第29話 縁談と診療
縁談というものは、なぜこうも唐突に来るのだろう。
前世の俺は縁談とは無縁の人生を送ってきた。五十路を過ぎた独身おっさんに、縁談を持ってくる物好きなど存在しない。婚活パーティに参加した時の「年収二千万が最低ライン」発言以来、俺は自分から異性に近づくことをきれいさっぱり諦めた。
だから縁談というものの実態を、俺はよく知らない。
ラノベの知識しかない。
そしてラノベの知識によれば、縁談というのは大抵ろくなことにならない。
◆
「縁談!?」
芋虫ソファの上で、俺は盛大にひっくり返った。
ずるりと落ちる。ぷにぷにしたソファの側面を転がり、床に落下する。
「もきゅ」
事態を把握できていない兄弟が一匹、のんきに俺の横を通り過ぎた。
俺はしばらく床に転がったまま、脳内モニターに映るセリーヌのレポートを読み直した。
間違いない。縁談だ。
エルメスの英雄譚が国中に広まってからというもの、バーキン伯爵家への問い合わせが急増しているらしい。
「英雄的活躍を見せた令嬢を、うちに迎えたい!」
という打診が、複数の貴族家から届き始めている。
実際には、伯爵家がエルメスを呼び戻そうとしていることを察知したのだろう。嗅覚が早い。貴族らしい判断だ。
「……おいしょっ、と」
俺はソファによじ登り直し、頭を抱えた。
「うーん」
縁談を受ければ、貴族社会への足がかりになる。どこかの貴族家と繋がりができれば、領主へのルートも太くなる。ヴァールのノルマを達成するためにも、人間社会の上層部へのパイプは必要だ。
だが。
縁談を受けるということは、エルメスがどこかの家に嫁ぐということだ。そうなれば、行動の自由が大幅に制限される。相手の家に監視される。動くたびに許可がいる。下手をすれば、俺がエルメスを動かせる場面が激減する。
断り続ければ今度は不審がられる。
「なぜ縁談を断るのか」
「何か隠しているのか」
貴族社会というのは疑い深い生き物だ。
「どうすんだよ、これ」
兄弟たちが「もきゅ」と言った。答えにならない。
俺は考えた。
一番手っ取り早いのは、実家に丸投げすることだ。
バーキン伯爵家に一度戻り、「お父様、複数の縁談が来ていますが、私にはまだやるべきことがありますの。うまいことやっておいてくださいませ」と押しつける。
伯爵家にしても、娘を使った政治的な繋がりは必要だろう。こういう面倒ごとの処理は、貴族の専門分野だ。
俺がやることじゃない。
「一度、実家に帰るか」
声に出した。
すると脳内で何かが反応した。
エルメスだ。
今は俺がエルメスの意識に軽く同調している状態だ。完全に同調しているわけではないが、強い感情の揺れは互いに伝わる。
……にしても、なんだ、今の。
武者震いのような、複雑な、何とも言い難い揺れだった。
喜んでいるのか。それとも嫌がっているのか。
俺にはわからなかった。
わからないが。
「……行くしかないよな」
俺はもう一度、脳内モニターを確認した。
そして、エルメスを部屋の文机に向かわせ、返事の便箋を用意させた。
几帳面な伯爵を思い出しながら、エルメスらしい筆跡で、短い返事を書く。
「近々、参ります」
それだけ書いた。
◆
それから、いつもの芋虫ソファで書類に目を通していたら、突然人影が現れた。
気配がなかった。音もなかった。ただ、気づいたら立っていた。
「ご無沙汰ですね、芋虫ボーイ!」
「うわぁぁぁっ!?」
俺はソファから転げ落ちた。本日二度目だ。床が俺に優しくない。
立っていたのは、細長い指の、にやにや笑いの、例の悪魔だった。
「ヴァール」
ダンジョンの奥――人の部屋に何の前置きもなく立っている。その涼しい顔が、心底腹立たしい。
「……てめぇ、いつから」
「ちょうど今来たところです、ハイ。縁談ですか? 実に喜ばしいですね、ハイ。着々と布石を打っているじゃないですか。わたくし、感動しましたよ、ハイ」
「勝手に見てんじゃねぇーよ! つーかいきなり現れるな! 心臓止まるかと思ったわ!」
「おや、芋虫に心臓があるのですか? わたくしは存じ上げないのですが、ハイ」
「うるさい!」
