第35話 商業都市オールセルテスの事件簿 その1
時は少し遡る。
エルメスが伯爵家の迎えの馬車に乗り込んだ、その日のことだ。
ダンジョンの奥、いつもの芋虫ソファの上で、俺は積み上がった書類の山と格闘していた。
セリーヌからの最新レポート。ハミルトンからの商業情報。各寄生体の行動記録。ヴァールのノルマ達成に向けた進捗確認。
やることが多い。
エルメスを送り出した後、俺にできることは情報を集めて手を打ち続けることだけだ。
書類を一通り捌いていると。
『主様』
セリーヌから念話が入った。
『どうした』
『少し、気になる件があります。現在、街で原因不明の体調不良者が増えているようです』
『増えている、というのはどの程度だ』
『一週間で十五件。症状は全員ほぼ同じです。強い倦怠感と頭痛、食欲不振。ただ、熱はほとんど出ていないようで』
俺は少しだけ考えた。
『感染か』
『医師たちはそう見ているようですが、感染ならもっと広がりが早いはずで。局地的すぎるんです。街の中でも、特定の一帯だけに集中していて』
『どの辺だ』
『東区の南端。古い酒場が並ぶ通りです』
頭の中で地図を広げた。東区の南端。クロエの薬屋がある場所とは真逆。ハミルトンの商会の縄張りとも微妙にずれている。
「原因不明。局地的。……特定の通りだけ、か」
このタイミングで感染症によるパンデミックは避けたい。そんなことになれば、領主に接触する機会を逃してしまう。
「……十二日、もう時間がねぇってのに」
『分かった。ハミルトンを動かす。引き続き情報を集めておいてくれ』
『承知いたしました』
セリーヌとの念話が切れた。
俺はハミルトンのモニターに意識を切り替えた。
――同調開始。
視界が急速に塗り替えられていく。重厚な革張りの椅子、デスクに高く積み上がった帳簿。そこは、商会の主が座るべき執務室だった。
「……さて、動くか」
俺はハミルトンの体で立ち上がり、背もたれにかけていた上着をひったくった。
「少し外を回ってくる。帳簿の整理は後回しだ」
「…… まだ確認が終わっていない分が」
背後で部下が怪訝そうな声を上げたが、気にしない。
俺はそのまま商会を出て、東区の南端へ向かった。
◆
東区の南端は、街の中でも特に薄暗い一角だった。
石畳の隙間に泥が詰まり、看板の文字が色褪せている。昼間から軒先に腰を下ろしている男たちがいる。酒場の暖簾が、風もないのにだらりと揺れていた。
俺は通りを歩きながら、人の顔を観察した。
顔色が悪い。
全員ではない。だが、何人かは明らかにおかしい。頬がこけていて、目の焦点が合っていない。
「よ」
声をかけると、路地の壁にもたれていた男が顔を上げた。
ドミネス。壊血病の件で知り合った、貧困街の少年だ。あれから少し背が伸びた気がする。
「フィールドの旦那。こんなとこ、何しに来たんすか」
「最近また変な病が流行ってるって聞いてな。本当か」
ドミネスが少し顔を曇らせた。
「流行ってますよ。この辺でよくつるんでる連中、なんか変になってるやつが多くて」
「変になってる、というのは」
「ぐったりしてるっていうか……なんか、ぼーっとしてる感じ。ひでぇやつは立ってるのもしんどそうで」
「食欲は」
「ないみたいすね。あと頭痛いって言ってる奴が多い」
そこでドミネスが少し言い淀んだ。
「……たまに、変なやつもいますけど」
「変なやつ?」
「さっきまで死にそうな顔してたのに、急に笑い出したり、やたらテンション高くなったり。かと思えば、すぐまたぐったりするんすよ。……正直、気味悪いっす」
俺はその言葉を、頭の中で反芻した。
「旦那、ただの二日酔いなんですかね。この辺の連中、よく飲むから」
「……かもな」
曖昧に返しながら、通りを見渡す。
だが、二日酔いにしては妙だ。酒を飲む人間はこの一帯に限った話じゃない。それでも症状が偏っている以上、原因は別にある。
「この辺り、最近何か変わったことはなかったか」
ドミネスが少し考えたあと、思い出したように口を開いた。
「……あ、井戸っすかね」
「井戸?」
「この通りの共用井戸。なんか最近、臭いっていうか、味がおかしいって言ってた奴がいて」
「お前は飲んだか」
「俺は飲んでないっすよ。うちの方の井戸使ってるんで。でも――」
