【第2話】俺の涙と両親の温もり
頬を伝う涙が、温かいカボチャのスープに落ちて波紋を作った。
あの日、教会の鑑定儀式で「外れスキル」の烙印を押された俺を待っていたのは、責め苦ではなく、痛いほどの優しさだった。
「レイ、無理して笑わなくていいんだよ」
母さんの柔らかな手が、俺の頭を撫でる。
「母さんたちはね、あなたがどんなにすごい魔法を使えるようになっても、剣の天才になっても、今のレイのままでも、同じくらい愛しているわ。神様からの贈り物が『記録』だったとしても、それはあなたが選ばれた証拠なんだから」
「……うん、分かってる。ありがとう、母さん」
俺は五歳の子供らしい仕草で答えた。だが、その中身は四十五歳のおっさんだ。
情けなくて涙が出たのではない。
前世、深夜の編集室でカップ麺を啜りながら、誰にも顧みられずに死んでいった俺にとって、この「無償の愛」がどれほど救いか、彼らには想像もつかないだろう。
父さんも、ごつごつした大きな手で俺の肩を叩く。
「いいかレイ、俺たちの運送屋を見てみろ。荷物を間違えずに、時間通りに届ける。地味だが、それが町の皆んなの生活を支えてるんだ。『記録』ができるなら、お前は最高の運送屋になれる。俺の跡継ぎにぴったりだぞ!」
父さんの豪快な笑い声が食卓に響く。
その夜、俺は自分の部屋で、自分だけにしか見えない青白いウィンドウを凝視していた。
【Name: レイ・クロノス】
【Skill: 記録LV1】
(対象の情報を正確に保存する能力)
「……記録、か」
テレビマン時代、俺が最も憎み、そして最も頼りにしてきた言葉。
映像は、記録された瞬間に過去になる。
だが、記録されなければ、その瞬間は存在しなかったのと同じだ。
神様は俺に「世界を救え」と言った。
だが、この世界にはカメラもなければモニターもない。
俺が培ってきた「カット割り」や「テロップ入れ」や「MA(音入れ)」の技術は、この中世ファンタジー風の世界では、豚に真珠、あるいは砂漠に撒いた一滴の水のようなものだった。
(せめて、火を出したり空を飛んだりできれば分かりやすかったんだけどな……)
それから、俺の二重生活が始まった。
昼間は、父さんの仕事を手伝う「神童」としての顔だ。
俺の『記録』スキルは、実務において異常なまでの効率を発揮した。
一度見た顧客の顔、住所、荷物の重量、さらには配送ルートの最短距離。
それら全てを脳内の「フォルダ」に整理し、瞬時に呼び出すことができる。
「クロノスの家の倅は、歩く台帳だ」
町の人々はそう噂し、俺を重宝した。父さんの仕事はみるみるうちに拡大し、家計は以前より潤った。
だが、夜。
家族が寝静まった後、俺は一人で庭へ出た。
愛犬ルクスの背中を撫でながら、俺は木刀を振るい、走り込みを続けた。
(神様は言った。『お前の知識と結びついた時、唯一無二の力となる』と)
その言葉を信じるしかなかった。
『記録』が戦闘に使えないのなら、俺という「ハードウェア」を鍛え上げるしかない。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット。前世の不摂生な身体とは違う、若く、可能性に満ちたこの肉体に、俺は死に物狂いで筋肉を刻み込んだ。
テレビ局での徹夜に比べれば、筋肉の痛みなど心地よい刺激に過ぎない。
十歳、十二歳、十五歳――。
俺の身体は、同年代の誰よりも引き締まり、しなやかなバネを持つようになっていた。
そして、運命の十六歳。
成人を迎えた俺は、両親に自分の想いを告げた。
「父さん、母さん。僕、王都へ行って冒険者になりたい」
二人は驚いていたが、最後には笑顔で送り出してくれた。
俺の背中に隠された、十一年間の血の滲むような鍛錬に気づいていたのかもしれない。
◇
王都アストリア。
その門をくぐった瞬間、俺は圧倒された。
空を突くような白亜の塔、行き交う豪華な馬車、そして背中に身の丈ほどもある大剣を背負った冒険者たち。
「すげえ……映画のセットどころじゃないな」
つい前世の口癖が出る。
俺の目的地は、その中心部にある「冒険者ギルド」の総本部だ。
重厚な石造りの扉を押し開けると、中は熱気と酒と鉄の匂いで充満していた。
掲示板に群がる男たち。酒場で気勢を上げるパーティー。
