第42話 晩餐会
ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵の城館は、西区の最深部、街のすべてを見下ろす高台に鎮座していた。
揺れる馬車の窓から見上げれば、重厚な石造りの城壁が夜空を鋭く切り取っている。磨き上げられた石畳の両脇には、等間隔で松明が燃え盛り、その炎が漆黒の闇を赤く染めていた。正門から玄関へと続く道には、非の打ち所のない所作で立ち並ぶ使用人たちが、今夜の「主役」たちを静かに待ち構えている。
常人ならばその威容に気圧され、足を震わせるような光景だ。
だが、今の俺が抱く感慨は、ただ一つ。
「……今夜、この城館はいただきますわ」
俺は口元を歪ませ、低く、愉悦を込めて笑った。
今回の馬車はセリーヌに急遽手配させたレンタル品だ。纏っている黒のドレスはフィールド商会が最高級の絹を用意させたもので、エルメスの輝く金髪と冷徹な碧眼に、恐ろしいほどよく映えていた。
本来なら伯爵家の家紋入り馬車で乗り込みたいところだったが、三郎太に乗って強行帰還した弊害で足がない。背に腹は代えられない。
俺は意識のチャンネルを切り替え、各個体のステータスを走査した。
ハミルトン。商会の馬車に揺られ、静かに目を閉じている。脳内では今夜の弁論のシミュレーションが完璧に組み上がっている。抜かりはない。
クロエは……夜道を徒歩で進んでいた。
「……なぜ徒歩なのです、あの子は」
思わず独り言が漏れる。城館までの上り坂を徒歩とは、手配を失念した俺のミスか、あるいは彼女の「清貧」な人格がそうさせたのか。実にクロエらしいといえばらしいが。
連絡役のセリーヌは、ギルドの受付で膨大な書類と格闘しながら、街の動向をリアルタイムで収集している。
シャネルは闇に溶け、北区の礼拝堂を監視。リリアの動向に目を光らせているが、今のところ異常なしとの報告だ。
三郎太は大森林の奥深く、丸くなって長すぎる昼寝を貪っている。……ドラゴンはよく寝ると聞く。
最後に、新たに加わったモンブランの視界を繋いだ瞬間、俺は思考が停止した。
この野郎ッ。
どこぞの街の裏路地で、女を買い漁っている最中だった。
「寄生後の人格トレース、そこまで忠実に再現しなくていいんですわよ」
雄の寄生体はどうにも肌に合わないと思っていたが、この体たらくには殺意すら覚える。モンブランを七号にしたことを一瞬だけ後悔したが、今夜のプランに奴の出番はない。ゴミを見るような気分で、その視界を即座に遮断した。
意識をエルメスの肉体へと完全に戻す。
馬車が鈍い音を立てて城館の正門をくぐり、広大な前庭へと滑り込んだ。
「……ついに、この時が来ましたわね」
失敗は「百万年の地獄」に直結する。今夜の晩餐会こそが、俺の野望、そしてこの街の運命を決める最大の分水嶺だ。
◆
晩餐会の会場へ一歩踏み出した瞬間、網膜を焼くような黄金色の光に包まれた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが、無数のクリスタルを通じて光を撒き散らしている。雪のように白いクロスが敷かれた長テーブルには、磨き抜かれた銀食器が整然と並び、壁面を飾る巨大な油彩画が歴史の重みを無言で主張していた。
招待客は数十名。このオールセルテスを動かす「顔役」たちが、楽隊の奏でる優雅な旋律の中で、それぞれの思惑を隠したまま談笑に興じている。
俺はゆっくりと、会場の隅々まで見渡した。
ギルドマスターのガジルが、腹の探り合いのような顔で有力者と話し込んでいる。その近くには【紅蓮】の四人の姿もあった。ガストンは早くも料理の皿を品定めし、ヴァイオレットはワイングラスを傾けながら隙のない微笑みを浮かべている。ネネは……相変わらず、自身の結界に引きこもって周囲を遮断。アルエルは左手でグラスを持ち、静かな声で誰かと交渉を進めていた。
視線をずらせば、ハミルトンがキリトと商人仲間に囲まれ、完璧な「若き成功者」の顔で溶け込んでいる。
一方、徒歩で到着したはずのクロエは、案の定グレイシア嬢に捕まり、困惑の色を隠せないまま相槌を打たされていた。
ここまでは、特に問題はない。
俺は会場に足を踏み入れ、適当な位置で自然に溶け込む。
その直後だった。
「え、ええ、エルメス嬢! きょ、今日はい、いっ、一段とき、ききき、きらいだ!」
背後から、爆弾のような声が降ってきた。
振り返れば、そこには顔を真っ赤にしたガストンが、直立不動で立っていた。
「あんた、いきなりなんて失礼なことを言ってるのよ!」
ヴァイオレットが割って入り、ガストンの脇腹を鋭く突く。
「伯爵令嬢を前にして『嫌いだ』なんて、どんな度胸よ。……『綺麗だ』って言いたかったのよね? 本当に、この男は……」
「か、噛んだだけだッ! き、緊張のあまり、滑舌が死んだだけだ! そそ、 それ以上でも以下でもないッ!」
「ガストン、打首」
結界の中から、ネネの冷徹な宣告が飛ぶ。
「ちょっ、ネネ、それはあんまりだろ! アルエル、頼む、援護してくれ!」
