第41話 招待状
礼拝堂の朝は、硝子越しに差し込む淡い光に満ちていた。
信者が集う前の刻、リリアは独り、この静謐な空間を整える。蝋燭の火を絶やさず、石畳を掃き清め、神への祈りを捧げる。
それが彼女にとっての、欠かすことのできない安寧の儀式だった。
だが今朝、彼女の手は箒を握ったまま止まっていた。
祭壇の脇に置かれた新聞。その一面には、扇情的な大見出しが躍っている。
【ヴェルテ商会による薬物密輸事件、電撃解決――若き商会員らの活躍】
記事の後半、功労者として記されたその名を、リリアは静かに指先でなぞった。
【フィールド商会令息、ハミルトン=カーキフィールド】
あの貧困街の凄惨な現場で、一瞬だけ視線が交差した男。
リリアの金色の瞳は、確かに捉えていた。彼の体内に渦巻く、青と黒の歪な二色の魔力。人の血に混じる、あの禍々しい黒――魔物の気配。
エルメスの中に見たものと、全く同じ色がそこにあった。
「……英雄、ですか」
リリアの唇から、熱を欠いた呟きが漏れる。
エルメスもまた、英雄だった。魔の巣窟を穿ち、冒険者ギルドの精鋭を救い、この街の希望となった。
そして今、ハミルトンという男もまた、街を救った英雄として賞賛を浴びている。
二人とも、内側に底知れぬ黒を宿しながら。二人とも、この街で「光」と呼ばれている。
「彼女も、彼も……同じ色を纏う英雄……」
リリアは、重い溜息と共に新聞を折り畳んだ。
理由の知れぬ不安が、冷たい霧のように胸の奥で広がっていく。それが何に対する警鐘なのか、今の彼女にはまだ言葉にする術がない。ただ、目に見えぬ何かが、この街の均衡を静かに崩そうとしている。
その確かな予感だけが、静かな礼拝堂の空気に重く沈殿していた。
◆
数日後、リリアは薬草の仕入れのために活気あふれる大通りを歩いていた。
雑踏の向こう、陽光を反射する見覚えのある金髪が揺れる。
無意識のうちに【神眼】が発動し、世界の色が塗り替えられた。
エルメス・バーキン。
その首筋に刻まれた黒い紋様は、以前よりも一層濃く、澱んだ黒を湛えている。だが、驚くべきはその流れだった。以前のぎこちなさは消え失せ、まるで数十年来使い込まれた道具のように、淀みなく、滑らかに肉体へと馴染んでいる。
「誰かに慣らされているみたい」
かつての直感は、今や確信へと変わっていた。リリアは本来の目的を後回しにし、吸い寄せられるようにその背中を追った。
最初の違和感は、何気ない水たまりだった。
貴族の令嬢ならば眉をひそめて避けるはずの汚れに、エルメスは躊躇なく踏み込んだ。撥ねた泥が靴を汚しても、彼女は一瞥をくれただけで、何事もなかったかのように歩を速める。その無頓着さは、過酷な現場を渡り歩いてきた者のそれだ。
次に彼女が足を止めたのは、香ばしい肉の匂いが漂う屋台の前だった。
その瞳が、驚くほど純粋に輝いた。
伯爵令嬢のプライドなど微塵も感じさせない、空腹を抱えた子供のような、あるいは仕事帰りの労働者のような切実な眼差し。彼女は迷うことなく串肉を一本買い求めると、人目も憚らず豪快にかぶりついた。
物陰から見守るリリアの頬が、引きつる。
その後、ギルドの酒場でエールを煽り、満足げに店を後にする姿を見た頃には、リリアの中の「令嬢像」は音を立てて崩壊していた。
極めつけは、路地の隅に蹲っていた野良犬との遭遇だった。
人間に怯え、痩せこけたその臆病な犬に対し、エルメスは静かに腰を下ろした。
脅かさず、ただそこにある石のように。差し出された手は、犬が自ら近づくのを辛抱強く待っている。短い沈黙のあと、やがて犬が鼻先を寄せ、彼女の掌にそっと頭を預けた。
慈しむような、静かな愛撫。
エルメスが去った後も、犬は名残惜しそうにその背中を見送っていた。
リリアは思わず、強張っていた口元を緩めた。
……まるで、おじさんのようですね。
立ち居振る舞いのすべてが、令嬢というよりは世間に揉まれた人物のそれだ。かつて悪役令嬢と忌み嫌われた人物が、なぜこれほどまでに「枯れた」魅力を放っているのか。
