第34話 ドラゴン
山は、思ったよりも急だった。
石ころだらけの斜面を、エルメスの体で黙々と登っていく。シャネルは俺の三歩ほど先を歩いていた。足取りが安定していて、背嚢の重さも全く気にした様子がない。
対して俺は――いや、エルメスの体は運動がかなり苦手だった。
記憶を辿ってみれば、魔法学校時代の体育の授業をほとんどサボっていたのがよくわかる。おかげで体幹が弱く、石を踏むたびにふらついてしまう。
「……大丈夫?」
シャネルが振り返った。
「問題ありませんわ」
強がりながら答えると、俺は背嚢の中で揺れる本体を感じた。正直、本体の方もかなり不快だ。
数時間ほど登り続けると、視界が一気に開けた。
そこは噴火口だった。
すり鉢状の大きなくぼみが山頂に広がり、縁に立つと遠くまで見渡せた。風が強く、雲がすぐ近くを流れている。
「……見えますの?」
俺はシャネルに尋ねた。
シャネルが左目に魔力を込めると、瞳が淡く光り、千里眼が発動した。
しばらく無言で下を見つめていたが、やがて小さく頷く。
「……いる」
「どこですの?」
「噴火口の底。岩の陰に」
「状態は?」
「……動いていない。眠っている。いや――」
シャネルの眉がわずかに寄った。
「弱っている。呼吸が浅い」
俺は噴火口を覗き込んだ。
底は深く、暗くて見えない。岩肌は黒く、溶岩が固まった跡がいくつも残っている。
「地図を出してくださいまし」
シャネルが背嚢を下ろし、村長からもらった地図を広げた。
俺はエルメスの細い指で地図をなぞった。
噴火口へ続く洞窟が、山の北側にある。直接降りるより、そちらから入った方がリスクは低そうだ。
「北の洞窟から入りますわよ」
「わかった」
俺たちは噴火口の縁を離れ、北側へと回り込んだ。
◆
洞窟は、思ったより広かった。
松明は必要ないようだ。岩の隙間から、細い光が幾筋も差し込んでいる。足元はぬかるんでいるが、歩けないほどではない。
俺は前方を歩くシャネルに声をかけた。
「シャネル、いつでも背嚢から出られるように、口を少し開けておいてもらえるかしら」
「わかった」
返事と共に、背嚢の口がわずかに緩んだ。
そのまま、しばらく進む。
洞窟がさらに広くなったところで、岩場が途切れた。
その先に——いた。
アニメや漫画でしか見たことのない、本物のドラゴン。
しかも、想像以上に巨大だった。
黒い鱗が岩肌に溶け込むように横たわっている。翼を折り畳み、首を地面に預け、目を閉じていた。
「なるほど」
確かに弱っている。鱗の一部がくすみ、呼吸も浅い。
だが、何よりその大きさに圧倒された。とにかく、でかい。
「……近づけますの?」
俺は声を潜めて囁いた。
「難しいわ。気づかれるかもしれない」
「では岩陰から――」
その瞬間。
ドラゴンの目が、ゆっくりと開いた。
金色の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
やばい……!
「逃げますわよ!」
◆
逃げた。
全速力で逃げた。
エルメスの体で全力疾走するのは、これが初めてだった。ヒールが岩場に引っかかり、何度もつまずく。それでも必死に足を動かし続けた。
背後で、ドラゴンが起き上がる気配がした。
重い地響きが洞窟全体を震わせる。
「――――ッ!」
シャネルが矢を放ちながら叫んだ。
「サンダーボルト!」
俺も走りながら魔法を撃ち続ける。二人の攻撃がドラゴンに直撃した。
――しかし、まるで効いていない。
黒い鱗が一瞬光っただけで、ドラゴンの歩みは止まらない。それどころか、距離が詰まっている。
「これのどこがAランクですの!?」
俺は思わず叫んだ。
「絶対にアラクネクイーンより強いですわよ! 格付けがおかしいですわ!」
ドラゴンが大きく口を開けた。
炎ではない。圧縮された魔力の奔流が、洞窟の壁を抉りながら襲いかかってきた。
避けた、つもりだった。
だが――遅い。
「うわぁああッ!?」
衝撃波が走る。
直撃はしていない。それでも、空気そのものを叩きつけられたような圧力で、体が浮いた。
視界が一気に回転する。
岩壁に叩きつけられる鈍い音が響き、肺の空気が一瞬で押し出された。
「……ッ」
音が遠い。
横にシャネルが見えたが、動かない。
まずい――と思った瞬間、意識が途切れた。
脳内モニターに映る二つの視界が、真っ暗になった。
自動操作も、同調も……反応しない。
「……マジかよ」
俺は背嚢の中から這い出した。
岩場に降り立つ。
ドラゴンが、ゆっくりとこちらを向いた。
金色の瞳が、地面を這う黒い芋虫を捉える。
首が不思議そうに傾く。
そして、ゆっくり近づいてくる。
でかい。本当に、でかい。
一歩踏み出すだけで地面が大きく揺れ、俺の小さな体など踏みつぶされれば一瞬で終わる。
逃げろ!
