第33話 曖昧な記憶
村に着いたのは、屋敷を出てから半日ほど経った頃だった。
こじんまりとした農村だ。石造りの家が並び、畑が広がり、遠くに山の稜線が見える。景色だけ見れば穏やかなものだが、空気が違う。人の気配があるのに、妙に静かだ。
視線を感じる。
家の隙間、窓の奥、物陰。こちらを窺う目が、すぐに引っ込む。
……怯えてるな。
村長らしき老人が慌てた様子で駆け寄ってきた。額に汗を浮かべ、深々と頭を下げる。
「これはこれは、バーキン伯爵家のエルメス様。ようこそおいでくださいました」
「顔を上げなさい。苦労をかけしていると聞いていますわ」
言葉を返しながら、周囲を観察する。
頭を下げている。だが、歓迎ではない。恐怖と警戒が混ざった、ぎこちない反応だ。悪役令嬢の噂は、この村にまで届いているらしい。
「あれ?」
村の奥から、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、茶色い髪の少女が目を丸くしてこちらを見ていた。その隣で、黒髪の少女が腕を組み、じっと様子を見ている。
「……ミレーユ。なぜここに」
「こっちのセリフだよ! エルメスこそなんで!」
ミレーユが遠慮なく声を張る。村人たちがびくりと肩を揺らした。
「この辺りにドラゴンが出たと聞きましたの。今回はその調査ですわ。あなたたちは?」
「私たちは村の家畜がモンスターに何度も襲われてるって聞いて。学校が長期休みでしょ、せっかくだから冒険者の仕事をやってみようってなって」
「ミレーユが独断で決めた」
スジーが即座に補足する。声は低く、視線は外さない。
「私は付き合わされてるだけ」
「でも、困ってる人を放っておけないじゃない!」
「……そうですわね」
短く相槌を打ち、村長へ視線を戻す。
「モンスターの件、詳しく聞かせてくださる」
「は、はい。ここ一ヶ月ほど、夜になると山の方からモンスターが降りてきまして。家畜小屋が何度か……。男たちで追い払おうとしたのですが、数が多くて」
話している間も、村人たちの視線は俺から離れない。
恐怖だけじゃない。
――値踏みだ。
頼っていいのか、それとも関わるべきではないのか。そんな迷いが混ざっている。
「ドラゴンとは別件のようですね」
「ドラゴンは何度か上空を飛んでいただけでして、村には降りてきておりません」
「被害は?」
「ドラゴンによる被害はありません」
俺は小さく頷いた。
……飛んでいるだけ、か。
だが、相手はドラゴンだ。そこに“いる”という事実だけで、村の生活は壊れる。
視線を上げる。
山がある。
大きい。やたらと大きい。村のすぐ背後にそびえるその影は、明らかに場違いな存在感を放っていた。
……あれ、登るのか。
嫌な記憶が蘇る。大学時代、興味本位で入った登山サークルで遭難しかけたことがあった。あの時は本気で死ぬかと思った。
「どうかされましたかな。まさか、ご気分でもがいされましたか!」
「少し考えごとをしていただけですわ」
視線を戻す。
ドラゴンの確認は山に入る必要がある。当然、ミレーユたちを連れていくわけにはいかない。芋虫本体を見られるリスクがある。
とはいえ――
ちらりとスジーを見る。
視線が合う。
逸らさない。
……面倒なやつだな。
「今夜のモンスター退治は、私たちも協力しますわ」
「え、いいの?」
「ここはバーキン伯爵領。ならば、私が動くのは当然のことですわ」
「それもそうだね! 一緒にやろう!」
ミレーユが明るく言う。
スジーはその隣で、無言のままこちらを観察し続けていた。
◆
夜。
山の麓、家畜小屋のすぐ近くで息を潜めていると、予告通りにモンスターが姿を現した。
大型のゴブリン、八匹。
……ふん、あれくらいなら楽勝だ。
エルメスの魔法が夜の闇を切り裂き、シャネルの矢が次々とゴブリンを射抜く。戦いはあっという間に終わった。
村人たちが恐る恐る家から出てきて、口々に感謝の言葉を投げかけてくる。さっきまで強張っていた彼らの顔が、ようやく柔らかく緩んでいた。
「ありがとうございます、エルメス様……! 噂とは、本当に信用できませんね」
老婆が涙をこぼしながら頭を下げた。
「大げさですわよ」
ミレーユが「すごい!」と目を輝かせた。
スジーは黙って見ていた。
翌朝。
四人で朝食を囲んでいると、ミレーユが突然話しかけてきた。
「エルメス、魔法の腕、全然落ちてないね。先生たちも、エルメスのことを惜しがってたよ。この前も言ったけど、今のエルメスなら戻ってこれると思う。ユリウスだって――」
「ミレーユ」
スジーが静かに遮った。
「ユリウスの話、していいの?」
「え、なんで?」
「ユリウス、近々婚約するって話、聞いたでしょ」
ミレーユが「あっ」という顔をした。気まずそうに俺の方をちらりと見る。
俺は平静を装おうとした。
その瞬間。
エルメスの体が、一瞬だけ、ぴたりと止まった。
俺の意思ではなかった。
ユリウスという名前が出た瞬間、本物のエルメスが内側で強く反応したのだ。それが、ほんのわずかだが、体の動きに表れてしまった。