「はは、ガストンに悪気があったわけじゃないのは、エルメス嬢も分かってくれているはずだよ」
アルエルが、計算し尽くされたような「完璧な貴公子の微笑」をこちらへ向けた。
眩しすぎるほどのイケメンスマイル。これまで何人の女性がこの表情の裏側にある「したたかさ」に飲まれてきたのだろうか。
俺は内心で毒づきながら、エルメスの優雅な声帯を震わせた。
「もちろんですわ。ガストンさんは、相変わらず元気がよろしいのね」
「は、はは……そ、そうか?」
鼻の下を伸ばすガストン、呆れるヴァイオレット、そして「打首」と呟き続けるネネ。
こうも知り合いが多くては動きにくい。俺は自然に会話を続けながら、会場を見渡した。
招待主であるボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵は、まだ現れない。
晩餐会というのは、主催者が最後に登場するものだ。それまでの時間で、招待客同士が交流を深める。要するに今は準備運動の時間だ。
紅蓮の連中と軽口を叩きながらも、俺の意識は三分割されたモニターを並列処理していた。
ハミルトンは老獪な商人たちの言葉の端々から、子爵の「隙」となる贅沢の癖を探り。
クロエはグレイシア嬢の無邪気な世間話から、子爵の「私生活」という内堀を埋めていく。
三つの視点、三つの角度。子爵という獲物を仕留めるための包囲網は、完璧に機能しているはずだった。
だが、その傲慢な確信は、一瞬にして打ち砕かれる。
会場の楽隊が、空気を震わせる重厚な行進曲を奏で始めた。招待客たちの喧騒が潮が引くように静まり、全員の視線が会場奥の大階段へと吸い寄せられる。
……来たか。
真打ちの登場だ。
階段の頂に、一人の男が姿を現した。
齢は四十前後。整えられた茶髪と、深い森を思わせる深緑の礼服。その立ち姿には、長年この街の頂点に君臨してきた者特有の、静かな、しかし抗いがたい威厳が宿っている。
部屋全体を一瞥するその鋭い眼光は、獲物を定める猛禽のそれだ。
ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵。
居並ぶ権力者たちが一斉に頭を垂れる。俺もエルメスの肉体で、非の打ち所のない礼をとった。
子爵がゆっくりと階段を降りてくる。無駄のない所作。その一挙手一投足に、場にいる全員の視線が吸い寄せられていく。
――その時だった。
ふとした拍子に揺れた胸元の鎖が、燭光を受けて微かに光を返す。
透明なケースに収められた、小さな護符。
その一片を視界に捉えた瞬間、思考が凍りついた。
……見間違えるはずがない。
脳内のモニターが、ほぼ同時に震える。
ハミルトンの視界が固定された。
クロエの視線が、吸い寄せられるように止まる。
そしてエルメス――俺自身もまた、そこから目を離せなくなる。
三つの視点が、同一の対象を同時に捉えていた。
――聖女候補、リリアの護符。
一般の護符とは違う。細密に刻まれた聖刻文字が幾重にも重なり、祈りそのものを封じ込めたような構造。それはかつて、シャネルを完全に拒絶した、あの忌まわしい代物と同一のものだった。
それが今、よりにもよって――
ターゲットの喉元で、静かに揺れている。
呼吸が、一拍遅れた。
「……どう、して」
掠れた声が、エルメスの喉から漏れる。
「どうかしたのかい、エルメス嬢。顔色が優れないようだが」
隣のアルエルが、わずかな異変を嗅ぎ取ったように視線を寄越す。
「……いいえ、なんでもありませんわ。少し、会場の熱気に当てられただけです」
扇子で口元を隠し、即座に仮面を貼り直す。だが内側では、思考が高速で空転していた。
なぜ、あれが子爵の手にある。
誰が渡した。
いつ、どの経路で――
答えは、ほぼ同時に引き出された。
『シャネル、報告しろ。リリアは今どこにいる』
『……礼拝堂。一歩も動いていない。異常なし』
『……そうか』
念話を切る。
リリアは動いていない。だが意味はない。問題は“場所”ではない。
――すでに、手を打たれている。
クロエの視界を通じて、俺はさらに裏を取る。
「グレイシア様、ボッテガヴェネタ卿が身につけておられる護符……あれは、どなたから?」
「ああ、あれね。昨夜、教会から神官の方がいらしてね。叔父様に直接お渡ししたのよ。災い除けですって」
確定した。
リリアはすでに、子爵の信頼を得ている。
しかも「守護者」として。
思考が、音を立てて崩れた。
あの護符がある限り、寄生体は近づけない。接触も、侵食も、干渉すら不可能。
つまり――
最初の一手で、完全に封じられている。
ハミルトンは接近ルートを放棄し、別解を模索している。
クロエは会話を続けながら、突破口を探している。
だが、どれも無意味だ。
盤面が、成立していない。
詰みだ。
最初から。
「……詰み、ですわね」
呟きは、ほとんど音にならなかった。
子爵は階段を降りきり、ゆるやかに人々の輪へと入っていく。その胸元で、護符が静かに光を反射した。
祈りの形をしたそれは、明確な“拒絶”として、俺たちの前に立ちはだかっていた。