その喧騒に一歩足を踏み入れた途端、俺は足元に置いてあった樽に気づかず、派手に躓いた。
「うわっと!?」
尻もちをついた俺の前に、大きな影が落ちる。
「……おいおい、見かけねえツラだな。迷子か、お坊ちゃん?」
見上げると、いかにも「噛ませ犬」といった風貌の、柄の悪い男たちが俺を取り囲んでいた。
「ひゃはは! 王都見学ならよそでやりな、ボウズ。ここは死にたい奴が来るところだぜ!」
周囲の冒険者たちからも笑い声が漏れる。
前世の俺なら、ここで平謝りして逃げ出していただろう。
だが、今の俺は四十五年の処世術と、十一年の肉体鍛錬を積み上げている。
俺は無言で立ち上がり、服についた埃を払った。
「……すみません。前を見ていませんでした」
短く謝罪し、男の脇を通り抜けようとする。
「待ちやがれ! 無視すんじゃねえぞ!」
男が俺の肩を掴もうとした、その時。
俺は最小限の動きでその手をかわし、カウンターの受付へと向かった。
「……あら、災難だったわね」
受付には、黄金色の長い髪を揺らした美しい女性が座っていた。
「こんにちは。冒険者登録をお願いします」
俺は努めて冷静に声をかけ、町で発行された身分証明書を差し出した。
「はい、お預かりしますね……ええと、名前は、レイ・クロノス君ね」
彼女は書類に目を落とし、それから俺の顔を見て、ふわりと微笑んだ。
「私はミレーヌ。冒険者登録の受付を担当しているわ。よろしくね、レイ君」
「あ、はい。よろしくお願いします、ミレーヌさん」
ミレーヌさんは、形の良い胸を机の上に乗せて、いたずらっぽく笑った。
「そんなに見つめられると照れちゃうわ。……さては、私のことエッチな目で見てたでしょう?」
「み、見てませんよ! セクハラはまずいです……」
つい前世の用語が出てしまった。
「セク……ハラ? 変わった言葉ね。でも、男の子らしくていいわ」
どうやらコンプライアンスという概念はないらしい。
彼女はクスクスと笑いながら、一枚の水晶板を取り出した。
「さて、冗談はここまで。レイ君、冒険者登録には『スキルの適正』が必要なの。君の持っている力を教えてくれるかしら?」
俺は……、ゴクリと唾を飲み込み、正直に告げた。
「……『記録』です」
その瞬間、ミレーヌさんの動きが止まった。
背後の酒場では、さっきの男たちが腹を抱えて笑い出した。
「『記録』だってよ! 事務員にでもなるつもりか!」
「ハズレもいいところだな! そんなんで魔物と戦えると思ってんのか!」
ミレーヌさんは困ったように眉を下げた。
「……レイ君、ごめんなさい。このギルドの規則で、戦闘に寄与しないスキルの人は、原則として登録できないの。あなたの身体能力はまあまあそうだけど、スキルの壁は……」
その時。
「――おい。お前ら何を騒いでやがる!」
背後から、地鳴りのような低い声が、ギルドの喧騒を切り裂いた。
奥から現れたのは、顔に大きな傷を持つ、岩のような大男。
その場にいた全員の背筋が伸びる。
「ギ、ギルド長! いえね、この小僧が分不相応なことを言うもんで、教育してやってただけで……っ」
さっきの男が、目に見えて狼狽しながら言い訳を並べる。
ギルド長は俺の目の前まで歩いてくると、その鋭い眼光で俺の全身を舐めるように見た。
「……名前は」
「レイ・クロノスです」
「クロノス……。おい、お前。《リュミナス》の『クロノス運送』の倅か? 親父さんは元気か?」
「えっ……? 父さんを知ってるんですか?」
ギルド長は、それまでの険しい表情をふっと緩め、俺の肩を叩いた。
「知ってるも何も、俺の命の恩人だ。昔、俺が野垂れ死にそうだった時、あいつは自分の命も顧りみず。俺を助け、再起のチャンスをくれた。……あの恩、一日たりとも忘れたことはねえ!」
彼はニヤリと笑い、周囲の冒険者たちを見渡した。
「お前ら、よく聞け! このガキが持つ『記録』のスキル。それがただのハズレかどうか、俺が見極めてやる。文句がある奴は、俺の拳を食ってから言え!」
圧倒的な迫力。
俺は、父さんが言っていた「地道な努力が人を繋ぐ」という言葉の重みを、この王都で噛み締めていた。
「レイ。お前には、特例で仕事をやる。ただし、地獄を見るぞ。……いいな?」
ギルド長の瞳の奥に、試すような光が宿る。
俺は真っ直ぐにその目を見つめ返し、力強く頷いた。
(第3話へ続く)