俺は糸を勢いよく吐き出し、岩の突起に引っかけた。体を振り子のように振り回し、岩陰へと飛び込む。
「――――ッ!」
ドラゴンの鼻先が、さっきまで俺がいた場所を叩きつけた。岩が砕け散る。
「強すぎだろ!」
転がりながら次の糸を吐く。天井に引っかけて一気に上へ逃げる。ドラゴンの首が素早くこちらを追ってくる。弱っているはずなのに、動きが速い。
天井を這い、壁を這い、岩の隙間に身を滑り込ませる。
情けない。
まさか自分が、こんな情けない戦い方をするとは思わなかった。
アラクネクイーンの時は、紅蓮という最強のチームがいた。戦略もあった。アルエルのバフもあった。
今は非力な芋虫、一匹だけだ。
できることなんて、逃げることくらいしかない。
ドラゴンの頭突きが岩壁を粉々に割り、衝撃で体が吹き飛ばされる。地面を何度も転がった。
「いたい! いたいいたい!」
声に出しながら転がる。
やがて、ドラゴンの巨大な影が真上に落ちた。
終わった――。
そう思った瞬間、俺は両方の触手を思い切り広げた。
人間で言えば、両手を挙げて「降参!」というポーズだ。
「タンマ! ちょっとタンマ!」
ドラゴンが、ぴたりと動きを止めた。
首を傾げ、金色の瞳で地面の芋虫をじっと見下ろしてくる。
◆
「変わった魔物にござるな」
しゃ、喋った!? ドラゴンが喋った!?
「へ?」
「これほど激しく逃げまわる魔物を、某は見たことがないでござるよ。しかも、今の言葉。魔物の言葉にござらぬな」
「あ、あの……ひょっとして、転生者だったりします?」
一か八かで聞いてみた。
すると、ドラゴンの目が見開かれた。
「おおっ! お主も転生者であったか!」
でかい声が洞窟内に反響した。
風圧だけで吹き飛んでしまいそうだ。
「は、はい! では……あなたも?」
「いかにも! 某、立川三郎太と申す! 元は尾張の国の足軽でござった!」
尾張……の、国?
足軽って、日本の武家社会における歩兵のことだよな。
……ってことは、このドラゴン。
「ひょっとして、戦国時代の方ですか?」
「いかにも! 某は桶狭間の戦いにて今川軍の一員として――」
「お、おおおっ、桶狭間ッ!?」
俺は思わず叫んだ。
桶狭間の戦い。1560年。今川義元が織田信長に奇襲されて討ち死にした、あの桶狭間の戦いのことか!
「お主、あの戦を知っておるのか!?」
「知ってるも何も、クッソ有名ですよ! つーか、日本人で知らない奴なんていませんから! 日本史の授業で習いますから!」
「にほんしのじゅぎょう……? なんでござるか、それは」
「後世に伝わってるんですよ、その戦い。教科書に載るくらい有名な戦いです」
三郎太さんが黙った。
長い沈黙だった。
「……某が、教科書に」
「あ、いえ、三郎太さん個人ではなく、戦そのものが、です。……でも、三郎太さんもその戦いにいたんですよね。ということは歴史の一部です」
「……ふむ」
三郎太さんが低く唸った。
「それで、お主。その戦の結末を知っておるか」
「ええ、もちろん知ってますとも! 今川義元が信長に討ち取られて、今川軍が敗走した話ですよね」
「や、敗れた!? お館様が、あのような小童に敗北したと申すか! バカを申すでない! 今川軍と織田軍の戦力差は圧倒的だったはず! 敗北などありえぬッ!」
「では、三郎太さんはどうやって死んだんです?」
「それは……卑怯な奇襲を受け」
あ、何か思い出したみたいだ。
めちゃくちゃ落ち込んでる。
「そうか。お館様も某たちも、あの若造の策にしてやられたのだな」
今川軍が敗北したことが、余程ショックのようだ。
「某はあのとき、無念にも討ち死にしたでござるか。そして、気付いたらこの世界に転生していたでござるよ」
「なるほど」
「信長めは、その後どうなったのでござるか」
俺は少しだけ考えた。
「えーと、その後は天下統一目前まで行きましたけど、本能寺の変で家臣に裏切られて死にましたよ」
「ほほう!」
三郎太さんの目が輝いた。
「それで、その後はどうなったでござる」
「明智光秀という武将に攻められて、寺の中で自害したと言われてます」
「ほほほほほ! 家臣に謀反を起こされたか! なんと哀れな最期よ!」
