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第三話【帝釈峡】:岩の巨人「おんさん」× 完璧を求めて傷ついた不登校の少年

今回の主人公は、周囲からの高い期待と「完璧でいなければならない」というプレッシャーに心が折れそうになり、不登校になってしまった高校生の少年・拓海たくみです。



 新緑が眩しい初夏の帝釈峡たいしゃくきょう

 高校一年の拓海たくみは、川のせせらぎを聞きながら、遊歩道を一人あてもなく歩いていました。


 中学時代は常に成績トップ、陸上部でもエースだった拓海。しかし、進学校の高校に入った途端、上には上がいる現実を知りました。一度の挫折をきっかけに、周囲の期待に応えられない恐怖から学校に行けなくなり、今はただ、実家のある庄原の豊かな自然の中に身を隠すようにして日々を過ごしていました。


「どこに行っても、僕の居場所なんてないんだ……」


 うつむきながら歩くうち、拓海はいつの間にか観光ルートから外れ、深い森の奥へと迷い込んでいました。周囲を圧倒するような絶壁と、うっそうと茂る木々。その目の前に、突如として巨大な「神の仕業」が現れました。


 世界最大級の天然石橋――「雄橋おんばし」です。


 全長90メートル、川の底から見上げるその姿は、まるで太古の巨人がそのまま石になって横たわっているかのような、圧倒的な存在感を放っていました。


 その時、ゴゴゴ……と、地鳴りのような低い音が響きました。


「おやおや、こんな奥まで、ずいぶんと小さき迷い子が迷い込んできたものだ」


 地鳴りだと思ったのは、巨大な「声」でした。

 拓海が驚いて見上げると、雄橋の柱となっている巨大な岩壁の一部がせり出し、大きな「人の形」を形作っていったのです。

 それは、全身がゴツゴツとした灰色の岩でできた、体長5メートルを超える岩の巨人でした。その身体の隙間には、瑞々しい緑色の苔がびっしりと生い茂り、肩からは小さなシダ植物や初夏の野花が顔を覗かせています。


「う、うわあああっ!?」


 拓海は腰を抜かし、地面を這うようにして後ずさりました。

 巨人は困ったように、大きな岩の手で自らの頭を「ガリガリ」と掻きました。その拍子に、小さな小石と乾いた砂がパラパラと落ちます。


「すまんすまん、驚かせるつもりはなかったんじゃ。わしは『おんさん』。大昔、神様がこの渓谷を通るために架けたという、この雄橋の意志から生まれた守り神じゃよ」


 おんさんの声は、お腹の底に響くほど低いものでしたが、不思議と恐怖心は薄れていきました。その大きな瞳は、すりガラスのように優しく、拓海をじっと見つめていたからです。


「お前さん、ずいぶんと心に大きな『ひび割れ』があるなぁ」


 おんさんは大きな身体を器用に折り曲げ、拓海のすぐ近くの地面にどっしりと腰掛けました。


「ひび割れ……?」

「そうじゃ。岩も人間も同じ。無理に硬くあろうとすればするほど、強い衝撃を受けたときにポキリと折れて、深い傷がついてしまう」


 拓海は、胸の奥がチクリと痛むのを感じました。誰にも言えなかった「期待を裏切るのが怖い」という本音を、この巨人は見抜いているようでした。


「僕は……完璧でいたかったんです。でも、一度負けたら、もう元には戻れなくて。傷ついた僕は、もう価値がないんです」


 拓海が膝を抱えて涙をこらえると、おんさんは何も言わず、自分の大きな「手のひら」を拓海の前に差し出しました。その手の甲には、大昔の地殻変動でできたと思われる、深く大きな岩の裂け目(ひび割れ)がありました。


「お前さん、わしのこの傷を見てごらん」


 よく見ると、その岩の深い裂け目の中には、美しいエメラルドグリーンの苔がびっしりと詰まり、そこから一本の小さなブナの若木が、力強く芽を伸ばしていました。


「岩に傷がつかなければ、苔は根を張ることができん。苔が育たねば、木々の種もここで命を宿すことはできんのじゃ。傷がつくということはな、そこに新しい『優しさ』や『強さ』を育てるための器ができる、ということなんじゃよ」


 おんさんは、ゴツゴツとした指先で、拓海の頭をそっと撫でました。その手は驚くほど温かく、湿った苔の清々しい香りが拓海を包み込みました。


「わしはこの雄橋として、何万年もの間、冷たい雨に打たれ、激しい川の流れに削られてきた。そのたびに身体は傷つき、削られた。だがな、そのおかげで今のこの美しい渓谷の形がある」

おんさんは立ち上がり、雄橋の下を流れる清らかな帝釈川を指差しました。

「お前さんが学校に行けなくなったことも、長い人生のほんの一削りにすぎん。傷ついた自分を責めるな。その傷口から、これからどんなに美しい『お前さんだけの緑』が芽吹くか、楽しみにしていればええ」


 その言葉を聞いた瞬間、拓海の目から堰を切ったように涙があふれ出しました。

 周囲からの期待に応えようと、一人で張り詰めていた心が、おんさんの優しい言葉と新緑の香りに包まれて、ゆっくりと、しかし確実に癒やされていったのです。


 夕暮れ時、気がつくと拓海は雄橋のふもとにある、通常の遊歩道のベンチに座っていました。


「……夢だったのかな」


 夢中でおんさんの話を聞いていたため、いつの間にか元の場所に戻っていたようです。しかし、拓海が自分の手のひらを見ると、そこには見たこともないほど深くて綺麗な、緑色の「苔のひとかけら」が握られていました。

 拓海は立ち上がり、もう一度、巨大な雄橋を見上げました。

 そこにはもう巨人の姿はありませんでしたが、夕日に照らされた石橋は、まるで「いつでもここにいるぞ」と言ってくれているかのように、雄大に佇んでいました。


「よし、帰ろう」


 拓海の心からは、あの冷たい焦燥感は消え去っていました。学校に戻るには、まだ少し時間がかかるかもしれない。けれど、自分のペースで、傷ついた心にゆっくりと自分だけの花を咲かせていけばいい。


 拓海は小さな苔のひとかけらをポケットに大切にしまい、新緑の木漏れ日の中を、前を向いて歩き始めました。



帝釈峡(庄原市・神石高原町)×「雄橋おんばしの守り神」

舞台:日本一の天然石橋「雄橋」が佇む、新緑や紅葉が美しい神秘的な渓谷。

妖怪・精霊:大昔に神様が通るために架けたという石橋に宿る、不器用だけど心優しい、岩と苔でできた大きな巨人の妖怪。

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