第32話 お嬢様
シャネルがダンジョンに入ってきた時、俺は芋虫ソファの上で書類を広げていた。
相変わらず無駄のない足取りだ。背嚢を背負い、弓を携えている。
「呼ばれた」
「ああ。座ってくれ」
シャネルが近くの岩に腰を下ろした。俺はソファから這い降り、シャネルの前まで移動した。
「頼みがある。エルメスのいる伯爵領まで、俺を運んでくれないか」
「……背嚢に入れろということ?」
「そうなるな。人目がある場所で芋虫が歩くのはまずいだろ。道中は、ずっと背嚢の中にいるつもりだ」
シャネルは少しの間、俺を見ていた。
「それは、ドラゴンの件と関係ある」
「ああ」
「……そう」
シャネルは黙っている。
つまり、オッケーということだろうか。
「もう一つ言っておく。道中、俺はハミルトンや他の寄生体に同調することがある。その間、本体は背嚢の中で無防備になる。何かあれば揺らしてくれ」
「分かった」
「それだけだ」
シャネルが背嚢を下ろし、口を大きく開けた。
「さんきゅ」
俺はずるりと這い上がり、中に潜り込んだ。薬草の束と替えの弦の隙間に身を落ち着かせる。
狭い。暗い。だが悪くない。
「重いかもしれないが、よろしく頼む」
「分かった」
シャネルが背嚢を背負い直した。体ごと持ち上がる感覚がある。
やがて、ダンジョンの出口へ向かう足音が聞こえてくる。
◆
移動の三日間、俺はほとんどハミルトンに同調していた。
背嚢の中は暗く、揺れて、快適とは言い難い。せめて仕事をしていた方が気が紛れる。
脳内モニターを展開する。
商業都市オールセルテス、東区の南端。薄暗い路地の光景がハミルトンの視界に映っていた。
ここ数日でハミルトンが調べていた「原因不明の体調不良者」の件だ。
倦怠感、頭痛、食欲不振。熱はほとんど出ない。しかも局地的だ。感染症なら広がりが早いはずなのに、この一帯だけに集中している。
クロエが患者を何人か診て、報告を上げてきた。
決定的な原因は、まだ掴めていない。
ただ――
共通点がある。
症状の出ている者たちは、いずれも同じ一帯で生活している。しかも、軽快と悪化を繰り返している例が多い。自然に治るにしては不自然で、かといって病状が進行しているわけでもない。
まるで、何かを断続的に摂取しているような――そんな挙動だった。
『主様』
セリーヌから念話が入った。
『どうした』
『また死体が出ました。これで三体目です。全員、身元不明の遺体です』
俺は少しだけ考えた。
『そうか。奴隷商人の線はどうだ』
『……当たりかもしれません。半月ほど前から新たに奴隷を持ち込んでいます。表向きはただの奴隷商を装っていますが、それにしては不自然な点があります』
『不自然?』
『知り合いの行商人に話を聞いたところ、この街に滞在している奴隷商は、元々王都で貴族相手の商売をしていたとか。さらに、数年前には違法な売買で摘発されています』
確かに、きな臭いな。
『引き続き奴隷商を洗え。ただし、無理はするな。向こうが本気なら、非戦闘員のセリーヌでは太刀打ちできん』
『承知しています』
念話が切れた。
俺は背嚢の中で、静かに息をついた。
症状の出方、範囲、そして死体。
偶然にしては出来すぎている。
もし誰かが意図的にやっているとすれば――手口は一つしか思いつかないが、断定するには材料が足りない。
「……やっぱり理由がわからない」
俺はハミルトンとの同調を切り、意識を本体に戻した。
「……今はあんまり問題起こされたくないんだけどな」
背嚢の中で一人、呟いた。
これを放置すれば、イントレチャート子爵に会うための計画に支障を来す。貧困街で死者が続くような状況は、街全体を不安定にする。
ハミルトンに証拠を掴ませる。それからセリーヌを通じてギルドに情報を流し、憲兵を動かして一網打尽にする。それが今のところ一番確実なルートだ。
「やることあり過ぎだろ」
◆
シャネルと商業都市オールセルテスを出発して三日目が経過した。
背嚢の口が開いた。
「眩しッ」
外の光が差し込んでくる。木立。石畳。伯爵領の屋敷の正門だ。
「着いた」
シャネルの声だ。
俺は背嚢から顔だけ出した。
「ご苦労さん。エルメスに念話を飛ばしてくれ。到着したって」
シャネルが頷き、目を閉じた。数秒後。
「伝えた」
「じゃあそのまま普通に入って、裏に回ってくれ」
シャネルが屋敷の脇を抜け、裏庭へと回り込んだ。
木立の陰に、エルメスが立っていた。
金髪に碧眼。令嬢らしい立ち居振る舞い。最近の寄生虫による解像度はかなり高い。
「遅かったですわね」
「……三日かかる。仕方ない」
シャネルが淡々と返した。
「よっ、上手くやってたみたいだな」
俺は背嚢から顔を出したまま、エルメスを見た。
