はじめての拉致
数日後。
工房の作業台には、ロープやガムテープ、工具が並べられていた。
その横には、和宏の自宅までの地図がある。
明人は何も言わず、一つずつ麻袋へ入れていった。
迷いはなかった。
夏未には、長野まで犬を迎えに行くと伝えてある。
だが実際は、シベリアンハスキーはすでに二日前に引き取っていた。
工房の裏手にある物置でこっそり世話をしている。
今日、連れて帰ってくるのは犬ではない。
佐野和宏だ。
帰りが遅くなっても、疑われることはない。
明人は最後に、地図を折り畳んで袋へ入れた。
明人は当然、人などさらった経験はない。
うまくいかなければ、その場で刺し殺してしまおう。
もう、自分の人生がどうなろうと構わなかった。
明人は麻袋を持ち上げた。
「行くか」
工房を出る。
外には、朝の光が差していた。
明人は一度も振り返らず、車へ乗り込んだ。
◇
東京某所。
明人が、静岡県から到着した頃にはすでに日が昇っていた。
車を少し離れた場所に止め、和宏の家へ向かう。
駅から離れた住宅街に建つ、一戸建てだった。
明人は家の前を通り過ぎながら、駐車場へ目を向けた。
何台かの自転車が並んでいる。
そのとき、二階のベランダに女性が現れた。
洗濯籠を抱え、慣れた手つきで衣類を干し始める。
大人の服。
子ども用の服
学生用のジャージなど。
明人は帽子のつばを深く下げた。
「やっぱり、家族がいたのか……」
しばらく家を見つめる。
だが、それだけだった。
和宏が帰宅するまで、まだかなり時間がある。
明人は車へ戻り、近くの駐車場で時間を潰した。
◇
夕方になり、明人は再び和宏の家の近くへ車を止める。
昼間に見た洗濯物が、まだベランダで風に揺れている。
すべて話したら、この家族はどうなるのだろう。
そんなことを考えていると、スーツ姿の男が駅の方から歩いてきた。
結婚式の映像で見た顔。
佐野和宏だった。
明人は車を降り、背後から静かに近づく。
「佐野さん」
和宏が振り返る。
明人は満面の笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しています。夏未の夫の明人です」
和宏の顔から、みるみる血の気が引いていった。
何も言えず、口だけが僅かに動く。
「夏未のことで、お話があります」
明人は和宏の家へ目を向けた。
「中へ入れていただけますか?」
「待ってくれ」
和宏は慌てて明人の前に立った。
「家はやめてくれ。頼む」
明人の笑みが、さらに深くなった。
「ご家族にも関係のある話なので、できれば家の中でお話ししたいんですが」
和宏は唇を噛んだ。
「家に来るのは、さすがに卑怯だろ」
その言葉を聞いた瞬間、明人の笑顔が消えた。
「お前の事情なんか知らないんだよ」
低い声で言った。
「家族に知られたくなかったら、黙ってついてこい」
和宏は何も答えなかった。
家の玄関へ目を向ける。
中には、妻と子どもたちがいる。
やがて、観念したように俯いた。
「……分かった」
明人は助手席の扉を開ける。
「どうぞ」
和宏を乗せると、自分も運転席へ座った。
車は静かに住宅街を離れていく。
二人を乗せたまま、高速道路の入り口へと向かった。
◇
最初は、二人とも黙っていた。
東京を出たあたりで、たまらず和宏が口を開く。
「いったい、どこに向かってるんだ?」
「静岡県です。僕の工房がありますから、そこで落ち着いて話しましょう」
明人は前を向いたまま答えた。
「静岡県?」
「冗談じゃない。ここで降ろせ」
「降りるなら、今から家へ戻って全部話します」
和宏は唇をかむ。
「夏未……いや、奥さんから全部聞いたのか?」
「断片的にですけどね」
明人の声は淡々としていた。
「あなたの名前は教えてくれなかったので、自分で調べました」
和宏は黙った。
しばらくして、小さな声で言う。
「もう終わったんだ。会うつもりもない」
明人は深いため息をついた。
「さっき、外から奥さんとお子さんを見ました」
和宏の身体が僅かに強張る。
「すてきなご家族ですね」
「……家族には知られたくないんだ」
明人は鼻で笑った。
「知る方もきついもんですよ」
長い沈黙が流れた。
「家族に対しての罪悪感ってないもんなんですか?」
和宏は答えなかった。
明人は小さく笑った。
「その質問は答えられませんか」
それから明人は、何事もなかったように和宏の家族について尋ねた。
和宏は、何も答えなかった。
明人は自身の工房へ着くまで、延々と嫌がらせのように和宏の家族の話を続けた。
◇
午後二十一時
車は工房へ到着した。
和宏は車を降りると、不安そうに周囲を見回した。
工房の周りにあるのは、湖と木々だけだった。
一本の道路が通っているだけで、近くに民家は見当たらない。
「おい。本当に、こんなところで話をするのか?」
和宏が聞いた。
「ええ。すぐに終わりますよ」
明人はそう答え、工房の中へ入った。
和宏は、この隙に逃げようかと考えた。
しかし、また自宅に来られては面倒だ。
まさか、危害を加えることまではしないだろう。
その時、工房から明人が手斧を持って出てきた。
和宏の顔色が変わった。
「お前……」
明人が近づくより早く、和宏は道路へ向かって走り出した。
しかし、すぐに背後から身体をぶつけられ、地面へ倒れ込む。
「やめろ!」
和宏は必死に抵抗した。
明人は和宏を押さえつけ、手斧を首元へ突きつけた。
そして耳元へ顔を近づける。
「ついて来い」
「家族を裏切ったクズに、ふさわしい場所へ連れていってやる」
和宏の身体が固まった。
明人はそのまま工房へ引きずり、地下室へ連れていった。
手足を縛り、床へ投げるように叩きつけた。
地下室の扉を閉めると、和宏の叫び声はほとんど聞こえなくなった。
明人は工房の裏で、待たせていたシベリアンハスキーを車へ乗せた。
予定どおりだった。
何もかも、うまくいった。
車の扉を閉めたあと、明人は空を見上げた。
そこには、あの夜とは違う赤い月が浮かんでいた。