「……それは、おめでたいですわね」
俺は即座に口を動かした――のだが。
「止まった」
スジーが低く言った。
「え?」
「今、一瞬止まった。あなたの体」
鋭い。
俺の意思じゃない。エルメスの反応だ。だが、それを見逃さないか。
「気のせいですわ」
「気のせいじゃない」
即答だった。
「私の目は誤魔化せない。それに……やっぱり変」
スジーの視線が、真っ直ぐに突き刺さる。
「エルメス。あなた、ユリウスに婚約破棄されたとき、相当荒れていた。呪い殺してやるとまで言っていた」
……え、エルメスちゃんそんなこと言ったの。
流石にそこまで細かくは見れないんだよな。
「そのあなたが、おめでとう? ありえない」
逃げ場を塞ぐような言い方だった。
「エルメス=バーキンなら、そんな言葉、死んでも言わない」
いや、エルメスちゃんのイメージどうなってんだよ。
だが――否定はできないんだよな。
「……」
数秒の沈黙。
俺が困っていると、ミレーユが「スジー」と小声で言った。
「言いすぎ」
「事実じゃない。ミレーユだって本当はおかしいって思ってるよね? いくらなんでも数カ月で変わり過ぎ。人はたかが数カ月でここまで変わったりしない!」
「……スジー」
スジーはミレーユを見ずに、ただ俺を見ていた。
その目が、お前は何者だと告げている。俺をエルメスではない何かだと認識している者の目だった。
「答えて。あなたは何者? 本物のエルメスはどこ! ……彼女はどこにいる。答えなさい!」
やはり、エルメスの過去を知る人間の中には、こうして正解にたどり着いてしまう者がいるのか。
……さて、どうしたものか。
「そこまで言われてしまえば、もう隠し通すことはできませんわね。」
「――――ッ!」
スジーが椅子を蹴って立ち上がる。杖を構える動きが速い。
臨戦態勢。
いい判断だ。
「安心なさい。あなたの想像しているようなものではありませんわ」
「もう一度、問う。あなたは何者?」
踏み込んでくる。
ここで濁すのは悪手だ。なら――“半分だけ真実”で押し切る。
「……記憶が、曖昧なんですの」
「……は?」
ほんの一瞬、スジーの動きが止まる。
「すべて失っているわけではありませんわ。でも、ところどころ抜け落ちている。ついさっきのことも、繋がらなくなることがある」
嘘ではない。
だが、全部ではない。
「そんな都合のいい話――」
「信じられないのも無理はありませんわね」
言葉を被せた。
「ですが、事実ですわ。私自身も、完全には把握できていませんの」
ここで“弱さ”を混ぜる。
作り話に見せないためのノイズだ。
ミレーユが不安そうに口を開いた。
「……それって、いつから?」
「森で倒れていたところを、シャネルに拾われた時には、すでに」
横に視線を送る。
シャネルが、わずかに頷いた。
「出会った当初は、今より酷かった。名前すら曖昧だった」
「……」
スジーの視線が揺れた。
完全には崩れていない。だが、一直線だった疑念に、ほんの少しだけ“揺らぎ”が生まれている。
「オールセルテスで治療を受けていますわ。クロエ=パディントンという薬師をご存知かしら?」
「……それって、壊血病を発見したっていう?」
ミレーユが反応した。
「先生が話してた。すごい人だって」
「ええ。その方ですわ。今も診てもらっていますの」
スジーは黙っている。
視線は外さない。
完全には信じていない目だ。
「……だから、時々おかしくなる?」
「ええ。記憶が繋がらないことがある。今のように」
間を置く。
ほんの一瞬だけ、言葉を探すように。
「……自分でも、困っておりますの」
静かに落とした。
完璧すぎないように。
「…………」
スジーはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと杖を下ろす。
「……納得はしてない」
小さく、だがはっきりと。
「でも――一応、筋は通ってる」
ミレーユがほっと息を吐いた。
「スジー……」
「ただし」
スジーは俺から目を逸らさない。
「嘘だったら、その時は本気で潰す」
……いい目だな。
「肝に銘じておきますわ」
俺は微笑んだ。
スジーはそれ以上何も言わず、背を向けた。
「行くんでしょ、山へ」
「ええ」
「……気をつけて」
短く言い残して、部屋を出ていく。
ミレーユが慌てて追いかけながら、振り返った。
「……ほんとなんだよね?」
一瞬だけ、迷いの色。
「ええ」
それだけ返す。
ミレーユは小さく頷いて、去っていった。
扉が閉まる。
静寂。
「……とりあえずは、誤魔化せた」
「ええ。完全ではありませんけれど」
「問題ない」
短い肯定。
だが、続いた言葉は冷たかった。
「ただ――一つ忠告」
「あら、珍しい。……聞かせてもらえるかしら?」
「スジーは、早く始末した方がいい」
俺は小さく笑った。
「さて、行くとしましょうか」
「……了解」
俺は立ち上がり、部屋を出て、山の方角を見た。
背嚢の中で、芋虫本体がドクンと蠢く。
体内のコアが、重く脈打つ。
あの山の奥に、ドラゴンがいる。
残り五日。




