第40話 7号
王都の夜は、静まり返っていた。
大通りに面した豪奢な邸宅。その最奥に位置する一室は、外界の喧騒を厚い石壁で完全に遮断している。暖炉の炎が爆ぜるたびに、壁に伸びた二人の影が不気味に揺らめいた。
重厚な黒檀のテーブルの上には、象牙細工のチェス盤が置かれている。
白と黒の駒が、戦場の如く整然と並ぶ。二人はほとんど無言のまま、交互に盤上の駒を動かしていた。
白の駒を動かしたのは、品の良い老人だった。
老人の手は皺だらけだったが、駒を掴む指先は驚くほど安定していた。指先一つにすら感情を乗せない。それは、数多の陰謀を指先一つで操ってきた人間の手だった。
対面に座るのは、二十代半ばの男。
緩く束ねた長い髪、着崩した高価な絹の衣。整った顔立ちには隠しきれない倦怠が漂い、その瞳はこの世のすべてに飽き飽きしている、そういう冷たさを宿した男だった。
「アブダブルが失敗したようです」
老人が告げた。視線は盤上に釘付けにしたまま。
「そうか」
男は興味なさげに、黒の騎士を指先でくるりと回した。
「証拠が露呈し、憲兵が動く直前に処理を済ませました。尻尾は、根元から断っております」
「当然の処置だ」
男が駒を盤上に置いた。硬質な音が室内に響く。
「機能しない駒を盤上に残す道理はない。そもそも、あれには歩兵ほどの価値もない。やはり、平民は平民でしかないということだ」
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
「お前が謝る必要はない」
男が不意に老人を見据えた。
「ただ、選別を誤っただけのこと」
老人は沈黙し、次の手を待った。
「次は、いかがなさいますか」
「お前に一任する」
男が再び盤面へ視線を落とした。一瞬の逡巡もなく、一つの駒を静かに滑らせる。
「チェックメイトだ」
老人は盤面を凝視した。全方位を封じられ、逃げ場はない。完璧な詰み。
「……相変わらず、手厳しいですな」
老人は力なく苦笑し、倒れた白の王を見つめた。
「盤上に感傷は不要だ。それは弱者のすることだ」
男が深紅のワインを煽った。
「街の一つや二つ、どうとでもなる。新たな駒を補充し、盤を立て直せ。……あれが我々の邪魔をする限り、この遊戯に終わりはない」
老人は静かに頷き、盤上から倒れた駒を取り除いた。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
◆
噴火口の夜は、長く感じられた。
エルメスとシャネルの二人が意識を取り戻すまで、俺は三郎太の傍らで一晩を過ごした。その巨躯が放つ体温は、冷え切った岩場において唯一の確かな温もりだった。
黎明の刻、エルメスがゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……生きて、おりますわね」
「当然だ。死なせるわけねぇだろ」
少し遅れて、シャネルも音もなく起き上がった。彼女は無言で周囲を確認し、三郎太の姿を見てから、俺に視線を向けた。
「……成功したのね」
「ああ。何とかな」
三郎太さんの体内に、俺の意識が繋がっている。
三郎太の肉体を通じて、俺の意識が深く繋がっている。エルメスやシャネルとは少し違う感覚だ。もっと深いところに何かがある。眠っているが、消えてはいない。
俺はシャネルの背嚢へと潜り込み、エルメスに同調した。
噴火口を後にし、伯爵邸へ向かおうとした――その時だった。
南の空に、細い煙が立ち昇っているのが見えた。
村の方角だ。
瞬時に同調をシャネルへ切り替え、【千里眼】を発動させる。山頂からの視界が、村の惨状を鮮明に捉えた。
広場には村人たちが一箇所に集められ、老人や女子供、全員が地面に座らされている。それを取り囲むのは、下卑た笑みを浮かべた武装集団――盗賊だ。
人混みの中に、ミレーユとスジーの姿があった。スジーの鋭い眼光が、反撃の糸口を求めて微細に動いている。だが、人質が多すぎる。迂闊には動けない。
盗賊の中でも一際体格の勝る男が、獲物を定めるようにミレーユへと歩み寄った。その細い腕を乱暴に掴み、男が下品に舌なめずりをした。
俺は意識をエルメスへと戻した。
「どうするつもりでござるか」
三郎太さんが問いかけてくる。
俺は思考を巡らせる。
