第十話【三原市】:タコの妖怪「八兵衛」× 自分の殻に閉じこもる新入社員
今回の主人公は、自分の引っ込み思案な性格のせいで職場の人間関係に馴染めず、自分の殻に閉じこもってしまっている新入社員の男性・悟です。
「すいません、また上手く伝えられなくて……」
五月の金曜日、午後九時。三原駅近くの会社に就職したばかりの悟は、トボトボと夜の海岸線を歩いていました。
東京からUターン就職したものの、昔から極度の人見知りで、自分の殻に閉じこもりがちな悟。今日も職場の先輩たちからの親しげな誘いに上手く応えられず、勝手に「壁」を作って孤立してしまっていました。パソコンの画面ばかりを睨みつけ、誰とも深く繋がれない日々に、彼は強い息苦しさを感じていたのです。
「僕の心には、きっと他人を弾き飛ばす見えないバリアがあるんだ。誰とも上手く絡めないや……」
三原港の近く、波が静かに打ち寄せる岸壁に腰掛け、悟が深いため息をついたその時でした。
「グチャ、グチャ……ヌパッ」
背後から、何かが濡れたゴムを引きずるような、奇妙な音が聞こえてきました。驚いて悟が振り返ると、月明かりに照らされた防波堤の上に、信じられない「影」が這い上がってきていました。
そこにいたのは、人間の大人ほどの大きさがある、見事な「大タコ」でした。
その身体は、瀬戸内海の豊かな海を象徴するような生き生きとした赤褐色で、八本の足にはびっしりと、大小さまざまな吸盤が並んでいます。しかし、おかしいのはその頭(正確には胴体)でした。なんと、ねじり鉢巻を粋に巻き、大きな二つの瞳は驚くほど人間味に溢れ、不敵な笑みを浮かべていたのです。
「おやおや、兄ちゃん。そんなに暗い顔をしとったら、三原名物の美味いタコ天も喉を通らんど!」
大タコは、ぬるりと二本の足を腰(にあたる部分)に当て、関西弁に似た陽気な三原弁でしゃべり始めました。
「う、うわあああっ!? タ、タコがしゃべった!?」
「失礼な。わしは『八兵衛』。昔からこの三原の海に住み、木原神社の神職さんとも一悶着あった、由緒正しきタコの妖怪じゃ。昔は漁師の網からタコを盗み出す泥棒扱いされとったが、今はまぁ、海のパトロールみたいなもんよ」
八兵衛はそう言うと、吸盤のある足を器用に使って、近くの自動販売機から缶コーヒーを一本「ヌパッ」と掴み取り、悟の目の前に差し出しました。
「ほれ、一杯飲みんさい。兄ちゃん、さっきから『誰とも上手く絡めん』って泣き言を言っとったろう。わしらタコから見たら、贅沢な悩みじゃて」
悟は恐怖を通り越し、あまりのシュールさに呆然としながらも、缶コーヒーを受け取りました。八兵衛の足から漂う、ほのかな磯の香りがなぜか心を落ち着かせます。
「僕、昔から人付き合いが苦手で、自分の殻にすぐに閉じこもっちゃうんです。先輩たちと仲良くなりたいのに、どうやって人と距離を縮めたらいいか分からなくて……」
悟がうつむくと、八兵衛は八本の足をダイナミックにウネウネと動かしました。
「兄ちゃん、わしらタコのこの『吸盤』を見てみんさい」
八兵衛は、一本の足を悟の目の前に突き出しました。丸い吸盤が、規則正しく並んでいます。
「人間はな、タコの吸盤を『一度絡みついたら離れん、しつこい奴じゃ』って嫌うこともある。だがな、見方を変えてみぃ。この吸盤はな、激しい海の潮流の中でも、自分が『ここだ』と思った岩に、絶対に離れんように強く繋がるための、最高の武器なんじゃよ」
八兵衛は、吸盤の付いた足で悟の肩を「ポン」と叩きました。ヌパッと心地よい吸着音が響きます。
「兄ちゃんは、自分の殻に閉じこもる不器用な奴だと思っとるかもしれん。だがな、それは裏を返せば『一人の相手と、じっくり深く向き合える優しさ』を持っとる証拠じゃ。タコみたいに、最初から八方に手を広げる必要はない。自分が『この人と話してみたい』と思った岩(相手)に、まずは一本の足の、小さな吸盤一つ分だけでええから、そっと触れてみんさい。一度繋がれば、わしらの吸盤はそう簡単には剥がれんけぇな」
「小さな吸盤、一つ分だけ……」
悟は、自分が「最初からみんなと上手く付き合わなければいけない」と焦りすぎていたことに気づきました。不器用なら不器用なりに、まずは一人の先輩と、じっくり話してみればいいのだと、八兵衛の言葉がストンと胸に落ちたのです。
「わかったら、明日はちょっとだけ勇気を出しんさい。あ、そうじゃ」
八兵衛は自分の頭(胴体)をゴソゴソと動かすと、懐(?)から、木原神社で配られているという、可愛いタコの絵が描かれた「オクトパス(置くとパス)」の小さな絵馬風のお守りを取り出しました。
「これをやるけぇ、会社のデスクにでも置いておきんさい。受験生だけじゃなく、新入社員の悩みも、これがあれば『パス(解決)』じゃ!」
八兵衛はそう言って「ガハハ!」と豪快に笑うと、
「じゃあな、わしは夜の海へ帰るど!」
と叫び、防波堤から海へと勢いよく飛び込みました。
ザバーン! という大きな水しぶきと共に、月明かりの海へ消えていった八兵衛。その去り際、海面から一本の足だけがニョキッと出て、力強くピースサインを作っているのが見えました。
翌週の月曜日。会社のオフィス。
悟は、自分のパソコンの横に、八兵衛からもらったタコのお守りをそっと置きました。
「おはよう、高橋くん。それ、可愛いお守りだね。三原の木原神社のやつ?」
声をかけてきたのは、いつも気さくに接してくれる指導係の先輩でした。いつもなら緊張して「あ、はい……」と会話を終わらせてしまう悟でしたが、今日のお守り(タコ)が、彼の背中を「ヌパッ」と押してくれました。
(まずは一歩だけ、吸盤をくっつけるんだ――)
「はい! 土曜日に三原の海で見つけて……。あの、先輩、もしよければ今日のランチ、一緒に行かせていただけませんか? 三原の美味しいタコ天のお店、教えてほしくて」
悟が少し顔を赤らめながらも、まっすぐ目を見て伝えると、先輩は一瞬驚いたような顔をした後、嬉しそうに破顔しました。
「お、いいね! 喜んで。駅裏にとびきり美味い店があるんだよ、行こう!」
その瞬間、悟の胸の中にあった冷たいバリアが、優しく溶けていくのが分かりました。
自分の殻に閉じこもるタコだって、一歩踏み出せば、誰かと強く繋がることができる。
デスクの上の小さなタコのお守りは、朝の光を浴びて、まるで悟の新しい一歩を祝福するように、お茶目に微笑んでいるのでした。




