第十一話【北広島町】:小さな天狗「葉月」× 真面目すぎて心が折れた休職中の女性
今回の主人公は、東京で「まっすぐ、完璧に生きなきゃ」と自分を追い詰めすぎて心が折れてしまい、実家のある広島へと戻ってきた20代の女性・真由です。
「どうして私は、みんなみたいに器用に生きられないんだろう……」
新緑が美しい五月の午後。真由は、北広島町の大朝にある山道を、あてもなく一人で歩いていました。
東京の証券会社で働いていた真由は、昔から曲がったことが大嫌いな、真面目すぎる性格でした。「常に真っ直ぐ、正しく、完璧に」。そう自分を律して走り続けてきましたが、仕事の些細な計画のズレや人間関係の摩擦に柔軟に対応できず、ある日突然、糸が切れたように動けなくなってしまいました。会社を休職し、実家ののどかな空気の中に身を隠したものの、頭の中は「真っ直ぐなレールを外れてしまった」という挫折感でいっぱいでした。
気づけば真由は、薄暗い山の奥深くに迷い込んでいました。
そこは、周囲の一般的な木々とは全く異なる、異様な、しかしどこか神秘的な空間でした。
「なに、この木……みんな曲がってる……」
それが、世界でここにしか自生していない不思議な植物群――「大朝のテングシデ」の森でした。
普通の木のように上へと真っ直ぐ伸びるのではなく、どの幹も枝も、まるで龍やヘビがのたうち回ったかのようにクネクネと曲がり、枝先は傘のように地面へと垂れ下がっています。歪なのに、なぜか森全体が優しく自分を包み込んでくれているような、不思議な静けさがありました。
「バサバサッ!」
突然、頭上の垂れ下がった枝から、大きな葉っぱの群れが落ちてきました。驚いて見上げると、そこにはおかしな男の子が座っていました。
木の枝に腰掛けていたのは、十歳ほどの少年の姿をした不思議な存在でした。
背中にはカラスのような真っ黒い翼があり、顔にはトレードマークである小さな「赤い天狗の面」を斜めにかぶっています。手には、テングシデの大きな葉で作られた団扇を、のんびりと仰いでいました。
「おやおや、都会の迷子が一匹、天狗の庭に紛れ込んできたな」
少年は軽やかに枝から飛び降りると、真由の目の前でふわりと着地しました。
「て、天狗……!? 本物……?」
「そうだよ。僕は『葉月』。この大朝の山に住む天狗の子供さ。大昔から、僕のご先祖様たちが夜な夜なこの森の枝を曲げて遊んだから、ここは『テングシデ』って呼ばれるようになったんだ」
葉月はそう言うと、クネクネ曲がった幹に背中を預け、真由をじっと見つめました。
「お姉ちゃん、ずいぶんと体がガチガチだね。まるで、今にもポキッと折れそうな一本の硬い枯れ木のようだ」
図星を突かれ、真由は言葉を失いました。誰にも言えなかった「真っ直ぐ生きられない苦しさ」を、この小さな天狗は見抜いているようでした。
真由はポツリポツリと、自分の胸の内を吐き出しました。自分には柔軟性がなく、一度曲がってしまった人生のレールをどう直せばいいか分からないこと。不器用で、ダメな人間だということ。
葉月は、真由の言葉を遮ることなく、テングシデの団扇をゆっくりと仰ぎながら聞いていました。そして、一番大きくクネクネと曲がったテングシデの幹を、小さな手でポンと叩きました。
「お姉ちゃん。人間はみんな、真っ直ぐで綺麗なものが好きだよね。木も、真っ直ぐ上に伸びるのが正しいと思っている。でもさ、このテングシデを見てごらんよ」
葉月は、まるで傘のように垂れ下がった見事な枝振りを指差しました。
「北広島の冬はね、ものすごく深い雪が降るんだ。真っ直ぐに硬く突っ張って伸びた木はね、その重たい雪がドサッと積もったとき、重さに耐えかねて幹の真ん中からバキッと折れちゃうことがある。でもね、このクネクネ曲がったテングシデは違うんだ」
葉月は誇らしげに胸を張りました。
「最初から曲がっていて、しなやかだからこそ、どんなに重たい雪が積もっても、その重さを上手に『いなして』受け流すことができる。曲がっているからこそ、折れずに何百年も生き抜くことができるんだよ」
「曲がっているから、折れない……」
真由の心に、葉月の言葉が温かい風となって染み込んでいきました。
「真っ直ぐ伸びるだけが、良い木じゃないんだよ。お姉ちゃんはこれまで、真っ直ぐいようと頑張りすぎて、心に雪を溜め込みすぎちゃったんだね。少しくらい寄り道したって、人生の形がクネクネ曲がったっていいじゃないか。それこそが、お姉ちゃんが折れずに生きていくための『しなやかさ』なんだからさ」
葉月はそう言うと、持っていたテングシデの大きな葉の団扇を、真由に向かって一振りしました。
「ひゅうぅ……!」
心地よい山の新緑の風が真由を包み込みました。その風は、彼女の頭の中にこびりついていた「完璧でいなきゃ」という冷たい固執を、優しく吹き飛ばしていってくれました。
真由の目から、一筋の温かい涙がこぼれ落ちました。それは、自分を許すことができた、優しい涙でした。
「さあ、お姉ちゃん。もう雪は溶けたよ。自分のペースで歩いていきなよ」
気がつくと、真由はテングシデの遊歩道の入り口にある、木製の案内板の前に立っていました。
周囲の木々は、夕暮れ時の優しい光に包まれています。
「夢……だったのかな」
真由が自分の手のひらを見ると、そこには、小さくクネクネと曲がった「テングシデの美しい落ち葉の形をした、木彫りのキーホルダー」が一つ、静かに握られていました。
真由は森に向かって深く一礼し、ゆっくりと実家への道を歩き始めました。
胸の中にあったあの重苦しい焦燥感は、すっかり消え去っていました。これからは、真っ直ぐなレールにこだわらなくていい。クネクネと曲がりながら、自分だけのしなやかな人生の形を作っていけばいい。
北広島町の山奥から吹き抜ける風が、前を向いて歩く彼女の背中を、優しく、どこまでも穏やかに押し続けているのでした。




