は、どちらも「真実」として同列に存在してしまっているのです』
レイは猛烈な吐き気に襲われた。
目の前で快活に笑っている仲間と、物言わぬ肉の塊となって転がっている仲間の残像。
その両方を「正しい事実」として認識してしまう脳が、限界を超えて悲鳴を上げている。
「レイ……。さっきから、様子が変よ。私たちのこと、まるで幽霊でも見るみたいな目で見てるわ」
部屋の隅で薬草を調合し、戦いの後始末をしていた神官のエレナが、手を止めて歩み寄ってきた。
彼女の慈愛に満ちた瞳には、レイのインターフェースを共有して以来、消えることのない不信と底知れぬ不安が沈殿している。
「……すまない。少し、考え事をしていただけだ」
「何を? また、自分の何かをチップにして、私たちを守る『効率的な方法』でも考えているの?」
エレナの言葉は、鋭い礫となってレイの胸を抉った。
神官として、そして一人の友人として人の命を尊ぶ彼女にとって、レイが「自分の記憶」という唯一無二の資産をリソースに変換し、奇跡を買い取るような戦い方は、冒涜以外の何物でもないのだろう。
「レイ、聞いて。ガルドもミラも、フィリスも……みんな言ってるわ。もう、あんな戦い方はしないでって。あなたが誰だか分からなくなるくらいなら、私たちは――」
「――死んでもいいって言うのか?」
レイの声が、自分でも驚くほど冷たく、そして乾いた響きを持って部屋を支配した。
エレナが息を呑み、開いた口を塞げずに立ち尽くす。
ライオネルも剣を拭う手を止め、部屋の空気が一気に氷点下まで下がった。
「粛清者に消されれば、ただ死ぬだけじゃないんだ。誰も、皆のことを思い出せなくなる。両親も、故郷の友人も、この世界の歴史からも、皆の存在は『削除』されるんだぞ。……そんな残酷な結末を、黙って指をくわえて見てろって言うのか?」
「それは……確かに恐ろしいことかもしれないわ。でも、レイ。自分の心を切り売りして守った世界に、あなた自身がいなくなってしまったら、私たちに何が残るの?」
「でも、やるしかないんだよ!……俺にどうしろというんだ!」
感情を爆発させたレイは、椅子を蹴るようにして立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出した。
背後でフィリスが「レイ!」と呼ぶ声がしたが、今の彼にはその声さえも、自分を「人間」という狭い枠に繋ぎ止めようとする呪縛のように感じられた。
宿の薄暗い廊下を歩く足取りはおぼつかない。
一歩踏み出すたびに、インターフェースが勝手に視界を覆い、周囲の壁の「腐食度データ」や、床の「摩擦係数」、さらには窓の外を飛ぶ虫の「生存確率」までを、暴力的な情報量で脳内に叩き込んでくる。
(……うるさい。黙れ、ARIA。今は何も見せるな! 遮断しろ!)
『不可能です。観測者の覚醒に伴い、直人様の感覚閾値は世界の深層部へと強制的に固定されました。……直人様、警告します。感情的な拒絶は、データ処理の不整合を招き、最悪の場合、あなた自身が「システムエラー(バグ)」として世界から排斥されます』
(バグだって……? 俺が、削除の対象になるっていうのか。この世界を守ろうとしている俺が!)
その時。
廊下の突き当たり、明かりが届かない深い影の中に「それ」は立っていた。
今まで対峙してきた、禍々しい漆黒の甲冑を纏う粛清者ではない。
純白の、染み一つないローブを纏った人型の影。
顔があるべき場所には、ただ虚無のような滑らかな面が広がっており、そこには表情も、瞳も、慈悲も存在しなかった。
「……観測者よ。ログの肥大化が、既に許容限界に達している」
直接脳の髄に響くような、性別も感情も判別できない無機質な声。
「お前は保存しすぎている。不要な枝葉、不要な感情、不要な可能性。不完全なデータを全て保持しようとするその執着が、世界の読み込み速度を低下させている」
「……管理者、か?」
レイは無意識に、空中にインターフェースを展開しようとした。
だが、指が動かない。
白い影がそこに立っているだけで、世界の「処理優先順位」が、レイの手から強権的に奪い取られていくのを感じた。
「不完全な記録は、エラーの元凶となる。レイ・クロノス……。お前がその仲間という名の『重荷』を抱え続ける限り、この領域(サーバー)は崩壊を免れない。世界を安定させるためには、適切な剪定が必要だ」
「勝手なことを言うな! 俺たちが不完全なのは当たり前だ。生きているってことは、揺らぎ続けるってことだ。それをバグだと切り捨てるお前たちの都合に、誰が従うか!」
「ならば、選別を始めよう」
白い影が、静かに、そして事務的に手を上げた。
その瞬間、レイのインターフェース上に、不吉な血のように赤い「デッドライン」が引かれる。
ガルド、ミラ、フィリス。
仲間の名前の横に、今まで見たこともないほど不吉な輝きを放つ、カウントダウンのタイマーが灯る。
「……何をした」
「可能性の収束だ。お前の観測能力が分散しすぎている。次に太陽が昇る時、お前のログから最も重い『データ』を一つ、物理的に削除し、メモリを解放する」
白い影が、陽炎のようにかき消えた。
廊下には、不自然なほどの静寂が戻る。
ワフッ、と足元で低い鳴き声がした。
いつの間にか追ってきていた愛犬ルクスが、レイのズボンの裾を噛み、必死に彼を現実へと引き戻そうとしている。
主人が手に入れた新しい力が、どれほど破滅に近いものであるかを、この賢い獣だけは本能で理解しているようだった。
レイはふらつく足取りで部屋に戻った。
中では、ライオネルたちがさっきの言い合いを後悔しているのか、沈痛な面持ちで座っていた。
「レイ、おかえり。……さっきは言い過ぎたわ。ごめんなさい」
エレナが申し訳なさそうに微笑む。
(……助ける。絶対にだ。誰一人、一文字のデータさえも消させやしない)
レイの瞳に、烈火のような闘志と、狂気にも似た「記録者」の執念が宿る。
(第28話へ続く)