でかい笑い声が洞窟内に響いた。
三郎太さん、よっぽど信長のことが嫌いなんだな。
「ざまあみろでござる! 天罰でござるな! お天道様はよく見ているでござるよ! いやはや、あっぱれ! よくぞ死んでくれた、あの傾奇者めが! くはははははっ」
相当恨みがあるらしい。
自分を殺した人なんだし、当然か。
俺はその隙に、エルメスとシャネルの状態を確認した。
「……二人とも息はある」
だが、まだ意識がない。しばらく時間がかかりそうだな。
「……三郎太さん。少し聞いてもいいですか」
「同郷のよしみにござる。何でも聞くがいいでごさるよ」
「なぜ、こんな山の中にいるんですか。ドラゴンなら、もっと他の場所でもいられるんじゃ」
三郎太さんの表情が、少し曇った。
「……ああ」
聞いちゃまずかったかな。
「実は、某……逃げてきたでごさるよ」
「逃げてきた?」
「いかにも。某が元々いたのは、ここから遥か北の地のダンジョンでござる」
「そこにも、俺や三郎太さんみたいな転生者がいるんですか?」
「某たちと似たような境遇の者には、過去に数人会ったことがござるよ」
やはり、転生者は他にもいるのか。
「三郎太さんをこの世界に転生させたのって、やっぱりヴァールみたいな奴なのかな?」
「ヴァール?」
おっと。心の声が漏れてしまった。
「エリアマネージャーって呼ばれてる奴です。知りませんか?」
「ああ、あの厭味な女のことでござるな」
……女? 北のエリアマネージャーは女の悪魔なのか。
「いかにも、某をこの世界に転生させたのは、そのエリアマネージャーとかいう奴でござるよ。しかも、そやつは魔王候補同士を戦わせることが趣味でございましてな。拙者も数百年、ひたすら戦い続けさせられ申した」
「数百年……」
「疲れ果てました」
三郎太さんの声が、少しだけ小さくなった。
「剣も槍も、もう見たくもなかった。某はもう誰とも戦いたくない。そう思い、あの女に直談判したでござるよ。結果は……。それならばと、某はあの女の目を盗んで逃げ出したのでござる」
他人事とは思えなかった。
「……見つかったら、どうなるんですか」
「クーリングオフ、とやらをされるそうでござる。魂を粉砕されて、地獄送り。そう脅されておったよ」
俺は奥歯をかみしまた。
同じだ。
ヴァールの野郎も、俺に同じことを言っていた。勝手に喚び出しておいて、役に立たなければ損切り。地獄送り。
ふざけやがって……。
「……理不尽ですよね」
「まったくでござる」
「連中の都合で呼ばれて、連中の都合で使われて、逆らえば地獄。なんなんですか、それ」
「某もずっとそう思っておりましたぞ」
「しかもあっちはケロッとしてるんですよ。ハイハイとか言いながら笑顔で脅してくるんです。腹が立って仕方ない」
「わかりますぞ、芋虫殿。某たちは同志にござる」
その顔は、ドラゴンとは思えないほど優しかった。
「同じ境遇の者が、こんなところにいようとは思いもしなかったでござるよ」
「俺もです」
しばらく、二人とも黙った。
洞窟の奥で、風が鳴っていた。
「……ただ」
三郎太さんが重い声で言った。
「某の命は、あと僅かでござる」
「どういうことですか?」
「ダンジョン産の魔物というのは、ダンジョンコアから魔力の供給を受けて生きているでござる。コアから離れすぎると、魔力の供給は滞る。某はもう数年間も各地を転々としておりますからな」
三郎太さんが翼をわずかに広げた。
よく見ると、鱗の端が乾いてひび割れていた。
「残った魔力は、もうごく僅か。このままでは、余命数日といったところでござろうな」
「……死ぬ、ということですか」
「いかにも。こうして、同郷の者と知り合えたというのに、無念でござるな」
「……」
かける言葉がない。
「某たちは、死ねば地獄行きでござる」
三郎太さんが静かに身を震わせた。
「……怖い、ですか?」
「地獄が、怖くないものなどおりますまい」
でかい体が、とても小さく見えた。
数百年を戦い続けた歴戦の転生者が、地獄を恐れて震えている。
何か、三郎太さんを助ける手立てはないのか。
俺は少しだけ考えた。
そして、とある方法を思いつく。
それは、俺のコアから三郎太さんに魔力を供給するというものだ。
