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第九話【江波山】:風の精霊「颯太」× 自分の体質を呪う新人気象予報士

今回の主人公は、天気の変化に伴う「気象病(頭痛)」に長年悩まされ、自分の体質を恨んでいた20代の新人気象予報士の女性・晴香はるかです。



「どうして私の体は、こんなに雨に弱いんだろう……」


 五月のどんよりとした午後五時。晴香はるかは、江波山の山頂に佇む「江波山気象館」の屋上展望台で、ズキズキと激しく痛むこめかみを押さえていました。


 念願の気象予報士になったものの、晴香は昔から低気圧が近づくと激しい頭痛やだるさに襲われる「気象病」を抱えていました。今日も広島の上空に前線が近づいており、予報業務に集中できない自分に自己嫌悪を抱いていました。

 戦前から広島の街の天気を見守り続け、原子爆弾の爆風にも耐え抜いたという重厚なアール・デコ調の被爆建物。その歴史ある屋上で、晴香は迫り来る黒い雨雲を見つめてため息をついていました。


「気圧の変化なんて、ただの空気の重さの違いなのに。こんな体じゃ、一人前の予報士になんてなれない……」


 晴香がうつむいた、その時でした。


「ひゅうぅ……と、そんなに悲しい風を吹かせちゃダメだよ、お姉ちゃん」


 突然、晴香の目の前で、冷たい風がくるくると渦を巻きました。驚いて目を開けると、風の渦の中心に、透き通るような青いグラデーションの髪を持った、中学生くらいの男の子が浮かんでいました。


 その男の子は、雲のように軽やかな白い衣をまとい、背中には目に見えない小さな羽があるかのように、ふわふわと宙に浮いていました。その瞳は、嵐の前の空のように深い青色をしています。


「だ、誰……!? 浮いてる……!?」


「僕は『颯太そうた』。この江波山で大昔から、広島に吹く風や天気を司ってきた風の精霊さ。この気象館が建てられてからは、人間の予報士たちの仕事が面白くて、ずっとここでお手伝い(たまに悪戯)をしてるんだ」


 颯太は空中をくるりと一回転すると、晴香の目の前に着地しました。


「お姉ちゃん、さっきから頭が痛いんでしょう? それはね、この空が今、一生懸命に生きようと『呼吸』しているからなんだよ」

「地球の……呼吸?」


 晴香が怪訝な顔をすると、颯太は「ちょっと手を貸して」と晴香の手を握りました。その瞬間、晴香の身体がふわりと宙に浮き、江波山気象館の屋上から、さらに数十メートル上の空へと舞い上がったのです。


「キャッ!?」

「大丈夫、僕の風が支えているから落ちないよ。ほら、見てごらん」


 目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどにダイナミックな「空の営み」でした。

 瀬戸内海から吹き上げる湿った温かい風と、中国山地から流れ込む冷たい風が、広島の街の上空で激しくぶつかり合い、まるで生き物のように大きなうねり(前線)を作っています。


「気圧が変わるっていうのはね、地球が大きく息を吸ったり、吐いたりしている証拠なんだ。海を潤し、山に雨を届け、命を循環させるための、地球の大切な呼吸さ」


 颯太は青い瞳を輝かせながら、風の流れを指揮者のように手で操ってみせました。


「お姉ちゃんのその頭痛はね、病気なんかじゃない。地球が『これから雨を降らせるよ』って大きく息を吸い込んだときの、目に見えない大気の震えを、人一倍優しく、敏感に聞き取れちゃう『特別な才能』なんだよ」

「私の頭痛が……才能?」


 晴香は驚き、上空の風を見つめました。自分を苦しめていたあの気圧の壁が、今はまるで、広島の豊かな自然を育てるための「地球の優しい鼓動」のように感じられました。


「人間は数字やレーダーだけで天気を知ろうとするけれど、お姉ちゃんは心と体で、僕たち空の声を聴くことができる。それって、すごく素敵な予報士の力だと思わない?」


 颯太が優しく微笑むと、晴香の頭の痛みが、不思議なほどすうっと引いていきました。代わりに、温かい風が胸の奥を吹き抜けていくような、これまでにない爽快感が満ちていきました。


「ありがとう、颯太くん。私、自分の体質がずっと嫌いだった。でも、この痛みが空の声なら、愛してあげられるかもしれない」

 晴香が涙を浮かべて微笑むと、颯太は満足そうに頷きました。


「さあ、雨が降る前に地上に戻ろう。お姉ちゃんの『本物の天気予報』、楽しみにしてるからね!」


 激しい突風が晴香の周りを包み込み、視界が真っ白になりました。


 ハッと気がつくと、晴香は江波山気象館の展望台のベンチに座っていました。

 時計を見ると、午後五時十五分。空からはぽつぽつと、大粒の雨が降り始めていました。


「夢……だったのかな」


 晴香は立ち上がり、自分の髪に触れました。すると、髪留めのピンの間に、なぜか透き通るほど綺麗な、青い「風の羽のような小さな結晶」が一つ、挟まっていました。それは触ると、ひんやりとした優しい風の匂いがしました。


「……夢じゃない。私は、空の声を伝える予報士なんだ」


 翌朝。広島のテレビ局のスタジオ。

 生放送のお天気コーナーの画面に映る晴香の表情には、これまでにない自信と輝きが満ちていました。


「……現在、広島県内には発達した雨雲が近づいています。少し頭が重いな、と感じている方もいらっしゃるかもしれません。ですがそれは、大地を潤すために地球が大きく呼吸をしているサインです。午後には優しい青空が戻りますので、午前中は少しお体を労って、恵みの雨の音を楽しんでみてくださいね」


 データだけでなく、人の心に寄り添う晴香のその温かい言葉は、画面の前の多くの視聴者の心をふわりと軽くしました。


 放送を終え、スタジオの窓から江波山の方向を見上げた晴香。澄み切った五月の青空の中、小さな青い風の渦が、まるで「よくやったね!」と手を振るように、楽しそうにくるくると踊っているのが見えるのでした。



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