謎は深まるばかりだ。
だが、今日確信したことが一つだけある。
彼女は――噂されていた“悪役令嬢”とは、まるで別人だ。
水たまりを厭わぬ無頓着さ。屋台の肉を愛する無邪気さ。そして、孤独な獣に手を差し伸べる優しさ。
「……判断に迷います」
リリアの胸に、かつてない好奇心と、奇妙な親近感が芽生え始めていた。
◆
夜の帳が下りたオールセルテス。
閉ざされた礼拝堂の前に、キリトが姿を現した。リリアの呼び出しに応じたものだ。
「こんな時間にどうしたんだよ」
「夜分にすみません。どうしても、キリトさんにだけは聞いておきたくて」
キリトは促されるまま、礼拝堂へ続く石段に腰を下ろした。その隣に、リリアも静かに腰掛ける。夜風が二人の間を通り抜けた。
「ハミルトンさんのことを、教えてほしいんです」
唐突な名指しに、キリトは意外そうに目を丸くした。
「ハミルトン? ……なんだよ、藪から棒に。まさか、あいつに惚れでもしたのか?」
「違います」
リリアは即座に、一切の迷いなく否定した。
「じゃあ、なんであいつのことを。あいつはただの商会長の息子だろ」
「以前、東区の現場であの方を見かけました。その時……【神眼】で彼の魔力を見てしまったんです」
キリトの表情から余裕が消え、眉間に深い皺が刻まれる。
「魔力って、まさか……例の?」
「ええ。エルメスさんと同じ、不吉な青と黒の二色。それに、首筋にはあの黒い紋様が浮かんでいました」
静寂が、重く二人を包み込む。キリトは腕を組み、記憶の底をさらうように沈黙した。
「……ハミルトンは、悪い奴じゃなかった。むしろ、その逆だな」
長い沈黙の後、キリトが絞り出すように言葉を繋いだ。
「少なくとも、あの高慢ちきなエルメスとは似ても似つかない、お人好しだ。あいつは街のために命を張ってた。……だが、思い返せばおかしな点はあったな。あのオルダンとかいう用心棒を相手に、普通の商人があそこまで立ち回れるか? 筋が良すぎるというか、場慣れしすぎていた」
「その違和感も含めて、知りたかったんです」
「でもよぉ、紋様があるからって、即座に悪人とは限らないだろ。実際、エルメスもハミルトンも、結果としては街を救う側に回ってるんだ」
確かに、そうかもしれない。黒い魔力を持つからといって、それが即座に危険を意味するわけではない。魔族の血を引く者だって、普通に生きている。
「……ただ、妙っていうんならさ」
キリトは夜空を仰ぎ、独り言のように続けた。
「ハミルトンの奴、俺に対してあまりにも無防備っていうか、警戒がなさすぎるんだよな。路地裏に二人で入ったときも、まるで怖がる素振りを見せない。それどころか……初対面のはずなのに、俺の性格や手の内を知っているみたいな、妙に落ち着いた態度だったんだよな」
「警戒が、ない……」
リリアはその言葉を反芻した。
エルメスとハミルトン。彼を見た日から、二人が繋がっているという可能性は頭にあった。だが、それを裏づける材料がなかった。
「エルメスさんとハミルトンさん……あの二人が、裏で情報を共有しているとは考えられませんか」
リリアの問いに、キリトは考え込むように顎をさすった。
「そりゃ、同じ街の有名人同士だ。顔見知りでも不思議はないだろ。情報を共有、か……。確かに、あいつがヴェルテ商会の内情に詳しすぎたのは、どこかに確かな情報源があると思ってたがな」
リリアは答えを求めるように、深く沈んだ夜空を見上げた。
エルメスとハミルトン。共に「黒」を宿す二人。
片やダンジョンの深淵で、片や薬物の汚泥の中で、それぞれが別個の事件を解決し、民衆の喝采を浴びた。
事件の質も、場所も、関わった人間も違う。
なのに、その結果はあまりに綺麗に、同じ方向を指し示している。
どちらも【街を救った英雄】という不可侵の肩書きを手に入れた。
これが、すべて仕組まれたことだとしたら?
