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第一話【湯来町】:雲の妖怪「雲坊」× 焦燥感に苛まれる大学生


 山あいの静寂と、白き「雲出」のバス停

 広島市佐伯区の最奥に位置する湯来町ゆきちょう。温泉の湯煙と太田川の支流が織りなすこの山あいの町には、文字通り山肌から白い雲が湧き立つように現れる、小さな集落があります。その集落の入り口に佇むのが、路線バスの停留所「雲出くもで」です。


 二〇二六年の初秋。広島市内の大学に通うれんは、その雲出のバス停にある古びた木製ベンチに腰掛けていました。

 大学二年生になった蓮は、周囲の要領の良い友人たちと自分を比べ、将来への焦燥感に苛まれていました。就職活動の足音が聞こえ始め、自分が何をしたいのかも分からず、ただ時間だけが冷酷に過ぎていく感覚。心におりのように溜まった息苦しさから逃げ出すように、彼は原付バイクを走らせてこの山奥へやってきたのでした。しかし、運悪く途中でバイクが故障。携帯電話の電波も微弱なこの場所で、彼は数時間に一本しかない市街地行きのバスを待つしかありませんでした。


 周囲の山々には、夕暮れ前の白い霧のような雲が、生き物のようにゆっくりと這い上がっています。


「本当に、何をやっても上手くいかないな……」


蓮が深くため息をつき、膝に顔をうずめたその時でした。


「おやおや、そんなに深い息を吐いたら、せっかくの山の美味い空気が逃げてしまうよ」


 頭上から、妙に軽やかで、鈴を転がしたような声が響きました。蓮が驚いて顔を上げると、ベンチの端に見慣れぬ存在が座っていました。


 それは、白い上等な着物を着た、小さな子どものような姿をしていました。しかし、決定的に人間と違っていたのは、その髪が本物の「雲」でできていることでした。ふんわりとした純白の髪は、風もないのにゆらゆらと形を変え、かすかに夕日の光を透かして黄金色に輝いています。


「うわっ!? だ、誰ですか?」


 腰を抜かしそうになる蓮を見て、その奇妙な存在は「くすくす」と無邪気に笑いました。


「僕は『雲坊くもぼう』。この雲出の山にずっと住んでいる妖怪さ。君があまりにも暗い顔をして、重たいため息を吐くもんだから、雲の仲間かと思って声をかけちゃった」


 蓮は我が目を疑いましたが、不思議と恐怖心はありませんでした。雲坊の周りからは、ひんやりとした、しかしどこか懐かしい山の雨上がりのような心地よい香りが漂っていたからです。


「妖怪……。僕、ついに疲れすぎて幻覚を見るようになったのかな」

「失礼な。ちゃんとここにいるよ」


 雲坊はふくれっ面をしてみせました。すると、彼の頭の雲が少しだけ灰色に変色し、小さな水滴がぽつぽつとベンチに落ちました。


「ほら、僕の感情はこうしてすぐ雲に出ちゃうんだ。君の心の中にも、今は真っ黒い雨雲が広がっているんだろう?」


 図星を突かれ、蓮は黙り込みました。他人に話しても「考えすぎだ」と一蹴されるだけの悩みが、この出会ったばかりの妖怪にはすべて見透かされているようでした。蓮はぽつりぽつりと、自分の胸の内を吐き出しました。


 周りのみんなが進むべき道を見つけて輝いて見えること。自分だけが立ち止まり、霧の中にいるように何も見えないこと。

 雲坊は、蓮の拙い言葉を遮ることなく、静かに聞いていました。話しているうちに、山の天気は急変し、空が暗くなって本格的な雨が降り始めました。トタン屋根のバス停に、激しい雨音が響き渡ります。