スジーは厄介な女だ。エルメスの正体に最も近づいたあの鋭敏な観察眼は、俺にとってリスクでしかない。ここで彼女が消えてくれるなら、都合がいいのは確かだ。
だが。
俺の意図に反して、エルメスの足が村の方角へ一歩を踏み出した。
俺の意思じゃない。
明確に、エルメス自身の肉体が村へ向かうことを熱望していた。内側からせり上がるような、抗いがたい衝動。
エルメスが助けたがっているのは――ミレーユ、か。
……一体どういう心境の変化だよ。
毒づきながらも、俺はその意志を否定することはしなかった。万が一自我が完全に覚醒すれば、エルメスとの関係は再構築を余儀なくされる。シャネルという危うい爆弾を抱えている以上、これ以上火種を増やすのも得策ではない。
「行くぞ、三郎太さん。初仕事だ」
三郎太さんの巨躯が、静かに、しかし地響きを立てるような力強さで動き出した。
◆
村の広場――スジー視点
最悪だった。
視界のどこを切り取っても、これ以上の“最悪”は存在しない状況だ。
盗賊の数は二十名を超え、広場に集められた村人は二百名近い。私とミレーユも、逃げ場のない群衆の中に紛れ込んでいた。
「ほお、こんなしけた村でも少しはマシなのがいるじゃねぇか」
ミレーユが下卑た賊の頭目に腕を掴まれた。
瞬間、私は反射的に杖を構えた。
「ミレーユを離しなさい!」
「あ?」
だが、賊の頭は薄汚い笑みを崩さぬまま、村の子どもを部下に掴ませた。
「ひ、卑怯よ!」
「卑怯も糞もあるか。お前にはこの俺様がカッコつけた騎士にでも見えるってのか?」
賊たちからどっと笑いが巻き起こる。
「……っ」
私は、煮え繰り返るような屈辱と共に魔力を霧散させた。
歯を食いしばる音だけが、自分の頭蓋に虚しく響く。
「おとなしくしていれば、命までは取らねえよ。むしろ増やしてやろってんだ」
「後で俺らにも回してくださいよ」
再び、下卑た笑いが村中にこだまする。
その濁った瞳には、娯楽として蹂躙を楽しもうとする獣の光が宿っている。
強引に引き寄せられ、ミレーユは苦痛に顔を歪めた。
私は、抗いがたい怒りに突き動かされて一歩前へ出た。
「その汚い手を離しなさい」
男の視線が私を射抜く。値踏みし、貪り食おうとする不快でいやらしい視線。
「威勢のいい女は嫌いじゃねぇ。……まあそう焦らなくても、お前も後でたっぷり可愛がってやる」
何度目かの賊たちの下品な笑い声が、嫌というほど広場に充満していた。
万策尽きた。魔法も、逃走も、交渉も、人質という重石の前には無力だ。私はただ、自分の無力さを呪いながら思考を空転させるしかなかった。
その時だった。
山の方角から、空気を震わせるような地響きが届いた。
「――――」
腹の底に響く低い唸り。直後、大気が爆ぜるような咆哮が村全体を呑み込んだ。
賊も、村人も、そして私も、磁石に吸い寄せられるように山の方を仰いだ。
「な、なんだ……あれ」
稜線の向こうから、太陽を遮る巨大な影が浮上する。
漆黒の翼。
「……そんな」
圧倒的な質量感を持って広がる、死の象徴。
「ドラ、ゴンだ……ッ!」
誰かの悲鳴が呼び水となり、広場はパニックに包まれた。盗賊たちの顔から余裕が消え、村人たちは絶望に泣き崩れる。
私は立ち尽くすしかなかった。野盗に弄ばれた末に、龍の焔に焼かれて終わるのか。
だが、その絶望の最中、私の目は「異質なもの」を捉えた。
「え……うそ、でしょ」
ドラゴンの背――そのあまりに高い場所に、二つの人影が立っていた。
銀髪をなびかせるエルフと、陽光を反射する金髪の少女。
私は自分の正気を疑った。あの金髪に見覚えがないはずがない。
「助けにきましたわよ!」
鋭く、それでいて凛とした少女の声が、天から降り注いだ。
間違いようもない。あの傲慢で、しかし誰よりも光り輝くエルメスの声だった。
◆
漆黒の巨躯が村の上空に差し掛かった瞬間、盗賊たちの統制は砂の城のように崩れ去った。
当然だ。空から巨大な黒龍が降ってくれば、誰だって動揺する。いかなる命知らずとて、正気を保つのは困難になる。
三郎太さんの動きは速かった。
前足が鋭く空を裂き、着弾の如き勢いで地を叩く。衝撃波だけで先頭の盗賊二人が木の葉のように吹き飛んだ。逃げ惑う者、腰を抜かす者、無謀にも武器を握り直す者。広場は一瞬にして混沌の渦に叩き落とされる。
その背の上で、シャネルが静かに弓を引き絞った。
