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第二話【宮島】:お砂の精霊「しゃもじぃ」× 責任に押しつぶされそうな女性リーダー

 今回の主人公は、仕事の責任の重さに心が折れそうになり、一人で宮島を訪れた三十代の女性会社員・美咲みさきです。彼女と精霊の、一夜の心温まる交流をお楽しみください。



 昼間の賑わいが嘘のように静まり返った、午後九時の宮島。

 最終フェリーの時間が近づき、観光客の姿が消えた厳島神社の回廊の裏手で、美咲は冷たい海風に吹かれて立っていました。


 東京の広告会社でチームリーダーを務める美咲は、大きなプロジェクトのプレッシャーと、部下と上司の板挟みになり、心身ともに限界を迎えていました。「一度立ち止まりたい」と有給休暇を取り、導かれるようにして子どもの頃に家族で来た宮島を訪れたものの、頭の中は仕事の不安で満ちたままでした。


「私、これからどうしたらいいんだろう……」


誰もいない大鳥居を見つめ、美咲がぽつり。と呟いたその時です。


「サクサク、サクサク……」


 静かな波の音に混じって、小気味よい音が足元から聞こえました。見下ろすと、そこは厳島神社の本殿の下、干潮時にだけ現れる神聖な砂浜です。月明かりに照らされた砂の上が、まるで生き物のように小さく波打っていました。

 美咲が目を凝らすと、砂が集まり、手のひらサイズの小さな人形ひとがたを形作っていきました。

その身体は細かなお砂でできており、頭には宮島名物の「しゃもじ」のような形をした小さな帽子をかぶっています。そして胸のあたりには、厳島神社の神職が身にまとう「御衣おんぞ」の切れ端のような、真っ白で柔らかな布が大切そうに巻き付けられていました。


「ふぅ、やれやれ。夜の宮島は静かでええねぇ」


 お砂の人形は、宮島弁の柔らかい声でそう言うと、短い手足でササッと石垣を登り、美咲のすぐ隣の欄干に腰掛けました。


「ひゃっ!?」


 美咲が思わず声を上げると、その精霊は「おっと、驚かせてすまんね」と、しゃもじ型の帽子をちょこんと下げて笑いました。


「お調子者に見えるかもしれんが、うちはこれでも『お砂の精霊』。宮島には昔から、旅の安全を願って神社の砂を持ち帰り、無事に帰れたら倍にして返す『お砂返し』という風習があってね。うちはその旅人たちの『無事に帰りたい』『迷いを落としたい』という願いと、江戸時代の誓真せいしんさんが広めたしゃもじの心が集まって生まれた妖怪なんよ」


 精霊は自らを「お砂の精霊(通称:しゃもじぃ)」と名乗りました。


「あんた、ずいぶん大きな『迷い』を背負ってここまで来たねぇ。東京のほうからかね?」

「えっ、どうして分かるの?」


 美咲が驚くと、しゃもじぃは自分の胸に巻かれた白い布を指差しました。


「これはね、神様の衣服の切れ端。ここには、宮島を訪れた何百万人もの旅人の『心の染み』が染み込んどるんよ。あんたの足跡を踏んだだけで、砂を通じてあんたの心がどれだけすり減っとるか、うちには全部伝わってくるんよ」