ヴァールは大仰に肩をすくめ、ダンジョンの壁をぺたぺたと撫でた。まるで物件の内見でもしているような顔だ。
「なかなか手狭ですが、それなりに整ってきましたね、ハイ。感心感心」
「褒め方が嫌みくさいんだよ」
「受け取り方次第ですね、ハイ」
ヴァールは俺の方をちらりと見た。その目が、一瞬だけ鋭くなった。
「ところで、ボーイ」
「なんだよ」
「期日まで、あと十五日ですよ、ハイ」
「……」
俺は黙った。
「一ヶ月以内の領主の籠絡、および街の実効支配——もちろん、覚えていますよね、ハイ」
「……わぁってるよ。いちいちうるさいんだよ!」
「では、順調なのですね」
「……ああ、問題ない」
「本当に?」
ヴァールはにこにこと笑ったまま、一歩だけこちらに近づいた。
圧がある。空気が変わる。
「芋虫ボーイ。わたくしね、せっかちな主に仕えているのですよ、ハイ。期日を過ぎた駒は、損切りが基本方針なのですよ、ハイ。もちろん、それはボーイも例外ではありませんよ、ハイ」
「だから、わかってるって言ってるだろ! しつこいんだよ!」
「分かっているなら、結構です、ハイ」
ヴァールはまたにこりと笑い、踵を返した。
「ユーには期待していますよ、ハイ。……あ、そうそう」
立ち去りかけて、振り返る。
「縁談、どれを選ぶかは慎重に考えた方がいいですよ、ハイ。貴族社会というのは、足を踏み入れた瞬間から、もう逃げられませんから。ふふ」
気配が消えた。
いなくなった。
俺はしばらく床に座ったまま、何も言えなかった。
「……絶対にぶっ殺す」
小さく、しかしはっきりと呟いた。
「もきゅ」
兄弟が一匹、俺の横をのんびり通り過ぎた。
◆
同じ頃。
商業都市オールセルテスの西区——裕福な商人や中位の貴族が邸宅を構えるその一角、細長い路地にひっそりと佇むように、クロエ=パディントンの薬屋はあった。
薬屋、というには少し狭い。だが工房と呼ぶには生活感がありすぎる。棚には薬草と乾燥材と謎の粉末が所狭しと並び、机の上には書きかけの調剤記録と食べかけのパンが同居している。
クロエは今日も白衣の袖をまくって、乳鉢で何かを擦り潰していた。
目の前には、侍女が立っている。
年は二十前後。身なりがよく、立ち居振る舞いが整っている。貴族の屋敷に仕える人間の雰囲気だ。
しかし今はその顔に、隠しきれない疲弊が滲んでいた。
「……もう、どこへ行っても同じ答えで。呪いだ、さじを投げた、と。最後の頼みだと思って参りました」
「症状を、もう一度聞かせてください」
クロエが乳鉢を置いた。
『主様、少しよろしいです?』
ダンジョンの自室で資料を整理していると、珍しく寄生体五号から、念話による通信が入った。
『どうした?』
『謎の病です。患者の症状をクロエ=パディントンの記憶と照合しているのですが……』
『ないのか?』
『第一層の記憶には、残念ながら』
『なら、テキトーに理由つけて追い返せばいい』
『患者はイントレチャート子爵の姪なのですが、よろしいので?』
『バカッ、それを先に言え!』
俺は脳内モニターのスイッチを切り替え、五号――クロエとの同調をオンにする。
意識が滑り込む。
クロエの視界が俺のものになる。侍女の顔。乱れた手。爪の付け根が荒れている。心配で眠れていないのだろう。
「発疹はどのあたりにあるです」
「首から肩にかけてと、両腕の内側です」
「痒みはあるです?」
「かなりあるようで、夜も眠れないと」
「熱は出ているです?」
「最初の数日はありましたが、今はほとんどないようです」
ふむふむ。
「二週間前から、ということでしたが――その頃から何か変わったことはなかったです。たとえば食べ物、飲み物。あるいは、使い始めた化粧品や香水などです」
侍女が少し表情を変えた。
「薬師が、そのようなことを聞いてどうするのですか」
「いいから答えてくださいです」
俺はクロエの口をはっきりと動かした。
侍女が僅かに目を見開いた。この薬師は変わっている、という顔だ。だが反論はしなかった。
「食べ物は特に変わったものは……。化粧品は、先月から新しいものを取り寄せていますが、それ以前から発疹は」
「衣類はどうです?」
「え」