放たれた矢は吸い込まれるように、武器を構えた賊の手首や肩、足首へと正確に突き刺さる。寸分の狂いもない、神速の三連射。
「人質から離れなさい!」
俺は声を張り上げた。
三郎太さんが巨大な翼を翻し、広場の中央へと降り立つ。凄まじい地響きと共に土煙が舞い、村人たちが一斉に後退した。
子供を盾にしていた盗賊が、眼前に迫った龍の顎を前に硬直する。その絶好の機を、スジーが見逃すはずもなかった。放たれた氷の魔法が賊の足を瞬時に凍てつかせ、解放された子供が親の元へと駆け出した。
「ば、バカッ! 逃げんじゃねぇ! 全員、武器を構えろッ!」
頭領らしき男が虚勢を張って吠えるが、呼応する者は誰もいない。三郎太さんの放つ圧倒的な威圧感の前に、賊たちの顔からは完全に血の気が失せていた。
三郎太さんが、短く、低く唸った。
地を這うような重低音の共鳴が、村全体の空気を震わせる。
それだけで、勝負は決した。
盗賊たちが次々と武器を投げ出し、戦意を放棄する。逃亡を図った者も、三郎太さんの尾が地を叩いた振動で無様に転倒した。
最後まで剣を握っていた男も、三郎太さんの黄金の瞳が捉えた瞬間、その刃は隠しきれない恐怖で激しく震え始めた。
「降参だ。……た、頼む、殺さないでくれ」
乾いた音を立てて、剣が石畳に落ちた。
刹那、村人たちから爆発的な歓声が沸き起こる。
その歓喜の渦を切り裂いて、ミレーユがこちらへ駆け寄ってくる。
「エルメスッ!」
弾丸のような勢いで抱きつかれ、俺の細い体が大きくよろめいた。
「来てくれると思ってた! 絶対、信じてたんだから!」
ミレーユの叫びは、安堵と歓喜が混じり合って震えていた。
「……大げさですわよ。耳元で騒がないでくださる?」
俺は口を動かしながら、内心で少しばかり狼狽していた。抱きつくミレーユの力が予想以上に強い。それ以上に、この肉体の奥底で、何かが共鳴するように揺れているのを感じたからだ。
奥底に沈んでいるはずのエルメスの意識が、この熱量を、この再会を、確かに感じ取っている。
そこへ、スジーが幽霊でも見るような目で歩み寄ってきた。
「そのドラゴンはなに。どうして伝説の黒龍が貴女に従っているの?」
広場に集まった村人たちの間にも、同様の困惑が波及していく。無理もない。今しがた自分たちを救ったのは、お伽話に出てくる災厄そのものなのだから。
「少しばかり、教育をして使い魔にしただけのことですわ」
俺は腕を組み、事も無げに言い放った。
「使い魔!? ドラゴンが!? それも黒龍が! あ、ありえない!」
常に冷静だったスジーの仮面が剥がれ、感情が剥き出しになる。
「黒龍は古来より龍種の頂点。誇り高き彼らが軍門に降るなど、魔導の歴史をひっくり返してもあり得ない話よ。そんな芸当ができる術者なんて、神話の時代にすら――」
「そんなに鼻息荒く仰られても困りますわ。それに、実際にこうして言うことを聞いていますでしょう」
俺は三郎太の方へと優雅に向き直った。
「三郎太――いえ、黒龍。……『お手』」
三郎太さんが、地響きを立てて巨大な前足を上げた。
村人たちから「おお……っ」という地鳴りのようなどよめきが上がる。
続いて、
「『伏せ』」
三郎太さんがその巨躯を折り畳み、従順に砂埃を上げて平伏した。
最後に、
「『服従のポーズ』」
三郎太さんはあろうことか仰向けに転がり、無防備に巨大な腹を天に晒した。
刹那、広場に割れんばかりの拍手と爆笑が沸き起こった。先ほどまでの恐怖はどこへやら、子供たちが歓声を上げて三郎太の元へ駆け寄ろうとし、慌てた母親たちに首根っこを掴まれている。
「……」
スジーは言葉を失っていた。口が半開きになっている。
「……神聖にして不可侵の黒龍に、なんてことをさせているのよ」
怒りと、呆れと、そして底知れぬ恐怖が混じり合った、掠れた声。
対照的にミレーユは「エルメス、すごすぎるわ!」と目をキラキラと輝かせている。
俺は内心で少しだけ笑った。三郎太さん、すまない。
◆
生き残った盗賊は縛り上げ、後刻到着する憲兵団に引き渡すことになった。
だが、賊の頭領だけは例外とした。
「この男の身柄は、私が預かりますわ」
俺はエルメスの唇を操り、事も無げに宣言した。
「え、どうして?」
スジーが不審げに眉を跳ね上げる。