思考の糸が、一つの結節点へと猛烈な勢いで収束していく。
英雄となった者が、最も自然に、かつ公式に接触できる相手は誰か。
この街の主、ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵。
手柄を立てた者に褒賞を与えるのは領主の義務だ。二人が英雄になれば、子爵の方から声をかけざるを得ない。拒まれることのない、完璧な招待。
最初から、その「懐」に入り込むことが目的だったとしたら――
「……あ、そうだ。これを見てみろよ。驚くぜ」
思考を遮るように、キリトが懐から一通の封筒を取り出した。
上質な羊皮紙。そこに押された銀の封蝋は、亀の紋章――イントレチャート子爵家のものだ。
「領主様直々の招待状だ。街を救った褒美に、夜会へ招いてくれるんだとよ。冒険者ギルドに俺宛てで届いてたんだ」
リリアは、その紋章を射抜くように見つめた。
「……ハミルトンさんも、招待されているのですか」
「ん? ああ、だろうな。俺の相棒だったんだ、招待されてない方が変だろ。……そういや、エルメスの野郎も貰ってたみたいだぜ。あいつ、伯爵家に戻ったみたいだからな、まあセットみたいなもんだろ」
「……」
リリアの背筋に、氷のような戦慄が走った。
三人。
エルメス、ハミルトン、そして協力者であるキリト。
偶然にしては、出来すぎている。
まるで、意図的に演出された舞台の上に役者が揃えられているかのようだ。
すべては、子爵の隣に立つために。
――そこまで導いた“何か”がいる
そしてその存在の目的が、領主との接触にあるとすれば――
「……どうかしたのか? 顔色が悪いぜ」
キリトの怪訝な声を、リリアは半分も聞いていなかった。
「まさか……!」
リリアは弾かれたように立ち上がった。
もし推測が正しければ、子爵が危ない。英雄という輝かしい仮面を被った【黒い魔力】の者たちが、領主の懐に入り込もうとしている。
なんとかしないと。
「おい! こんな夜更けにどこへ行くんだ!」
「急用を思い出しました、すみません!」
背後で叫ぶキリトを置き去りにし、リリアは夜の石畳を駆け出した。
翻る白いローブが、街灯の乏しい路地で幽霊のように揺れる。
まだ証拠はない。確信に近い予感でしかない。だが、この胸の騒ぎを無視して眠ることなど、神に仕える身として許されなかった。
喉を焼く冷たい空気を吸い込みながら、リリアはただ、一刻も早い【守護】のために走り続けた。
◆
ダンジョンの奥、定位置となった芋虫ソファの上で、俺は激しく触手を振り回していた。
世間ではそれを「小躍り」と呼ぶのだろうが、節足動物の体でやると、のたうち回る悶絶にしか見えない。だが、今の俺にはそんな客観視などどうでもよかった。
触手の先に握りしめているのは、一通の贅沢な書状だ。
上質な紙に、銀色の封蝋。そこに記された几帳面な筆致を、俺は何度も読み返す。
『英雄エルメス嬢の類まれなるご活躍、予てより聞き及んでおります。つきましては、ぜひ一度晩餐の席にて親睦を深めたく。当家一同、貴女のお越しを心待ちにしております。 ――ボッテガヴェネタ=イントレチャート』
「――キタ、ついに来たぞ! 晩餐会だッ!」
歓喜のあまり再びのたうち回ると、周囲にいた兄弟たちが「もきゅっ」と短い悲鳴を上げて一斉に霧散した。いつものことだが、少し傷つく。
三郎太の背に揺られて伯爵領から帰還して二日。俺は文字通り「あの手この手」で領主への接触を試みてきた。ギルドのセリーヌを通じた根回し、ハミルトンとしての真っ当な面会要請。だが、あのイントレチャート子爵という男は想像以上に用心深く、その鉄壁のガードを崩せずにいたのだ。
最悪、大森林に潜ませている三郎太を呼び寄せ、ヴァールとの全面衝突すら覚悟していた。
そこへ、これ以上ない朗報が舞い込んだ。
敵の方から、赤絨毯を敷いて招いてくれたのだ。
「しかも、ハミルトンとクロエにも招待状が届いている!」
脳内でチェス盤を組み立てる。
エルメス――民衆の希望であり、伯爵令嬢。領主と対等に渡り合える「格」を持つ最強のカード。
ハミルトン——ヴェルテ商会から街を救った英雄。商人として領主とのパイプを持てれば、情報の精度は更に太くなる。
