【第10話】もう一人の“記録者”
黒いログは、脈打っていた。
まるで心臓のように――一定のリズムで、ゆっくりと。
レイ・クロノスは、その不気味な拍動を指先に感じていた。
王都の宿舎、静まり返った自室。窓から差し込む月光さえも、その「黒」に吸い込まれていくような錯覚を覚える。
「……なんだよ、これ」
思わず、その虚無の塊へと手を伸ばす。
触れた瞬間――。
ブツン。
脳内で回路が焼き切れるような音が響き、視界が強制的に切り替わった。
◇
そこは――見知らぬ空間だった。
周囲には無数の「光の断片」が、まるで銀河の塵のように漂っている。
(……ログか?)
前世、編集室のモニターで見続けたタイムラインを立体的に広げたような光景。ここは、世界そのもののバックアップデータが保管されている場所――**「誰かの記録領域」**だ。
「へぇ……入ってこれるんだ」
背後から、ひどく場違いなほど軽い声がした。
そこにいたのは、漆黒のロングコートを纏った一人の男。
整った顔立ちをしているが、その瞳だけが異様だった。瞳孔の奥で、無数のノイズが走っている。
「……誰だ、お前」
男は、困った子供を見るような顔で軽く肩をすくめた。
「その質問、意味ある? お互い、もう分かってるでしょ。“同じ側”だってさ」
レイの視界にシステムウィンドウが割り込むように強制表示される。
【 対象:??? 】
【 識別:ログ干渉者 】
『警告:対象は同種スキル保持者の可能性が極めて高いです。観測波形が直人様の【世界編集】と酷似しています』
ARIAの、これまでにないほど切迫した声が脳内に響く。
「……マジかよ。俺以外にもいるのか……『編集者』が」
男はゆっくりとレイの周囲を回るように歩き出す。
「君さ、最近“使いすぎ”じゃない? ログ編集。バレバレなんだよね、ああいうの。世界の流れ、歪むからさ。ノイズが乗るんだよ、君が無理やり『上書き(ペースト)』するたびに」
「見えてるよ」と、男はレイの思考を見透かしたように即答した。
「君がやってること全部。再生、編集、最適化。あと――『削除』」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「……なんでそれを知ってる」
「そりゃそうでしょ。だって俺も“編集してる側”だから。でもさ――君のやり方はさ、“綺麗すぎる”んだよ。守るための編集。最適化された未来。……反吐が出るね」
「……いいだろ、それで。犠牲を出さずに済むなら、それが正解だろ」
レイは語気を強めて言い返す。だが男は、憐れむように首を振った。
「甘いなぁ」
パチン――。
男が指を鳴らした瞬間、空間が激しく歪んだ。
侵食された光のログの一つが強制再生される。
「……っ!」
映し出されたのは、あの戦場。聖女エレナが胸を貫かれ、倒れる“あの瞬間”だ。
だが、映像の展開が違う。レイの干渉が入らない、本来の歴史。
エレナの体から光が消え、そのまま――命が消える。
「やめろ!!」
レイは叫ぶが、男は無表情に次の映像を再生する。
パーティーが崩壊する未来。ライオネルが折られ、ガルドが圧殺され、フィリスが闇に呑まれる。
「選ばなかった未来ってさ、ちゃんと存在してるんだよ。君が“消しただけ”で。無かったことにはならない。積もり積もった『未選択のゴミ』が、世界の隅で腐敗してるんだ」
(……違う。俺は……あいつらを救ったんだ)
「本当に?」
一歩、男が距離を詰める。
「それ、“救い”って言える? ただ君の好みに合わせて、都合のいい未来に書き換えただけじゃない? 傲慢だよ、編集者」
言葉が出なかった。
「まあいいや」と男は背を向ける。「今はまだ、君、弱いし。ログの使い方、浅すぎ。その程度の覚悟じゃ――すぐ壊れるよ。君」
「お前は何なんだよ……」
絞り出すようなレイの問いに、男は最高に愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「じゃあ、分かりやすく言うね。君が“記録する側”なら、僕は――」
「“削除する側”」
◇
「……っ! げほっ、はぁ、はぁ……っ!」
目が覚める。荒い呼吸が、冷え切った自室に響く。
震える手でウィンドウを開くと、そこにはあの黒いログが居座っていた。
【 ???(黒い記録) 】
【 状態:進行中 】
「レイ!!」
勢いよくドアが開く。エレナが駆け込んできた。
「大丈夫!? すごい不吉な気配がして……怪我はない!?」
「……ああ、大丈夫だ。ちょっと悪い夢を見ただけだよ」
なんとか声を絞り出し、無理に口角を上げる。だが、確信があった。
自分と同じ力、あるいはそれ以上の権限を持つ存在がこの世界にいる。そして、その目的は「破壊」に近い。
(記録する俺と、削除するあいつ。……最悪の相手じゃねえか)
エレナを安心させるように、彼女の手を握る。その温もりだけが、今この瞬間が「正しい記録」であることを教えてくれた。
だが、レイは完全に理解していた。
これはもう、単なる記録の旅ではない。
**「世界の記録を巡る、編集者同士の生存競争」**だ。
そして、あの男は間違いなく――この先のタイムラインで、最強の「敵」として立ちはだかる。