「衣類です。二週間前から、何か新しく着るようになったものはないですか?」
侍女が考える。
少しの間。
「……そういえば、ちょうど二週間ほど前に、新しく仕立て直した衣装が届きました。特別な染料を使ったと仕立て屋が言っていましたが――」
俺の中で、電球が光った。
「その衣装を着るのをやめさせるです」
「……はい?」
「今すぐ。今日から一切、その衣装に触れさせないでください」
侍女が固まった。
「そ、それだけですか」
「それだけです。あとは炎症を抑える薬草を処方するです。軟膏と煎じ薬、両方用意します。三日ほどで発疹は引くはずです」
「……薬師さま。失礼ながら、お医者様方が呪いと診断した病が、衣装を替えるだけで治るとは――」
「呪いじゃないです」
俺はクロエの声で、はっきりと言った。
「接触性皮膚炎です」
「……なんですか、それは」
やっぱり、こっちの世界では知られていないか。
「衣装に使われた染料の成分が、患者の肌に合わなかっただけです。皮膚が異物として反応して、炎症を起こす。それだけのことです」
侍女はしばらく黙っていた。
信じていないというより――あまりにも拍子抜けして、どう反応すればいいか分からない顔だった。
「……本当に、それだけで?」
「原因を取り除けば、体は自分で治ります。薬はその手助けです。それだけのことです」
俺は棚から薬草を取る。
カモミール。ドクダミに似た葉。白い粉末。それらを量りながら、処方の内容を頭の中で組み立てる。
炎症を抑える。痒みを和らげる。皮膚のバリアを回復させる。こんなところか。
やることは単純だ。原因さえ分かれば、あとは体の自然治癒を助けるだけでいい。
侍女がまだ立っていた。
「……なぜ、お医者様たちには分からなかったのでしょう」
独り言のような声だった。
「人は原因が理解できない異常な現象に接触した場合、その現象は人の力ではどうにもならない不可抗力から来ていると推理しがちなんです」
「つまり、どういうことでしょうか?」
「呪いという答えの方が、楽ということです」
俺は手を動かしながら言った。
「原因が分からない病は、全部呪いにすれば考えなくて済むです。お医者様も人間ですから」
侍女は何も言わなかった。
しかしその顔に、わずかに何かが灯った気がした。
「……薬は、どのくらいの量を」
「七日分、用意するです。三日で発疹は引きますが、完全に治まるまで続けてくださいです。途中でやめると再発することがあるんです」
「……分かりました」
侍女が初めて、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします。薬師さま」
◆
侍女に薬を渡してから、二日が経った。
「……悪化しました」
開口一番、それだった。
だが声は完全な絶望ではない。どこか、様子を見ている声だ。
「……本当に、このまま続けてよろしいのでしょうか」
「もちろんです。それで、どのように悪化したです?」
「発疹の範囲が一時的に広がりました。ですが……」
侍女が言葉を選ぶ。
「痒みは、少しだけ軽くなったと申しております」
俺は小さく頷いた。
「なるほど。想定通りです」
「……想定、通り?」
「体が原因物質を外へ出そうとしているです。一時的に症状が強くなることは珍しくないです。その後、徐々に引いていくです」
侍女の顔に、はっきりとした驚きが浮かんだ。
それから一日後。
侍女が再びクロエの薬屋を訪ねてきた。
今度は一人ではなかった。
白いワンピースを着た少女が、侍女の隣に立っていた。年は十四ほど。まだ幼さの残る顔立ちだが、どこか芯の強そうな目をしている。発疹は見当たらない。頬にも首にも、艶やかな肌しかない。
「グレイシア様、無理をしては」
「大丈夫よ」
少女は侍女の制止を軽くかわし、クロエの前に歩み出た。
そして、その小さな両手で、俺の手をそっと包んだ。
「あなたが私を治してくれた先生ね。サリーの言っていた通り、本当に私より年下だ。それなのにすごいわ!」
……いや、クロエは十八だから、一応お嬢ちゃんよりかは年上なんだけどな。
ま、見た目十二歳のロリっ娘だからしゃーないか。
