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第四話【三次市】:霧の海の「送り狼」× 夢に迷い自信を失ったイラストレーター

今回の主人公は、夢を追いかけることに疲れてしまい、自分の選択に迷っている二十代の女性イラストレーター・はるかです。幻想的な白い霧の中で出会う、優しく背中を押してくれる狼の物語をお楽しみください。



 十月の早朝、午前五時。広島県三次市にある高谷山たかたやさんの展望台へ続く山道は、一寸先も見えないほどの深い霧に包まれていました。

 イラストレーターとしての成功を夢見て上京したものの、コンペには落ち続け、SNSでの評価に一喜一憂する日々に疲れ果てたはるか。すっかり自信を失った彼女は、実家のある三次へと逃げるように帰ってきていました。


「私の選んだ道は、間違っていたのかな……」


 そんな不安を振り払いたくて、三次名物の「霧の海」を見ようと夜明け前の山道を登り始めたものの、あまりの霧の深さに、自分の現在地さえ分からなくなってしまいました。

 車のヘッドライトも白い闇に吸い込まれ、視界はわずか数メートル。携帯電話の地図アプリも、山の中ではうまく作動しません。


「どうしよう、完全に迷っちゃった……」


 行くべき前方も、戻るべき後方も分からない。それはまるで、現在の遥の人生そのもののようでした。不安で足がすくみ、車を停めてハンドルに頭を押し付けたその時、フロントガラスの向こうに「白い影」がぬっと現れました。


 霧をまとうようにして佇んでいたのは、一匹の大きな「白い狼」でした。

 その毛並みは、朝露を含んだ霧のようにほんのりと湿り、神秘的な光を放っています。そして何より印象的だったのは、霧の奥でらんらんと輝く、温かい琥珀色のふたつの瞳でした。


「ひっ……!」


 遥が息を呑むと、白い狼は威嚇する様子もなく、静かに車の運転席の窓辺へと歩み寄ってきました。トントン、と肉球でガラスを叩く音が響きます。

 遥が恐る恐る窓を少しだけ開けると、冷たい霧の匂いと共に、低く穏やかな声が頭の中に直接響いてきました。


「怖がることはない、迷い人の子よ。わしは昔からこの三つの川が交わる地に住まう『送りおくりおおかみ』。霧に巻かれ、進むべき道を見失った者を、あるべき場所へと送り届けるのがわしの役目じゃ」


 送り狼といえば、民話では「後ろを歩き、転んだ人間を襲う」という恐ろしい妖怪として知られています。しかし、この狼の瞳には、一切の凶暴さはなく、むしろ迷子を心配する親のような温かさがありました。


「さあ、車を降りてわしの後ろをついておいで。お前さんが本当に進むべき場所へ、案内してやろう」


 不思議と恐怖心は消え、遥は導かれるように車を降りていました。

 周囲は相変わらず真っ白で、世界のすべてが消えてしまったかのようです。ただ、遥の数歩前を歩く白い狼の、ふさふさとした尻尾だけが、霧の中でぼんやりと光る道標になっていました。


「どこへ向かっているんですか? 私、自分の未来が真っ白で、何も見えなくて怖いんです」


 歩きながら遥が胸の内をこぼすと、送り狼は歩みを止めずに答えました。


「お前さんたち人間は、いつも遠くの景色ばかりを見ようとするな。だから、霧が出たときに怯えるのじゃ」

 狼は一歩、力強く土を踏みしめました。


「この霧の海はな、三つの川の水が合流し、冷やされて生まれる。川が生きている証拠じゃ。お前さんの心が真っ白なのも、それだけ頭の中でたくさんの想いが巡り、一生懸命に生きている証拠。先の景色が見えないなら、見ようとしなくてええ。ただ、わしの尻尾と、自分の『次の一歩』を踏む足元だけを見て歩けばよい」


「足元だけを……」


 遥は言われた通り、遠くを見ようとするのをやめ、自分の靴が確かに地面を踏みしめる感覚と、目の前の優しい白い光だけに集中して歩きました。すると、不思議なことに、あれほど肥大化していた不安が、すうっと小さくなっていくのが分かりました。


 どれくらい歩いたでしょうか。突然、目の前の視界が、爆発するような強烈な「光」に包まれました。

 いつの間にか、遥は高谷山の山頂展望台へとたどり着いていたのです。


「うわあ……!」

 遥の口から、感嘆の声が漏れました。


 ちょうど東の空から太陽が昇った瞬間でした。さっきまで遥を苦しめていたあの深い霧は、山のふもと一帯を埋め尽くす、圧倒的な「白い雲の海」へと姿を変えていたのです。

 三次の街も川もすべて霧の下に隠れ、ただ突き出た山々の山頂だけが、青い海に浮かぶ島のように点在しています。そして、朝日のオレンジ色の光がその雲の海を照らし、波打つように黄金色に輝かせていました。


「どうじゃ。霧の中にいるときは苦しかったろうが、こうして上から見下ろせば、世界で一番美しい景色に変わる」


 送り狼は、黄金色の朝日に照らされながら、誇らしげに言いました。


「お前さんが今、迷い、悩み、苦しんでいるその時間もな、いつか振り返れば、お前さんの人生を一番美しく彩る『霧の海』になる。だから、自分の才能を疑うな。自分の選んだ道を、信じて進みなさい」


 狼はそう言うと、最後に優しく、遥の背中をその大きな頭で「ドン」と押しました。


 ハッと気がつくと、遥は自分の車の運転席で、ハンドルに寄り添うようにして眠っていました。

 時計を見ると、午前六時半。窓の外を見ると、あれほど深かった霧が嘘のように晴れ渡り、澄み切った秋の青空が広がっています。


「夢……だったの?」


 遥は慌てて車を降り、展望台へと走りました。

 そこには、夢で見たものと全く同じ、朝日に輝く壮大な「霧の海」が広がっていました。


 彼女のポケットの中で、カサリと音がしました。取り出してみると、そこには一枚の「真っ白な狼の飾り毛」が、朝露に濡れてキラキラと輝いていました。


「……夢じゃなかった」


 遥の胸の奥に、ふつふつと新しい創作の意欲が湧き上がってくるのを感じました。遠い未来の成功ばかりを気にして、目の前の「描く楽しさ」を忘れていたことに気づいたのです。


 遥はカバンからスケッチブックと鉛筆を取り出すと、目の前に広がる黄金色の霧の海と、その奥で優しく見守ってくれているような白い狼の姿を、迷いのない筆跡で描き始めました。その瞳は、三次の朝日のように、力強く輝いていました。



三次市みよしし×「霧の海の送りおくりおおかみ

舞台:先ほども少し触れた、秋の早朝に街全体が白い霧に包まれる「霧の海」の山道。

妖怪・精霊:霧のせいで道に迷ってしまった人の前に現れ、襲うのではなく、安全な場所までそっと背中を押して見守ってくれる白い狼の妖怪。

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