クロエ――「奇跡の薬師」として、街の貧困層を救っている。領主の姪グレイシアを救った恩義もあり、最も心理的障壁が低い。
「この三枚が同時に盤上に並ぶとはな。我ながら、壮観なシチュエーションだ」
独り言に、熱がこもる。
「おや、随分と面白そうなことになっていますねぇ、ハイ」
「へ……うわあああぁぁぁっ!?」
叫び声を上げ、俺はソファから無様に転げ落ちた。
いつからそこにいたのか。背後には、死神のような薄笑いを浮かべたヴァールが立っていた。奴は這いつくばる俺を無視し、楽しげに手紙を覗き込んでいる。
「勝手に見るなッ!」
「ついつい、ハイ。あまりに香ばしい匂いが漂っていたもので、ハイ」
「何が香ばしいだ!」
俺は触手を威嚇するように振り回したが、ヴァールは柳に風と受け流し、下卑た笑みを深めるばかりだ。
「悪魔には礼儀ってもんがねぇのか!」
「失礼しました、ハイ。……とはいえ、実に見事な手際ではありませんか、ハイ。わたくし、不覚にも感動すら覚えましたよ、ハイ」
「感動してる暇があったら、とっとと帰れ。……で、何の用だ」
ヴァールがすっと表情を変えた。
唇に張り付いた笑みはそのままに、瞳の奥から一切の光が消え去る。
「明日が約束の期日ですので、ハイ。その最終確認に参上した次第です、ハイ」
「……わかってるよ。忘れるわけないだろ」
「もしも明日の深夜十二時を過ぎ、わたくしが『街の実効支配は不可能』と判断した場合は……即座にクーリングオフを執行させていただきます、ハイ」
「……っ」
喉の奥が引き攣るような沈黙。ヴァールは冷徹な宣告を続けた。
「その際は、きっちりかっちりバッチリと、地獄に堕ちていただきます、ハイ」
俺が息を呑む間も与えず、奴の言葉は重く積み重なる。
「最上級の地獄にございます、ハイ。ちなみに、刑期を終えるのは――百万年後でございます、ハイ」
「ひゃっ、百万年……!?」
俺は思わず叫んだ。
「たかが虫を殺した程度で、百万年も地獄の底に沈められるのかよ!」
「そうなりますね、ハイ。星がいくつか誕生し、燃え尽きて死ぬほどの悠久の時ですね、ハイ」
「例えが最悪だ! 余計に想像したくねえよ!」
「まあまあ、そう熱くならないでください、ハイ。今の貴方の成長速度を見る限り、わたくしはクーリングオフなど杞憂に終わると信じておりますよ、ハイ」
「信じてるなら、一週間くらい期日を延ばせ!」
「それはできません、ハイ」
ヴァールは断固として、しかし楽しげに言い切った。
「規則ですので、ハイ」
「お前が作った規則だろ!」
「わたくし、自分に厳しいたちなのです、ハイ。では、明日の深夜十二時、再びお会いいたしましょう、ハイ」
「お、おい、待て! 頼む、もう少し……時間をくれてもいいだろ……」
ヴァールの気配が霧のように消えた後、俺はそのまま地面に崩れ落ちた。
……しばらく、何も考えられなかった。
たかが虫。その報いが、宇宙の寿命すら思わせるほどの永劫の責め苦。こんな理不尽な天秤があっていいはずがない。
「……冗談じゃない」
呟いた言葉は、虚空に溶けた。
しばらく床を睨みつけていたが、俺はゆっくりと身を起こした。
触手の先に残った招待状。ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵の名を、網膜に焼き付けるように読み直す。
明日の晩、この男の懐に、俺の分身たちを三方向から同時に送り込む。エルメス、ハミルトン、クロエ。一晩で、この街の【心臓】を掌握してみせる。
……できなければ、死ぬより酷い目に遭う。
「何としても、手に入れてみせる」
コアが激しくドクンと波打った。
ソファに戻り、脳内モニターを全開にする。領主の嗜好、側近の配置、セリーヌの極秘報告。すべてのパズルピースを組み替え、勝利への一本道を構築する。
やるべきことは、もはや山を越えて空を埋め尽くすほどにある。
だが、それこそが望むところだ。
「……やってやるよ。この街を牛耳ってしまえば、あとは俺のハッピーライフが待ってんだ! 地獄に百万年も行ってたまるかッ!」
誰にともなく吐き捨てると、兄弟たちが「もきゅ」と調子外れの返事をした。