「改めて、お礼を言わせて。ありがとう、小さな先生」
“小さな”は余計だが、先生か。
その一言が、俺の中に思いがけない形で落ちてきた。
……なんか、照れるな。
五十過ぎのおっさんが、十四歳の少女に「先生」と呼ばれて照れている。自分でも気持ち悪いと思うが、どうしようもない。領主との繋がりを得られれば、そう思って動いたことだが、悪い気はしない。むしろ、なんかじんわりとくる。
こんな時、どんな顔をすればいいのだろう。
まさか、大昔のアニメのヒロインみたいなことをこの歳で思うことになるとは。
表情の作り方が不器用なのは、愛嬌ということにしてほしい。
おっさん、これでも頑張ってんだぜ。
「……大げさです」
「大げさじゃないわよ」
グレイシアは小さく首を振った。その目が、まっすぐ俺を見ている。
「二週間、本当に苦しかったんだから。どのお医者様もみんな、これは呪いだと言ったわ。直らないかもしれない、って。本当に怖かったんだから。でも先生が治してくれたわ。それも、たった三日で。しかも衣装を替えるだけで!」
「衣装を替えたのは、グレイシア様自身です」
「先生が教えてくれたからよ」
しばらく、二人の間に静かな時間があった。
「……また来てもいい?」
さて、どうしたものか。俺としては叔父にクロエちゃんのことを紹介していただければ、グレイシアちゃんとはもう会う必要がないのだけど。
「ほら、また何かあるかもしれないでしょ」
「何か、というのは?」
「体のことよ。分からないことがあったら。先生に聞かないとダメでしょ?」
俺は少しだけ考えた。
ボッテガヴェネタ子爵の姪ってことは、グレイシアちゃんも一応貴族なんだよな。
接点を持っておいて、損はないか。
なにより、こんなに純粋な目で言われてしまえば、おっさんには断ることなんてできない。
「もちろん、何かあればいつでも来てくださいです」
グレイシアが、ぱっと顔を輝かせた。
その笑顔が、クロエの視界いっぱいに広がった。
俺はその光景を見ながら、なんとも言えない気持ちになった。
前世の俺は、誰かに「先生」と呼ばれたことがない。頼りにされたことも、たぶん、そんなになかった。
……まあ、いいか。
悪い気はしない。それだけだ。
◆
その夜。
領主ボッテガヴェネタ=イントレチャート子爵の城館の執務室に、一通の報告書が届いた。
グレイシアの侍女が書いた、観察報告書だ。
子爵はその報告書を読み、少しの間、考えた。
医師たちが匙を投げた。呪いと診断した。それを、街の薬師が三日で解決した。
しかも、原因は染料によるアレルギーだった。呪いでも何でもなかった。
子爵はもう一度、報告書に視線を落とす。
「……薬師の名は」
「クロエ=パディントンです」
侍女が答えた。
「ユエ族の、若い女性と聞いております」
「ユエ族、か」
「はい。見た目はかなり幼く見えるようですが、年齢は十八だそうです」
子爵はペンを置き、椅子の背もたれに体を預けた。
「……クロエ=パディントン。その者なら、あるいは……」
独り言のような声だった。
侍女は頭を下げた。
その夜から、クロエ=パディントンの名前は、屋敷の一部で噂として広まり始めた
噂とはそういうものだ。
小さな火が、一つ灯った。
◆
ダンジョンの奥で、俺は芋虫ソファに寝転がりながら、脳内モニターを眺めていた。
五号の視界が、薄暗い薬屋の天井を映している。クロエはもう眠りかけていた。
俺は同調をそっと解いた。
静かになる。
「……グレイシア、か」
領主の姪。
運が向いてきたか。
エルメスルートで貴族社会の表玄関を叩き。クロエルートで領主の屋敷の裏口を探る。二方向から同時に攻めれば、どちらかは通るはずだ。
「悪くない」
体内のコアがドクンと重く脈打った。
あと十三日。
ヴァールの野郎の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「出てくんじゃねぇよ」
ダンジョンの奥で、俺は一人吐き捨てた。
兄弟たちが「もきゅ」と返事をする。
頼もしいんだか頼もしくないんだか、まったくわからない返事だった。




