第十二話【妹背の滝】:小さな夫婦龍 × すれ違いから離婚危機を迎えた30代の夫婦
主人公は、結婚して5年目を迎え、いつの間にか心のすれ違いから会話を失ってしまった30代の夫婦、健一と真央です。
「……本当に、ここに行くの?」
助手席の真央が、冷え切った声で呟きました。運転席の健一は、前を見つめたまま「ああ、せっかくここまで来たんだから」とだけ短く答えました。
大恋愛の末に結婚して5年。互いの仕事の忙しさや些細な価値観のズレが積み重なり、二人の間にはいつしか、触れれば壊れてしまいそうな深い溝ができていました。離婚届をどちらがいつ出すかという段階にまで冷え切った関係。今日、最後の話し合いを前に、かつて付き合いたての頃に訪れた「妹背の滝」へ、思い出を整理するつもりでやってきたのでした。
車を降りて遊歩道を進むと、涼しい風と共に激しい水音が響いてきました。
妹背の滝には、ダイナミックに流れ落ちる「雄滝」と、そこから少し離れた場所にひっそりと佇む「雌滝」の二つがあります。大昔、深く愛し合いながらも滝に姿を変えたという夫婦の龍神の伝説を持つ場所です。
しかし、今の二人には、その美しい水の響きさえも、お互いを拒絶する壁のように感じられていました。二人が雄滝の滝壺の近くに立ち、気まずい沈黙に包まれた、その時でした。
「ギャーギャー!」
「シャーッ!」
滝の激しい水しぶきの向こうから、激しい水音に混じって、トカゲの鳴き声を大きくしたような奇妙な声が聞こえてきました。
驚いて二人が目を凝らすと、滝壺の激しい渦の中から、手のひらサイズの二匹の小さな「龍の赤ちゃん」が、激しくもつれ合いながら飛び出してきました。
一匹は、雄滝の水のように力強い真っ青なウロコを持った龍。もう一匹は、雌滝の水のようにしなやかで透明感のあるエメラルドグリーンのウロコを持った龍です。二匹は空中でお互いの尻尾を噛み合い、小さなツノを突き合わせて、大喧嘩の真っ最中でした。
「冷たいって言ってるだろ!」
「あなたが勝手にそっちへ行ったんでしょう!」
なんと、二匹の口から人間の言葉(それも少し幼い夫婦の喧嘩のような内容)が、水しぶきと共に飛び出してきたのです。
「うわっ!? なんだこれ、トカゲ……いや、龍!?」
健一が声を上げると、二匹の龍はハッと喧嘩を止め、同時に健一と真央の目の前の岩の上へ着地しました。
「あ、人間だ! ねぇ、ちょっと聞いてよ!」
青い龍が健一の靴の上に飛び乗りました。
「この子がわがままばかり言うから、僕たちの滝の水流が乱れちゃうんだ!」
すかさず緑の龍が真央の肩へと飛び移り、悔しそうに言い返します。
「酷い! 私はただ、あなたと一緒にあっちの岩肌を流れたかっただけなのに、あなたは自分のスピードばかり気にして、全然待ってくれなかったじゃない!」
あまりにもシュールで、しかしどこか見覚えのある光景に、健一と真央は顔を見合わせました。
二匹の龍の言い分は、まさに今、自分たちが家庭の中で繰り返してきた「すれ違い」そのものだったからです。
「自分のスピードばかり気にして、相手を待たない……」
健一は、仕事のプレッシャーから、家の中で真央の話をろくに聞かず、自分の都合ばかりを押し付けていた日々を思い出しました。
真央もまた、肩の上の小さな緑の龍のウロコに触れながら、胸の奥が痛むのを感じていました。「寂しい」という本音を素直に伝えられず、トゲのある言葉ばかりを健一にぶつけてしまっていたことに気づいたのです。
「二人とも、落ち着いて」
真央が優しく緑の龍を撫でると、龍は少し落ち着いたように、小さなため息をつきました。
「私たちはね、大昔からこの妹背の滝を守る龍の夫婦の、心の欠片から生まれた精霊なの。本体の神様たちは、雄滝と雌滝に分かれていても、地下の水脈で深く深く繋がっている。なのに、私たちの心がすれ違うと、こうして身体が分かれて大喧嘩になっちゃうの……」
青い龍も、健一の足元で寂しそうに丸まりました。
「僕だって、嫌いになったわけじゃないんだ。ただ、隣にいるのが当たり前になりすぎて、相手が何を考えているか、分からなくなっちゃったんだ」
健一は、ゆっくりと岩の上にしゃがみ込み、青い龍をそっと手のひらですくい上げました。龍の身体はひんやりとしていましたが、川のせせらぎのような、とても清らかなエネルギーに満ちていました。
「……僕たちと、同じだね」
健一は、一歩隣に立つ真央の顔を見上げました。
「真央。僕、君が隣にいることに甘えて、君の寂しさに気づこうとしていなかった。自分の仕事の速さばかり気にして、君を置いてけぼりにしていた。本当に、ごめん」
真央の瞳から、大粒の涙が溢れ出しました。
「私こそ、ごめんね……。本当は、ただ一緒にいたかっただけなのに、意地を張って冷たい態度ばかり取っちゃって。あなたを傷つけてばかりいた」
二人がお互いの本音を言葉にした瞬間、健一の手の中の青い龍と、真央の肩の上の緑の龍が、まばゆい光を放ち始めました。
二匹は空へとふわりと舞い上がると、まるでお互いを慈しむように優しく身体を絡み合わせ、一筋の美しい「虹色の光の帯」へと姿を変えたのです。
「ありがとう、人間の夫婦。お幸せにね!」
二匹の声が重なり、光の帯は雄滝の激しい水しぶきの中へと、吸い込まれるように帰っていきました。その瞬間、滝壺の上に、太陽の光を受けた見事な虹が、くっきりと二つの滝を繋ぐように架かったのです。
「……夢、だったのかな」
真央が涙を拭いながら呟きました。
しかし、二人が立っていた岩の上には、透き通るほど綺麗な「二つの小さな川の石」が寄り添うように並んで置かれていました。一つは青みがかり、もう一つはかすかに緑色をしています。それはまるで、お互いを支え合う夫婦の姿のようでした。
健一はその二つの石を拾い上げ、一つを真央の手に握らせました。そして、もう片方の手で、しっかりと真央の温かい手を握りしめました。
「真央。もう一度、僕たちも地下の水脈から繋ぎ直そう。今度は、ちゃんと君の歩幅に合わせて歩くから」
「うん……。私も、もっと素直になるね」
二人の顔には、これまでにない穏やかで温かい笑顔が戻っていました。
雄滝と雌滝は、これからも少し離れた場所から、お互いを見つめ合いながら流れ続けます。けれど、その水の底では、決して切れることのない深い絆で繋がっている――。
健一と真央は、石をお守りのように大切にポケットにしまうと、新しい一歩を踏み出すために、しっかりと手を繋いだまま、緑豊かな妹背の滝を後にしました。二人の背後では、夫婦の龍神の滝が、これまで以上に清らかで力強い祝福の音を響かせているのでした。