「最悪だ、雨まで降ってきた……」


 蓮が肩を落としたその時、雲坊が立ち上がりました。


「ねえ、蓮。ちょっと上を見てごらん」


 雲坊が小さな手を空にかざすと、彼の頭の雲がふわリと広がり、バス停の屋根を包み込むように巨大化しました。激しい雨は雲坊の身体である雲に吸い込まれ、蓮の元には一滴も落ちてきません。それどころか、雲の内側がじんわりと、温かい街灯のような光を放ち始めたのです。


「わあ……温かい……」

「そうさ。雲はね、冷たい雨を降らせるだけじゃないんだ。地上の熱を包み込んで、山や川を寒さから守る布団にもなるんだよ」


 雲坊は誇らしげに胸を張りました。

 雨は十数分で嘘のように上がり、山の端から夕日が顔を出しました。


「さあ、蓮。こっちに来て、あっちの谷を見下ろしてごらん!」


 雲坊に手(それは触るとひんやりとした綿菓子のようでした)を引かれ、蓮はバス停の裏手にある展望の開けた崖へと歩きました。


 そこには、言葉を失うほどの絶景が広がっていました。

 先ほどまでの激しい雨が山の熱で蒸発し、谷底一面を真っ白な「霧の海」が埋め尽くしていたのです。


 雲出の集落や木々が、白い海に浮かぶ緑の島々のように見えます。そして、西の空から差し込む強烈な夕日が、その雲の海を燃えるような茜色、紫、そして黄金色のグラデーションに染め上げていました。


「綺麗だ……」


 蓮の瞳に、圧倒的な美しさの夕映えが映り込みます。


「ねえ、蓮」


 雲坊は、黄金色に染まる自分の髪を触りながら言いました。


「僕たち雲はね、どこからともなく湧き出て、風に流されて、毎日違う形になるんだ。時には真っ黒になって人間に嫌われるし、時にはこうして世界を一番美しく飾る。形が決まっていないからこそ、何にでもなれるんだよ」


 雲坊は蓮の顔を見上げ、優しく微笑みました。


「君は今、霧の中にいて何も見えないって言った。でもね、霧の中にいるっていうことは、君自身がこれからどんな形にでもなれる『雲』そのものだってことさ。焦って早く固まった形にならなくたっていい。風に吹かれながら、ゆっくり自分の形を探していけばいいんだよ」


 その言葉は、蓮の凍りついていた心の奥底を、じわじわと温かさで満たしていきました。「何者かにならなければいけない」という呪縛から、すっと解放されたような気がしたのです。

 蓮の目から、一筋の涙がこぼれ落ちました。それは悲しい涙ではなく、心が洗われるような温かい涙でした。


「あ、バスが来たみたいだね」


 遠くから、ブォーという鈍いエンジン音が山道に響いてきました。夕闇が迫る中、二つのヘッドライトの光が霧を割って近づいてきます。

 蓮がハッとして振り返り、「雲坊、僕……」と言いかけた時、すでに隣にその姿はありませんでした。

 ただ、ベンチの上には、ほんのりと温かい、山の湧き水が入ったペットボトルが一本置かれていました。そのラベルには、幼い文字で「またおいで」と書かれた小さな白い紙が結び付けられていました。


 やってきたバスに乗り込み、蓮は窓際の席に座りました。


 動き出したバスの窓から後ろを振り返ると、遠ざかる「雲出」のバス停の屋根の上に、小さな白い影が立って、ちぎれるほどに手を振っているのが見えました。いや、それはただの千切れ雲だったのかもしれません。しかし、蓮には確かに、あの優しい妖怪の笑顔が見えた気がしました。


 市内へ戻るバスの中で、蓮の心は驚くほど軽くなっていました。

 これから先も、また壁にぶつかり、心に雨雲が立ち込める日があるかもしれない。けれど、そんな時はあの湯来町の「雲出」を思い出そう。自分はまだ、何にでもなれる不完全な雲なのだから、ゆっくりと進めばいい。


 携帯電話の電波が戻り、画面が明るくなりました。蓮は深く深呼吸をし、車窓に流れる広島の夜景を見つめながら、小さく一歩を踏み出す勇気をもらっていたのでした。




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