第八話【鞆の浦】:人魚の末裔「波音」× スランプに陥った若き漫画家
今回の主人公は、デビュー作が大ヒットしたものの、二作目のプレッシャーからアイデアが全く浮かばなくなり、東京から逃げてきた20代の漫画家・創です。潮の香る古い港町での、不思議な少女との出会いをお楽しみください。
瀬戸内海のほぼ中央に位置する、福山市の鞆の浦。江戸時代から続く港湾施設が今もほぼ完全な形で残るこの町は、古い映画の世界に迷い込んだかのような、不思議な優しさに満ちています。
五月の夜、午後十時。漫画家の創は、町のシンボルである「常夜燈」のふもとで、スケッチブックを広げたまま座り込んでいました。
数年前に描いた連載漫画が大ヒットしたものの、次回作への周囲の過度な期待に押しつぶされ、白い原稿を前にすると手が震えてしまうようになった創。「誰も自分を知らない場所へ」とたどり着いたのが、この静かな港町でした。しかし、潮風に吹かれても、創作のアイデアは一向に湧いてきません。
「僕の才能は、あの一作だけで枯れ果ててしまったのかな……」
創が自嘲気味に呟き、ペンを置いたその時でした。
「ザバーン、ザバーン……」
穏やかな波の音に混じって、ピチャピチャと水面を叩くような、軽やかな音がすぐ近くの「雁木(がんぎ・階段状の船着場)」から聞こえてきました。
創がそっと近づいて見下ろすと、海に浸かる石段のステップに、一人の少女が座っていました。
彼女は透き通るような白いワンピースを着ており、月明かりを浴びて、その濡れた足首のあたりが、まるで桜色の「鯛のウロコ」のようにキラキラとピンク色に輝いています。
「うわっ……!」
創が驚いて声を上げると、少女は驚く風でもなく、くりくりとした大きな瞳で創を見上げました。
「あ、ごめんね。驚かせちゃった? 私は波音。この鞆の海に住んでいる『海の精霊』……人間でいう、人魚の末裔ってやつかな」
少女は無邪気に笑いながら、石段の上に上がってきました。すると不思議なことに、彼女の足に付いていた桜色のウロコは、すうっと消えて普通の美しい人間の足へと変わっていきました。
「人魚……? まさか、ジブリ映画の見すぎかな、僕は」
「ふふ、あの映画の監督さんも、この鞆の浦の海をすごく気に入ってくれたんだよ。でも、私はあの子みたいにバケツには入らないよ」
波音はそう言って、創の隣に腰掛け、彼の白いスケッチブックを覗き込みました。
「お兄さん、何か面白いお話を作ろうとしているの? でも、心がカチコチに凍りついていて、何も描けないみたいだね」
「どうして分かるの?」
「私たちはね、海の波を通じて、人間の心の揺れを感じ取れるの。お兄さんの心は今、強い引き潮に流されそうになって、必死に足掻いているみたい」
波音は遠くの暗い海を指差しました。
「鞆の浦にはね、江戸時代から続く『鞆の鯛網』っていう伝統があるの。大きな網をみんなで協力して引いて、一網打尽に鯛を捕るの。でもね、網を引くときに一番大切なのは、力任せに引くことじゃないんだよ」
波音は創の手を優しく握りました。その手はひんやりとしていましたが、どこか包み込むような温かさがありました。
「海の波に合わせて、強く引くときと、あえて『緩める(力を抜く)』ときを作るの。そうしないと、網は途中でブチッと切れて、せっかくの魚も全部逃げてしまう。お兄さんは今、早く次のヒット作を捕まえようとして、心の網を全力で引きすぎているんだよ。だから心が千切れそうになっているの」
その言葉は、創の胸の奥深くに突き刺さりました。ヒットを出さなければ、置いていかれる。その恐怖から、一瞬たりとも心を緩めることができなくなっていたことに、創は初めて気づかされたのです。
「ほら、深呼吸して。この鞆の海の風を、いっぱいに吸い込んでみて」
波音が優しく囁くと、創はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込みました。
潮の香り、古い木造家屋の匂い、そして遠くで聞こえる小さな波の音。何百年もの間、多くの船乗りたちが旅の疲れを癒やし、次の出発を待ったという鞆の浦の、圧倒的に穏やかな時間の流れが、創の身体を満たしていきました。
「……気持ちいいな」
「そうでしょう? 鞆の浦はね、『潮を待つ港』。ここで焦っても仕方ないの。波に合わせて、今はゆっくり心を緩めるとき。アイデアなんて、海を泳ぐ魚と一緒。力を抜いて待っていれば、向こうから自然と網の中に入ってくるよ」
波音は立ち上がると、自分の髪に付いていた、小さな桜色のウロコを一枚、ぷつりと剥がして創のスケッチブックの上に置きました。
「これは、私の応援のお守り。お兄さんなら、きっとまた素敵な物語が描けるよ」
波音はそう言うと、雁木の石段を軽やかに駆け下り、夜の海へと飛び込みました。
水しぶきが月明かりにきらめき、彼女の姿は一瞬にして、桜色の光の群れとなって深い海の奥へと消えていきました。
「う……ん……」
創が目を覚ますと、東の空がゆっくりと茜色に染まり始めていました。
目の前には、朝日に照らされる美しい鞆の浦の港町。常夜燈の影が、静かな水面に長く伸びています。
「夢だった、のか……?」
創は自分の膝の上にあるスケッチブックを見ました。すると、真っ白だったはずのページに、夜の常夜燈のふもとで、桜色のウロコを持って微笑む「不思議な少女」の美しいイラストが、圧倒的な躍動感で描き殴られていたのです。そしてそのページの隅には、本物の小さな鯛のウロコのような、ピンク色に輝くかけらが一つ、静かに張り付いていました。
「……描ける。僕、まだ描けるぞ!」
創の胸の奥に、かつて漫画を描き始めたときのような、純粋な「ワクワクする気持ち」が怒涛のように押し寄せてきました。プレッシャーという網を緩めたことで、彼の才能の魚たちが、再び自由に泳ぎ始めたのです。
創は新しいページをめくると、朝日に輝く鞆の海をバックに、新しい物語の第一歩を、迷いのないタッチで力強く描き始めました。そのペンの音は、鞆の浦の穏やかな波の音と、見事に調和しているのでした。