 しゃもじぃはそう言うと、自分の頭のしゃもじ帽子を脱ぎ、美咲の目の前で大きく一振りしました。


「ほいっ、それなら、その胸に詰まったモヤモヤを、うちが綺麗に『救い(すくい)』取ってあげよう!」


 しゃもじぃが帽子を振った瞬間、美咲の身体がふわりと宙に浮いたような感覚に包まれました。

 気づくと二人は、厳島神社の背後にそびえる聖なる山・弥山みせんの、原生林の中に立っていました。満天の星空から降り注ぐ月光が、巨岩と緑の木々を青白く照らしています。


「ここは……弥山?」

「そう。宮島の本当の神様は、この山そのものなんよ。さあ、耳をすましてごらん」


 しゃもじぃに促され、美咲が静寂に耳をすますと、風の音に混じって、不思議な「声」がたくさん聞こえてきました。


『どうか、病気が治りますように』

『新しい町での生活が、上手くいきますように』

『仕事の失敗で落ち込んでいたけれど、この海の青さを見たら、また明日から頑張れそうな気がする』


 それは、何百年もの間、この宮島を訪れて救われていった、名もなき旅人たちの祈りや感謝の声でした。


「あんたが今、仕事で苦しんどるのと同じようにね、昔の人たちもみんな、たくさんの迷いを抱えてこの島に渡ってきたんよ。そして、この島の砂を踏み、海を眺めて、迷いをここに置いて帰った」


 しゃもじぃは美咲の足元を指差しました。彼女の靴の周りで、砂の粒子がキラキラと蛍のように光っています。


「宮島の砂が温かいのはね、みんなの『一生懸命生きたい』っていう心の熱が残っとるから。あんたが今、リーダーとして苦しんどるのも、それだけ仕事を、仲間を大事にしようと一生懸命になっとる証拠じゃ。何も恥じることはないんよ」


 しゃもじぃの言葉が、美咲の頑なだった心をゆっくりと溶かしていきました。


「私……完璧でいなきゃいけないって、ずっと思っていました。みんなを引っ張っていかなきゃいけないって。でも、本当は怖くて、逃げ出したかった……」


 美咲の目から、大粒の涙が溢れ出しました。


 すると、しゃもじぃは美咲の涙が地面に落ちる前に、小さなしゃもじの帽子でそっとそれを受け止めました。涙を含んだお砂は、不思議なことに、夜の闇を優しく照らす小さな真珠のような光の粒へと変わっていきました。


「誓真さんが作ったしゃもじはね、ご飯を『召し取る(飯取る)』、つまり『福を召し取る』という意味が込められとる。うちは今、あんたの涙と一緒に、その『心の迷い』を全部すくい取ったけぇね」


 しゃもじぃは、光る砂の粒を美咲の手のひらに握らせました。


「もう大丈夫。東京に帰ったら、またあんたのやり方で、ゆっくりご飯をすくうように、周りの人を大切にしていけばええ。あんたの足元には、いつもこの宮島の頑丈な砂地が、世界中の旅人の願いが、ちゃんとついとるけぇね」




「美咲さん、美咲さん……」

鳥のさえずりで、美咲は目を覚ましました。


 気づくと彼女は、宿泊している宮島の宿のベッドの中にいました。窓の外からは、穏やかな瀬戸内海の朝凪の音が聞こえています。


「夢……だったのかな」


 美咲は起き上がり、ふと自分の上着のポケットに手が触れました。中を探ると、小さな、本当に小さな木製の「しゃもじの根付(お守り)」が入っていました。そしてその表面には、なぜかほんの少しだけ、白くて綺麗な宮島の砂が付着していたのです。

 美咲は窓を開け、朝日に輝く宮島の海を深く見つめました。

 胸の中にあったあの重苦しい霧は、綺麗さっぱり消え去っていました。代わりに、温かい砂が身体を支えてくれているような、不思議な安心感が満ちていました。


「ありがとう、しゃもじぃ」


 美咲はお守りを大切にカバンにしまうと、東京へ戻るフェリーに乗るため、晴れやかな笑顔で宿を後にしました。彼女の足取りは、昨日とは比べものにならないほど、軽やかで力強いものでした。



宮島(廿日市市)×「お砂の精霊」

舞台:観光客が去った夜の厳島神社、または静かな弥山みせんの森。

妖怪・精霊:宮島の伝統的なお守り「御神衣(お衣)の染み」や「誓真大徳のしゃもじ」から生まれた、旅人の迷いをすくい取る小さな砂の精霊。

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