第31話 めんどくせー
三日目の夕方、馬車は城門をくぐった。
バーキン伯爵領の中心に位置する街――ナイセス。外壁に覆われた、要塞のような街だ。
しかし、内側は違う。
石造りの建物が並び、街路には手入れの行き届いた並木が続いている。行き交う住民たちの顔が穏やかだ。領主が悪くない証拠だと、前世のサラリーマン的勘が言っていた。
エルメスの体が静かに反応している。
懐かしい、と。
俺自身は知らない場所だが、記憶の断片に、幼いエルメスがこの道を歩く光景が残っている。まだ悪役令嬢と呼ばれる前の、柔らかい景色。
俺はその記憶に、必要以上に踏み込まないことにした。
屋敷の門が見えてきた。
「……いよいよ、ですわね」
石造りの重厚な門扉。その前に、使用人たちが整列して待ちかまえている。
馬車が止まった。扉が開く。
エルメスの体で外に出ると――使用人たちの表情が、一斉に動いた。
お帰りなさいませ、という声が揃う。笑顔も揃っている。
だが、全員、目が笑っていない。
前世で散々見てきた顔だ。“対応しなければならない相手”に向ける、完璧に制御された表情。肉体は歓迎の姿勢を取りながら、精神はすでに防衛モードに入っている。
無理もない。俺はエルメスの記憶で知っている。この屋敷でエルメスがやってきたことを。
「……お帰りなさいませ、お嬢様」
筆頭使用人らしき老婆が、深く頭を下げた。声は完璧に平静だった。
「ええ、戻ったわ。あなたは相変わらず元気そうね、パンプス」
俺はエルメスの声で、できるだけ穏やかに答えた。
「……」
老婆が僅かに目を瞬いた。
そこに気づいたのは俺だけかもしれないが——その一瞬だけで、前のエルメスが帰宅するたびにどんな言葉を使っていたか、だいたい想像がついた。
「ご立派になられましたね、お嬢様」
「……色々と、ありましたから」
老婆は何も言わず、深く頷いた。
屋敷に入ってしばらく。廊下を歩いていると、角を曲がった先から小さな足音が聞こえた。
忍び足だ。
「しっ」
「見つかる」
次の瞬間、二つの小さな影が壁際に張り付いていた。
「……見えてますわよ」
俺が言うと、影が固まった。
茶色い巻き毛の男の子と、同じ茶色の三つ編みの女の子。年は十歳ほど。よく似た顔立ちの双子だ。
コンスタンスとクリスティーヌ――エルメスの腹違いの弟と妹だ。
二人は俺を見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
警戒だ。怯えではなく、明確な警戒。この子たちは賢い。感情と判断を切り離して、相手を観察している。
「……お姉様」
「帰りましたわ」
俺はできるだけ静かな声で言った。
「二人とも、いい子にしていましたか?」
コニーの眉が、かすかに動いた。
クリスがコニーを一瞥する。二人の間で、言葉を使わない会話が交わされた気がした。
「……はい」
クリスが短く答えた。
「そう。良かったですわ」
俺はそれだけ言って、二人の横を通り過ぎた。
背後で、コニーの声が聞こえた。
「……クリス」
「うん」
「あれ、本物か?」
「……わかんない。でも、なんか違う。お姉様から、あの嫌な圧が感じなかった」
俺は足を止めなかった。
ただ、廊下の先を歩きながら、少しだけ頭を抱えた。
十歳のくせに、いい勘してやがるな。
屋敷にいる間は、あの双子に注意しよう。
◆
夕食の席は三人だけだった。
父親のティエリ=バーキン伯爵、義母のケリー、そして俺――エルメス。
双子は別の部屋で食事を取るらしく、姿を見せない。
長いテーブルに蝋燭の炎が揺れ、使用人が音もなく動き回る。皿が置かれ、料理が運ばれ、ワインが注がれる。
伯爵はがっしりとした体格の男で、白髪の混じり始めた髪に太い眉、娘に似た碧眼を持っていた。その目は静かに、じっとこちらを向いている。
品がある。同時に、ずっしりとした重さもある。
この男は今、この瞬間も俺を――エルメスを値踏みしている。
……就活時代を思い出す。
まるで面接だな。
「……久しぶりだな、エルメス」