俺のコアから魔力を供給すれば、三郎太さんは死なずに済むかもしれない。ダンジョン産の魔物がコアなしで生きられないなら、俺のコアを供給先に変更してしまえばいい。
俺は三郎太さんに、自分の中にダンジョンコアがあることを話した。
「なんと、そんな方法があったでござるか」
「これなら、魔力の供給に怯える心配はないですよね」
だが、三郎太さんは静かに首を横に振った。
「魔力の供給元を変えることなど、できないでござるよ」
果たして、そうだろうか。
確かにダンジョン産のモンスターが、母なるダンジョン――コアと縁を切ることは不可能。
しかし、母なる存在を上書きすることは、理屈の上では可能なのではないだろうか。
つまり、寄生してしまえば、俺こそが母体となる。
「三郎太さん、一つ正直に話してもいいですか」
「なんでござる」
「実は俺、寄生芋虫なんです」
「……寄生芋虫? それはなんでござる?」
「俺は相手の体に寄生して、操ることができます」
三郎太さんの目が細くなった。
「……某に、寄生しようというのでござるか」
「そうすれば、俺のコアから魔力が供給される可能性があります。上手くいけば、三郎太さんは死なずに済むかもしれない」
「かもしれない?」
「断言はできません。やったことがないので」
俺は続けた。
「それと……正直に言います。寄生すると、三郎太さんの意識は俺の内側に沈みます。でも、死ぬわけではありません。彼女たちがそうであるように」
俺は気を失っている、エルメスとシャネルを見た。
「彼女たちは確かに生きています。それだけは分かるんです。ただ、本当に意識が戻れるかどうか、今の俺には分からない」
三郎太さんは黙っていた。
長い沈黙だった。
「……つまり、拙者は眠らされるということでござるか?」
「そうなると思います。そして、三郎太さんが眠っている間、俺が三郎太さんの体を動かすことになります」
「ふむ」
三郎太さんが目を閉じた。
「地獄よりは、遥かにマシでござるな」
「……え?」
「地獄は怖い。某は数百年、戦い続けてきた。殺した命の数は数え切れん。それだけの業を積んでおることも、当然理解しているでござるよ。地獄がどれほど恐ろしい場所か、想像するだけで足がすくむ」
三郎太さんがゆっくりと目を開けた。
金色の瞳がまっすぐ俺を見つめる。
「眠るだけならば、夢でも見ておりましょうぞ。某、夢はきっと故郷の景色でござろうな」
「……本当にいいんですか」
「武士に二言はないでござるよ」
迷いがなかった。
さすが、本物の侍だ。
足軽だけど。
「芋虫殿、いつか某を起こしてくれるでござるか」
「……約束します」
「では、その時は、共に酒でも酌み交わしましょうぞ!」
「飲みましょう。たらふく」
「ははっ、それは楽しみでござるな!」
三郎太さんが首を伸ばし、俺の目の前に頭を差し出した。
でかい鼻先。金色の瞳。
「さあ、ひと思いにやってほしいでござる」
「……はい」
俺は針を構えた。
触手が、わずかに震えていた。
理由は恐怖ではなかった。
……この感覚は、何だろう。
「行きます」
「うむ」
針を刺した。
三郎太さんの目が、ゆっくりと細くなっていく。
光が弱くなり、意識が静かに沈んでいく。
最後に、か細い声が聞こえた気がした。
「……よろしゅう、頼み申す」
それから、すべてが静かになった。
俺は三郎太さんの意識が、深い底へと沈んでいくのを感じ取った。
消えたのではない。
ただ、深いところに眠っただけだ。
俺はそれを確かめ、静かに息を吐いた。
「……絶対に起こしますよ。三郎太さん」
誰にも聞こえない声で、俺はそっと呟いた。
「それまで、少し眠っていてください」
洞窟の奥で、エルメスが小さくうめき声を上げた。
意識が戻り始めている。
シャネルも、ゆっくりと頭をもたげていた。
俺は三郎太さんの頭の上に乗ったまま、二人を見下ろした。
「……目が覚めたか」
エルメスの口を動かそうとして、思いとどまった。
今は、まだ黙っていよう。
背嚢の中に戻りながら、俺は天井を見上げた。
体内のコアが、少し前より軽くなったような気がした。
……それとも、気のせいだろうか。




