【第1話】記録しますか?
その時、俺の視界は限界を告げる砂嵐のようなノイズに覆われていた。
テレビ局の狭い編集室。
二十四時間稼働し続ける空気清浄機の低い唸りと、無数のハードディスクが回る微かな高周波だけが、この閉鎖空間の主だ。
壁のデジタル時計は午前四時を指している。
この数日間、俺が太陽の光を見た記憶はない。
「……あと、カット一つ。このテロップのタイミングを修正すれば……完パケだ……」
神宮寺直人、四十五歳。独身。職業、映像編集者。
俺の人生は、この青白いモニターの中にしかなかった。
他人が撮ってきた断片的な日常や虚構を、切り貼りして、色を整え、音を乗せ、あたかも「最初からそうであったかのような物語」に仕立て上げる。
それが俺の生業であり、誰にも譲れない誇りでもあった。
だが、代償として俺の身体は限界を超えていた。
ふと、モニターのプレビュー画面が奇妙な挙動を見せた。
映像が激しく乱れ、見たこともない英数字の羅列――プログラムのソースコードのようなものが、濁流のように画面を埋め尽くしていく。
「……バグか? 勘弁してくれよ、ここで落ちたらバックアップが……」
焦ってマウスを握り直すが、カーソルは微動だにしない。
やがて、画面の中央に、不自然なほど鮮明な日本語のダイアログボックスが浮かび上がった。
【世界を記録しますか?】
YES / NO
「……記録、だと?」
編集者にとって「記録」とは保存と同義だ。
二十年以上、指先に染み付いた反射が俺を動かした。
エンターキーを叩いたのか、画面上の「YES」をクリックしたのか、それすら定かではない。
その瞬間、心臓が爆発したような衝撃と共に跳ね上がり、視界から全ての色が剥げ落ちた。
全身の血の気が引き、重力という概念が消える。
最後に見たのは、真っ暗になったモニターに鏡のように映る、酷く疲れ果てた自分の顔だった。
(ああ、俺……ここで終わるのか。結局、誰にも看取られず、編集室のゴミ箱の横で……。せめて、放送日には……間に合わせたかったな……)
意識は急速に冷えていく。
走馬灯のように、これまで編集してきた数かずの番組が脳内を駆け巡った。
他人の人生ばかりを繋ぎ合わせてきた俺の、中身のない四十五年間。
最後に溢れたのは、絶望ではなく、ただ「やり残した仕事」への執着だけだった。
――そして、世界は完全な静寂に包まれた。
◇
どれほどの時間が経っただろうか。
暗闇の底で、不意に光の粒が踊り始めた。
重い瞼をこじ開けると、そこは編集室でも、病院のベッドの上でもなかった。
「……やっと起きよったか。
編集者の魂というのは、これほどまでに執念深いものか」
低く、地鳴りのような声が響いた。
顔を上げると、そこには到底人間とは思えない存在が二人、立っていた。
一人は、岩山を削り出したかのような筋肉を持ち、厳しい眼差しを向ける巨躯の男神。
もう一人は、春の陽だまりを具現化したような、慈愛に満ちた絶世の女神。
その神ごうしさに、俺は言葉を失う。
前世で何度も見た特撮やCGの神様など、足元にも及ばない圧倒的な「実在感」があった。
「ここは……天国、ですか?」
掠れた声で問う俺に、女神が悲しげに微笑んだ。
「いいえ。ここは狭間の地。あなたは命を終えました、神宮寺直人。あなたは、他人の人生を美しく飾るために、自分の人生を削りすぎてしまいました」
「だがな、お前のその『執念』、我らは高く評価している」
男神が一歩踏み出した。周囲の空間がその圧力で震える。
「お前が死の直前に選んだ『YES』。それはこの世界の管理権限への同意だ。お前の魂には、事象を固定し、記録する適性がある」
「そこでだ!」
「我らがお前の命を新たな世界にて、再生してやる。だが、タダではない。その世界はいま、ある『侵食』によって崩壊の危機に瀕している。お前のその魂の力で、世界を救ってほしいのだ」
世界を救う!?
まるで王道ファンタジーアニメのプロットだ。
だが、神の瞳に冗談の色はない。
「俺、ただの編集者ですよ? 剣も振れないし、魔法なんて……」
「案ずるな。お前には我らから『特別なスキル』を授ける。それがお前の知識と結びついた時、唯一無二の力となるはずだ」
その時、平穏だった白銀の世界が激しく揺れた。
背後の空間に、墨をこぼしたような黒い亀裂が走り、不気味な高周波のノイズが耳を突く。
「奴らか! もう境界を嗅ぎつけおったか!」
男神の顔が険しく歪む。
「あなた、急いで! このままでは彼が飲み込まれてしまうわ!」
女神が慌てて俺の背中に手を添えた。
「直人、ゆっくり説明してあげられなくてごめんなさい。でも、忘れないで。今度の人生では、間違えないで……」
「えっ、ちょっと待って! スキルって何なんですか!? 使い方は!?」
叫ぶ俺の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。
「頼んだぞ、神宮寺直人! お前の『眼』に期待している!」
男神の声が遠ざかる。
再び、意識が急速に加速し、どこか遠い場所へと撃ち出される感覚。
視界が真っ白に染まり、俺は抗う術もなく、新しい運命の奔流へと身を投げ出した。
◇
次に目を開けた時、俺の視界は酷くボヤけていた。
何もかもが巨大に見える。そして、全身を包む柔らかい温もり。
「……見て、あなた。とっても元気な男の子よ」
上から覗き込む、若々しくも優しい女性の顔。
その瞳には、溢れんばかりの涙と愛情が溜まっていた。
「ああ……。ようこそ、俺たちの息子。……レイ」
たくましい腕が俺を抱き上げる。
(レイ……? それが、俺の新しい名前か)
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
ボヤけた視界の中に、透明な板のようなものが浮かんでいる。
瞬きをしても消えない。
それは、前世の編集ソフトのインターフェースに酷く似ていた。
【Name: レイ・クロノス】
そこに記されていたのは、俺の新しい名前だけだった。
ステータスも、レベルも、神様が言っていたスキルの名前も、そこにはまだ何も表示されていない。
(……これだけかよ。神様、説明不足にも程があるだろ……)
だが、絶望はなかった。
温かな母親の胸の中で、俺は久しぶりに深い眠りにつこうとしていた。
(第2話へ続く)