少しだけ、声が落ちた。
「そいつら、みんなその井戸の水飲んでます」
……やっぱりか。
俺は小さく息を吐いた。
感染症にしては広がりが遅い。だが、同じ水を摂取している人間だけに症状が出ているとすれば、この偏りにも説明がつく。
「分かった」
「旦那、なんかやばいっすか」
「まだ分からん。ただ、その井戸の水はしばらく使うなと、周りに言っておいてくれ。別の水を使え」
「……はい」
俺は再び通りを歩き始めた。
感染症にしては広がりが遅い。だが井戸なら話が変わる。同じ水を飲んでいる人間だけが症状を発症する。それなら、この局地的な広がり方の説明がつく。
問題は、なぜ井戸の水がおかしくなっているのかだ。
偶発的なものか、それとも――
◆
ギルドの前を通りかかった時、見知った顔を見つけた。
道端に座り込んでいる。
冒険者の装備を着た中年の男だ。何度かギルドで顔を見たことがある。そこそこ名の知れたベテランだったはずだ。
顔色が悪い。額に玉のような汗が浮かんでいる。壁に背をもたせかけ、膝を抱えるようにして座っていた。
「おい」
声をかけると、男が顔を上げた。目の焦点が合っていない。
「大丈夫か」
「……へへ、ちょっと調子が悪くて」
「いつからだ」
「三日くらい前から……なんか、頭が痛くて、飯も食えなくて」
俺はしゃがみ込んで男の顔を見た。
ただの体調不良の顔じゃない。もっと根のある、体の内側から蝕まれているような弱り方だ。
「立てるか」
「……ちょっと、きついかもな」
「分かった」
俺は男を背に担いだ。
「薬師のとこまで運ぶ。大人しくしてろ」
「すまねぇ」
◆
クロエの薬屋に着くと、店の中には既に数名の患者がいた。
皆顔色が悪い。椅子に座って項垂れている者、床に寝かされている者、壁にもたれてぼんやりしている者。
クロエが小走りで近づいてきた。
「ハミルトンさん!」
「忙しそうだな、ハニー」
「日に日に増えているです。背中の人は?」
「ギルドの前で拾った。診てくれるか」
「診るです。そこの診察台に寝かせてほしいです」
俺は男を診察台に横たえた。クロエはすぐに男の診察を始める。相変わらず手際が良い。目を確認し、脈を取り、腹部を触診する。
クロエが診察を行っている間、俺は薬屋の中を見渡した。
患者が六人いる。全員、似たような症状だ。ぐったりしていて、力がない。
「何か分かるか」
しばらくして、クロエが振り返った。
渋い顔をしていた。
「……まだ、はっきりとは言えないです」
「だが、何か心当たりはあるって顔だな、ハニー」
クロエが少しだけ迷う素振りを見せた。
「これとよく似た症状を、昔読んだ文献で見たことがあるです。ただ、確信が持てないので、もう少し調べてから――」
その時だった。
『主様』
セリーヌからの念話が割り込んできた。
『今は少し手が離せない。急ぎか』
『はい。東区の東端、ゴミ山と呼ばれているエリアで、身元不明の遺体が発見されました』
俺はクロエを見た。
「悪い、急用が入った。この男の容態、頼む」
「分かったです。ただ――」
「後で詳しく聞く。必ず戻る」
俺はハミルトンの足で薬屋を飛び出した。
◆
ゴミ山は、その名の通りだった。
東区の東端、街外れの空き地に、街中のゴミが集積されている。生ゴミの臭いと腐敗臭が混ざり合い、鼻が曲がりそうだ。
「ひどい臭いだな」
野次馬が数人、遠巻きに集まっていた。
俺は人垣をかき分けて中に入った。
現場には、すでに数人の憲兵が来ていた。
その中に一人、憲兵とは別に、見覚えのある顔を発見する。
がっしりとした体格の男。冒険者ギルドのギルドマスター、ガジル=ワイドナーだ。
ハミルトンとしては、ほとんど面識がない。ただ、セリーヌの恋人だ。何度かギルドで見かけたことがある程度には認知されていた。
「ワイドナーさん」
声をかけると、ガジルが振り返った。眉間に皺が寄っている。
「……フィールド商会の。こんな場所に何の用だ。お坊っちゃんが来るような場所じゃないだろ」
「たまたま近くにいたもので。それより、何があったんですか」
ガジルが少しだけ迷う顔をしたが、やがて答えた。
「……身元不明の遺体だ。今朝、野良犬が騒いでいたと報告があって来てみれば」
俺は遺体の方を見た。