「ご無沙汰しておりましたわ、お父様」
「元気そうで何よりだ」
「おかげさまで」
会話の表面は穏やかだ。父と娘が食卓で交わす、ごく普通の再会の言葉だ。
だが。
俺はエルメスの仮面の裏で、伯爵の目を観察し続けた。
この男がエルメスを呼び戻したのは、単なる親心からではない。
英雄になった娘を手元に置くことで、伯爵家としての価値を高めようとしているのだろう。
つまり、エルメスは今この男にとって、ただの“使える駒”だ。
俺も、同じことを考えている。
互いに相手を利用し合おうとしているのなら、貴族の作法で応えるべきだ。
「お父様」
「なんだ」
「留守中、ご心配をおかけしましたわ」
「心配はしていた」
「でも、追いかけてはいらっしゃらなかったのですね」
一瞬の静寂が落ちた。
伯爵の眉が、わずかに上がる。
「……お前が自分で出て行ったのだ」
「そうですわね。でも、そう仕向けたのはお父様ではありませんの? 私がバーキン家に残れば家名に傷がつく……。お父様が動かなかったのは、私に対する罰という意味でよろしいですわね?」
「…………」
「今回、こうして迎えの馬車をお送りくださったのは、私に利用価値が生まれたから、という認識でよろしいのかしら」
伯爵はワインを一口飲んだ。それから静かに笑った。
笑顔ではあるが、目は全く笑っていない。
「……変わったな」
「人は変わりますわ」
「以前のお前は、そんな言い方はしなかった」
「以前の私は、世間知らずの子どもでしたの」
伯爵はしばらく俺の顔を見つめていた。
探るような、値踏みするような視線。
俺も、同じように彼を探っていた。
「……そうだな」
伯爵は視線をテーブルに戻した。
「手紙にあった縁談の件は、こちらで何とかする」
「頼りにしておりますわ」
「その代わり――」
「代わり、ですわね」
俺は先に言った。
「もちろん、ただでとは思っておりません。お父様が私に何かをご要望なら、そのお話を伺ってからでも遅くはないかと思いますが」
伯爵が静かに俺を見た。
今度は探る目ではなく——少し、愉快そうな目だった。
「……やはり変わったな」
義母のケリーが、ワインを口に運んだ。
ずっと黙って聞いていたケリーが、ここで初めて口を開いた。
「お久しぶりですわ、エルメスさん
「ケリー様も、お変わりなく」
「ええ」
笑顔だった。完璧な笑顔だ。
だが、ほんの一瞬――グラスを持つ指にだけ、わずかな力が入ったのが見えた。
それだけで十分だった。
……この女、エルメスが嫌いだな。
自分の子どもたちに嫌がらせをした娘が、今更英雄面で戻ってきた。許せるはずがない。
それなのに一切おくびにも出さず、完璧な義母の顔をして座っている。
一番厄介なタイプの人間だ、と俺は思った。
「あの子たちも、姉に会えて嬉しかったことでしょう」
「……クリスもコニーも、なかなか顔を見せてくれませんでしたわ」
「人見知りな子たちですから」
……姉に人見知り、ね。
面白いいい訳だな。
「社交界では、そうも言っておられませんわね」
「……そうですね」
俺はエルメスの顔で、にっこりと微笑み返した。
ケリーもまた、完璧な笑顔を返してきた。
温度のない、完全に計算された笑顔の交換だった。
◆
夕食が終わりかけた頃、使用人がデザートを運んできた。
甘い香りが漂い、蝋燭の炎が静かに揺れる。伯爵がワインを一口飲んだ。その一口が、少しだけ長かった。
俺はそれを敏感に感じ取った。
「……ところで、ひとつ頼みがあるのだが」
前世で何百回も聞いたフレーズだ。
食後のデザートが出てきたタイミングで「ひとつだけ」と切り出す人間に、ろくな話はない。
サラリーマン時代に身に染みて学んだ鉄則だった。
「……どのようなことですの」
俺はできるだけ平静に問い返した。
「北の山に、ドラゴンが住み着いた」
ワインを飲もうとしていた手が、空中で止まった。
「……ドラゴン」
モンスターがいるファンタジーな世界だから、そりゃ居るだろうとは思っていたが、登場すんの早くねぇか?