「バーキン家の領地で狼藉を働いた大罪人ですもの。領主である父へ直接引き渡し、裁きを仰ぐのが筋というものでしょう。父の面目も立ちますし、これ以上の献上品はございませんわ」
「……まあ、理屈は通っているけれど」
スジーは得心のいかない表情を浮かべた。
納得はしていないが、反論の糸口も見当たらない。そんな苦渋に満ちた顔だった。
実際のところ、伯爵への「手土産」という側面は方便に過ぎない。
「私たちはもう行きますわ」
「エルメス!」
別れ際、ミレーユが「また、すぐに会えるよね?」と縋るような目で問いかけてきた。
俺はエルメスに柔らかな笑みを浮かべさせ、「ええ、またお会いしましょう」と約束を交わした。
最後に、スジーが俺の――エルメスの瞳を、射抜くように凝視した。
「エルメス」
「なんですの?」
「……記憶、戻るといいわね」
「ええ」
彼女はそれだけを言い残し、拒絶するように視線を外した。
俺は、何も答えられなかった。
エルメスの胸の奥底で、何かが得体の知れない音を立ててざわりと揺れた。
◆
三郎太さんが力強く地を蹴り、一気に天空へと舞い上がった。
瞬く間に村が豆粒のように小さくなり、必死に手を振るミレーユの姿も霞んでいく。高度が上がるにつれ、千切れた雲が指先を掠め、激しい風が鼓膜を叩く。シャネルは三郎太さんの硬い鱗をしっかりと掴み、飛翔の衝撃に耐えていた。
俺はエルメスとの同調を解除し、シャネルの背嚢から這い出した。
三郎太さんの背は驚くほど広い。芋虫の姿に戻った俺がその端に転がっていても、広大な甲板の上にいるようなものだ。
視線の先には、手足を縛られた盗賊の頭領が転がっていた。
男が俺の存在に気づき、その目を恐怖に見開く。
「な、なんだ……!? 化物……モンスターじゃねぇか!」
「静かにしろ。あまり暴れると、ここから叩き落とすぞ」
俺の声に、頭領は凍りついたように動きを止めた。眼下に広がる、目も眩むような高度を確認し、男の顔から一気に血の気が引いていく。
「な、なんでこんな気持ちわりぃバケモンなんて飼ってやがんだ! しっ、あっち行け! こっちに来んじゃねぇ!」
「勘違いするなよ、人間。あいつらが俺を飼っているんじゃない。俺が、お前ら全員を“飼って”いるんだ」
「ひいっ!? し、喋りやがった……!?」
「驚くのも無理はないか。……だが、その驚きも今のうちだ」
俺は頭領の顔を冷徹に観察した。野盗を束ねるだけあって、骨格も筋量も申し分ない。何より、死の淵にあっても光を失わないその眼力は、寄生体としての有用性を示していた。
オールセルテスの街中にはリリアがいる手前、迂闊に駒を増やせない。だが、ここは神眼の届かぬ空の上だ。
「これからお前は『七号』として、俺の手足になってもらうぜ」
「な、何を言ってやがる! 嫌だ……来るな! 来るんじゃねえッ! ぶち殺すぞ!」
男は縛られたまま、三郎太さんの背の上をずりずりと後退する。その無様な動きは、皮肉にも今の俺と同じ「芋虫」のようだった。
「逃げてどこへ行く。ここは雲の上だぞ」
「うるせぇッ! 来るな、あっちへ行けッ!」
男の絶叫に、シャネルが一度だけ無関心に振り返り、再び前方の空へと視線を戻した。既に慣れきった、いつもの反応だ。
俺は着実に、男との距離を詰めていく。
「嫌でも何でも、お前に選択肢などないんだよ。大人しく受け入れれば、死ぬよりはマシな余生を約束してやる」
「嫌だあああああッ!」
男が絶望に目を閉じ、天を仰いで叫んだ。
その隙を、俺は見逃さない。
鋭い針を、獲物へ向けて構える。
「いやだあああああ――ッ!」
ぷすり。
男の首筋に、非情な一刺しが沈んだ。
激しく痙攣し、弓なりに反った男の体が、次の瞬間、糸の切れた人形のように弛緩した。
数秒の沈黙。
やがて、ゆっくりと瞼が開かれる。
いっとき白濁した眼球が不気味に蠢き、やがて焦点の定まった「正位置」へと戻った。
脳内に新たなモニターが追加される。ノイズ一つない、クリアな視界。
七号、ロールアウトだ。
「よし」
三郎太さんの背の上で、俺は悠然と広大な空を見渡した。
遥か彼方に、伯爵領の輪郭が見える。帰還後の報告、ヴァールとの約束の期日まであと四日。
果たして、間に合うのだろうか。
ちょっと心配になってきた。
だが、今は考えるのはよそう。
この圧倒的な高みを存分に堪能しよう。
風が吹き抜ける。
三郎太さんが大きく翼を広げた。