布がかけられている。形からすると、小柄だ。
「見てもいいですか」
「……もの好きだな。好きにしろ」
俺はしゃがみ込み、布の端をめくった。
……うゲェ。
顔が潰されていた。
それも判別ができないほど、徹底的に。
「……酷いな。身元を消したかったんですかね」
「そうとしか思えん」
「他に何か?」
ガジルが少しだけ沈黙した。
「……中身がない」
「中身?」
「腹の中だ。内臓の一部が、取り除かれていた」
俺は遺体を静かに見つめた。
顔を潰すのは分かる。身元を隠すためだろう。だが――
「……妙ですね」
「何がだ」
「切り口が綺麗すぎます。これは慣れてる者の犯行でしょうね」
ガジルが黙った。
俺は布を少しだけめくり、腹部を確認する。
乱雑に引き裂かれた様子はない。必要な部分だけ、的確に取り除かれている。
「臓器売買……にしては雑だが、無目的でもなさそうだな」
「目的、か」
「少なくとも、衝動的な犯行には見えません。取り出すこと自体が目的に見えます」
「取り出す……内臓を、か」
だが、何のために。
医療目的とは思えない。この世界にそこまでの技術があるとも思えない。
なら、何を――
思考を巡らせるが、決定打には至らない。
「分からん」
ガジルの声が低かった。
俺は周囲を見渡した。目撃者がいないか。何か手がかりが落ちていないか。
その時。
背後に、妙な視線を感じた。
「――――」
慌てて振り返った。
「!」
少し離れたところに、白いローブを着た小柄な人物が立っていた。
リリアだ。
「……」
俺の体が、一瞬固まった。
蛇に睨まれた蛙というのは、こういう感覚を言うのだろう。
まずい。
神眼を持つ神官だ。普通の人間には見えない魔力の色が、あの金色の瞳には見える。エルメスの中にある黒い魔力を見抜いたあの目が、今ハミルトンを見ている。
俺はゆっくりと視線を外し、ガジルに向き直った。
「ご苦労様です。私はこれで」
「……ああ」
俺はハミルトンの足で、できるだけ自然に、しかし速くその場を離れた。
路地に入る。
角を曲がる。
もう一度だけ、振り返って確認する。
「!?」
リリアがまだそこにいた。
目が合った。
俺は視線を切り、路地の奥へ消えた。
リリアは動かなかった。
ただ静かに、ハミルトンが消えた路地の入口を見つめていた。
◆
その夜。
礼拝堂の薄暗い一角で、リリアは蝋燭の前に座っていた。
炎が静かに揺れている。
今日、見たものを頭の中で整理する。
ゴミ山の現場。遺体。そして。
あの男。
フィールド商会の跡取り息子。ハミルトン=カーキフィールド。
青と黒。
エルメスと同じ、二色の魔力。
エルメスの黒は、じわじわと濃くなっている。あの男の黒は、エルメスほど濃くはない。だが確かにある。人間の体に、魔物の魔力が宿っている。
二人。
この街に、同じ性質を持つ人間が、二人いる。
「どういう、こと……」
リリアは炎をじっと見つめた。
何かが、この街で動いている。
見えない糸が、着実に張り巡らされている。
だが今は、まだ動くときではない。
なにより、証拠がない。確信が持てない。
動くのは、もう少し様子を見てからでいい。
リリアは静かに目を閉じた。
炎だけが、揺れ続けていた。
◆
同じ夜。
俺はダンジョンに戻り、ハミルトンとの同調を解いた。
ソファに落ち着いて、今日一日を整理した。
東区南端の体調不良者。井戸の水がおかしいというドミネスの証言。身元不明の遺体。顔を潰され、内臓を取り除かれた死体。
そしてリリアに見られた。
「……嫌なもんが重なるな」
一つ一つはまだ繋がっていない。
ただ、井戸の件は気になる。
感染症にしては広がりが遅い。だが特定の井戸の水を飲んだ人間だけが症状を発症するなら、この局地的な広がり方の説明がつく。
何が混ざっているのか。誰が混ぜたのか。なぜ東区の南端なのか。
クロエが「心当たりがある」と言いかけた。あれが何を指しているのか、早めに確認しておく必要がある。
「時間がねぇってのに、なんでこう次から次へと問題が起こるんだよ!」
兄弟たちが「もきゅ」と返事をした。
「そうだな。こんな時こそ、冷静に、だよな」
遺体はまだ一体だ。
だが、始まりというのはいつも静かなものだ。
俺はソファの上で、コアの重みを感じながら、天井を見上げた。