「三ヶ月ほど前から、山の上空を飛ぶのが確認されている。今のところ村には降りてきていないが、農作業もままならない。村人たちが怯えている」
「……それは、大変ですわね」
「ギルドに討伐依頼は出した――が、Aクラス以上の難易度だ。引き受け手がいない」
当然だ。Aクラス以上のドラゴン討伐なんて、命知らずか金に目が眩んだバカしか引き受けない。
「銀星騎士団を動かせばよろしいのでは?」
「南で魔族に動きがある。それに、近頃は中央も騒がしい」
なるほど。
「お前は冒険者をしているらしいな」
「生きていくためには、そうするしかありませんでしたわ」
「責めているわけではない。むしろ、褒めているのだ。聞くところによると、Bランクらしいな」
「……まあ」
「AAAクラスのモンスターを倒したとも聞いた」
尾ひれの付いたやつね。
一応、訂正しておく。
「勇者候補のパーティと、です。私一人の力ではありませんわよ」
「分かっている」
伯爵は静かに続けた。
「無理にとは言わない。ただ――一度、見てきてはくれないか。どのようなドラゴンか。どこに棲んでいるか。討伐が可能かどうか。目利きができる人間が、今この領には少ない」
……ドラゴン、か。
予想以上にめんどくさいな。
強制ではないが、断れる雰囲気でもない。
上手いこと言って縁談を断ってもらう手前、こちらだけ何もしないというわけにもいかない。
要は、取引だ。
正式に伯爵家に戻るとなれば、嫌でも縁談はやって来る。
伯爵家に戻らないという選択をした場合、そもそも縁談なんぞ無視すれば済む話なのだが。
そうなると、後々詰む可能性があるんだよなー。
ヴァール――あの糞野郎さえいなければ、悩まずに済んだものを。
「…………」
見るだけなら……なんとかなるか。
もちろん、エルメス一人で山に向かうつもりはない。いくらエルメスが優秀だからと言っても、単独でドラゴンの様子を見に行くなど、自殺行為に等しい。
だがシャネルを呼び寄せれば話は変わる。千里眼を以てすれば、接触せずに遠くからドラゴンの様子を確認できる。
もしも可能なら、今後のためにもドラゴンの寄生体は手に入れておきたい。
そのためには、俺自身が現地入りする必要があるんだよな。
……うーん。シャネルの鞄に入れて運んでもらうか。
「……分かりましたわ」
俺は鷹揚とうなずいた。
「ただし、信頼できる仲間を一人呼ぶので、出発は少し遅れますわ」
「それは構わない。……では、頼まれてくれるのだな」
「お受けいたしますわ」
「感謝する」
伯爵が、少しだけ声のトーンを落として言った。
命令でも依頼でもない、妙に素直な響きだった。
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
……これは、俺の感情じゃない。
本物のエルメスは、今どんな気持ちでいるんだろう。
俺には分からなかった。
分からなくていい、とも思った。
「……お父様に言われたからではありませんわよ」
伯爵がゆっくりとこちらを見た。
「領地の民が困っているなら、それだけで十分な理由ですもの」
何かを確かめるような目だった。
それから、静かに目を伏せた。
「そうか」
それだけだった。
ケリーがワインを一口飲んだ。その顔は、夕食の最初からまったく変わっていなかった。
◆
夜。
俺は自室の寝台に体を横たえた。
天井を見上げる。
高い石造りの天井に、細い装飾が施されている。幼い頃のエルメスが何度も見上げていた天井だ。
「……ドラゴン、か」
俺の芋虫体は正直、かなり弱い。物理的な戦闘力はほぼない。
AAAクラスのアラクネを倒せたのも、ほとんどアルエルの力に頼った結果だ。
「やっぱり、強いんですわよね?」
今回のノルマをクリアしたとしても、次にまたどんな無茶振りが飛んでくるかわからない以上、ドラゴンは可能な限り確保しておきたい。
ただし、ヤバくなったら即逃げる。
そのためにも、まずはシャネルだ。
俺は念話で通信を繋いだ。
『……なに』
即座に返ってきた。相変わらず、愛想がない。
そんなところまでトレースしなくても良いんだけどな。
『一週間、俺に付き合ってくれ』
『……どこ』
『バーキン伯爵領。ドラゴンを見に行く』
少しの間、沈黙があった。
『ドラゴン』
『見るだけだ。討伐じゃない』
『……わかった』
『素直だな』
『どうせ断れない』
否定はしない。
『詳しい話は直接会ってする』
『分かった。行く』
それだけ言って、念話が切れた。
俺は天井を見上げたまま、少しだけ笑った。
本物のシャネルがどう思っているかは知らないが、寄生虫は信頼できる。
あれは俺の分身体だからな。
◆
翌朝。
俺がエルメスの意識に入り込む前に、廊下で声が聞こえた。
子どもの声だ。
部屋の外、扉の前あたりから聞こえる。
「……絶対に別人だよ」
コニーか。
「あんな顔するわけないもん。あの悪魔が」
「どんな顔?」
「昨日、廊下ですれ違った時……なんか、普通だった」
「普通って?」
「なんかこう……怖くなかった。普通に、大人の人って感じがした」
クリスが少し考える気配がした。
「……確かに、昨日の顔、変だったね」
「絶対に何かある」
「調べる?」
「調べる」
俺は心の中で頭を抱えた。
十歳が何を「調べる」と言うのだ。
この屋敷にいる間、双子の視線から逃げ続けることになりそうだな。
「くそめんどくせぇー……」
声に出した瞬間、扉の向こうの気配がぴたりと止まった。
……やば。
息を潜める気配が、そこにある。
数秒。
それから、小さな足音が、今度は音を殺しきれずに遠ざかっていった。
俺はしばらく天井を見上げたまま、息を吐く。
「……マジでめんどくさいですわ」
優秀なのは認める。だが、今は最高にタイミングが悪い。
コアがドクンと脈打った。
残り八日。
ヴァールのノルマ。オールセルテスの件。ドラゴン。双子。縁談。
頭の中で並べるだけで、ため息が出る。
「……詰め込みすぎですわ」
誰にともなく呟いた。
遠くで、双子の笑い声が聞こえた気がした。