「シャネル、もう少し背嚢の口を開けてくれ。少し楽にしたい」
シャネルが背嚢の口を広げた。
木立の陰で、人目がない。
「ふぅー。っんじゃ、交代すっか」
俺はエルメスの意識に深く入り込んだ。
「……」
いつもの感覚だ。視界が切り替わる。金髪の毛先が見える。手足の感触が俺のものになる。
「……改めて、ご苦労様でした、シャネル」
「別に。それより、どうかした?」
「……ええ。どうやら、双子にずっと監視されていたみたいですの。この三日間、どこに行ってもついて来られて。この体、相当ストレスが溜まっているみたいですわ」
シャネルの目の端が、わずかに動いた。
「笑わないでくださいません?」
「笑ってない」
俺はため息をついた。
「しかし、考えましたわね」
「何が?」
「監視されるくらいなら近くに置いておこうと、この三日間、魔法を教えていたみたいですわ」
「才能は」
「ありますわね。コニーは炎、クリスは水。筋がいいですわよ」
「そう」
シャネルが背嚢を背負い直した。
「もう、行く?」
「出発の準備をしますわ。少し待っていてください」
俺は屋敷の中へ入っていく。
◆
パンプス視点。
エルメスお嬢様がお戻りになってから、三日が経った。
正直に申し上げれば、お嬢様がお戻りになると聞いた時、屋敷中が震え上がった。
お嬢様のご気性は、よく知っている。少しでも気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、物を投げ、使用人に理不尽な罰を与えた。先代の奥様を早くに亡くされて、寂しかったのだろうとは思う。
思うが――怖いものは怖い。
だから馬車が門をくぐったあの日、全員が完璧な笑顔を作りながら、内心では次の嵐に備えていた。
ところが。
「ええ、戻ったわ。あなたは相変わらず元気そうね、パンプス」
お嬢様はそう仰った。
名前を呼ばれた。穏やかな声で。
わたくしは三十年の仕事の中で初めて、返す言葉を失った。
その夜から、お嬢様の変化は続いた。
廊下ですれ違う使用人に会釈をされた。厨房の若い子侍女が料理を運ぶのに手間取っていると「急かすつもりはありませんわ、ゆっくりどうぞ」と声をかけた。庭の手入れをしていた老庭師に「お疲れ様です、綺麗ですわね」とひと言添えた。
感激のあまり泣き出す者もいた。老庭師がそうだった。背を向けて、こっそりと目頭を押さえていたのを、わたくしは見ていた。
変化は、双子への態度にも表れた。
これまでのお嬢様は、コンスタンス坊っちゃまとクリスティーヌお嬢様のことを、あまりよく思っておられなかった。ケリー奥様の子という事情もあるが、単純に子どもが苦手なご様子だった。
だが今のお嬢様は違う。
二日目の朝、パンプスが庭を通りかかると、お嬢様が双子の前にしゃがみこんでおられた。
「手の角度が大事ですわよ、コニー。炎は押し出すのではなく、引き出すイメージで」
「……こう?」
「そう。上手ですわよ」
コンスタンス坊っちゃまの小さな手から、橙色の炎がふわりと浮かんだ。
クリスティーヌお嬢様が「私も、私も」と手を伸ばす。お嬢様はくるりと向き直り、今度は水の制御を教え始めた。
ケリー奥様が遠くの回廊から、その様子をご覧になっていた。
「……本当に変わったのでしょうか」
奥様が小さく呟かれた言葉を、パンプスは聞いてしまった。
旦那様は違った。夕食後に珍しく機嫌よく仰っていた。
「ようやくまともになったか」
娘が帰ってきたことを、素直に喜んでおられるようだった。
そして今朝、出発の朝を迎えた。
お嬢様が旅支度を整えて玄関に出てくると、使用人たちが整列していた。
「お気をつけて、お嬢様」
パンプスが深く頭を下げた。後ろに続く使用人たちも、一斉に頭を下げる。
「留守を頼みますわよ」
「畏まりました、お嬢様」
老庭師が顔を上げた。目が少し赤い。
「……どうか、ご無事で」
「ありがとう。あなたも歳なんだから、無理はなさらず」
お嬢様はそれだけ言って、門へ向かった。
わたくしはその背中を、黙って見送った。
颯爽とした足取りだった。以前のお嬢様とは、何かが根本から違う。
門の外では、銀髪のエルフが待っていた。お嬢様の仲間だろうか。
あのお嬢様にご友人……。
コンスタンス坊っちゃまとクリスティーヌお嬢様が、いつの間にかわたくしの隣に立っていた。
二人とも、無言でお嬢様の背中を見ていた。
「……ねえ、クリス」
コンスタンス坊っちゃまが小声で言った。
「うん」
「あれ、本物だと思う?」
クリスティーヌお嬢様が少しの間、黙っていた。
「……わかんない」
それだけだった。
わたくしはその言葉を、聞こえなかったことにした。
三十年仕えてきた自分にも、答えが出なかったから。




