第28話 キリトの混乱
世の中には、「見なかったことにする」という処世術がある。
前世の俺も、それなりに使いこなしていた。取引先の不正な帳簿。上司の経費の水増し。見て見ぬふりができる人間こそが、長く生き残るサラリーマンの素養というものだ。
それをキリトは、どうにも苦手としているらしい。
◆
「なぁ」
酒場のカウンターに突っ伏したまま、キリトは独り言のように言った。
「なぁって何だ、俺に言ってんのか」
隣のガラの悪い冒険者が眉を上げる。
「……独り言だ、気にするな」
「あ、そ。じゃあうるせぇ」
冒険者はエールを飲み干し、すたすたと立ち去った。キリトはカウンターに頬をつけたまま、手元のジョッキを眺めた。
昼間っから飲んでいた。
飲まなきゃやってられないということもあったし、酒場にいれば話が入ってくるということもあった。最近は特に、“エルメス嬢の武勇伝”が格好のつまみになっていた。
「……なぁ」
また呟いた。
今度は誰も反応しない。
ジョッキの中のエールが、微かに揺れている。
キリトはその水面を見つめながら、ここ数日頭の中で繰り返していることを、また繰り返した。
エルメス=バーキンが、ダンジョンを攻略した。
エルメス=バーキンが、勇者候補のパーティを救った。
エルメス=バーキンが、AAAクラスのモンスターと戦った。
「……なんで」
おかしい。
何がおかしいかというと、全部おかしい。
キリトはエルメスのことをよく知っている。知りすぎているとも言えた。アズナのことがある。姉のことがある。あの女が俺の大切な人たちをどう扱ったか、骨の髄まで知っていた。
だからこそ分かる。
あの女は、リスクを冒さない。
自分が傷つく可能性のあることは絶対にやらない。困っている人間がいれば、助けるのではなく利用することを考える。仲間のために動くなんて発想は、エルメス=バーキンの辞書に存在しない。
なのに。
「仲間のために……?」
あの女が。
「リスクを冒して……?」
あのエルメスが。
「……どういうことだよ!」
キリトはジョッキを置き、両手で顔を覆った。
英雄譚というのは誰かが盛るものだ。それは知っている。ガストンという男が昨夜も酒場で武勇伝を語り散らかしていたし、話が大きくなること自体は不思議じゃない。
だが。
紅蓮のメンバー全員が、一様に言うのだ。
「エルメス嬢が前に出た」
「エルメス嬢が盾になった」
「エルメス嬢がいなければ、俺たちは全員死んでいた」
脚色じゃない。あの目をしている人間が、嘘をつく理由がない。
「……本当に中身が別人なんじゃないか」
ぽつりと、声に出してしまった。
すぐに自分で笑い飛ばそうとした。
でも、笑えなかった。
気になることが、もう一つある。
酒場で再会した日のことだ。あの時エルメスは、キリトのことを一瞬“知らない人間を見るような目”で見た。本当に一瞬だったから、見間違いかもしれない。だが確かに、あの目は“自分を殺そうとした男”を見る目ではなかった。
それから急いで「いがみ合っていても仕方ない」という話に切り替えてきた。
妙に手際が良すぎた。
エルメスは喧嘩が好きな女だ。売られた喧嘩は十倍にして買い戻すような女だ。それがあの場面で、まるで別人のように丸くなっていた。
「……なんで俺、今まで気にしなかったんだ」
キリトは額をカウンターに打ちつけた。
鈍い音がした。
隣の冒険者が「うるさい」と言った。
◆
礼拝堂を出たリリアは、その日の夕方、いつもの路地裏の井戸端で水を汲んでいた。
作業の手が止まったのは、人の気配を感じたからだ。
「……話がある」
振り向くと、黒髪の青年が立っていた。
年は十代の終わりくらいか。眉間に皺を寄せ、明らかに寝不足の顔をしている。口調は妙に剣呑だが、目に敵意はない。ただ、困り果てている人間の目だ。
「キリトさん」
リリアは名前を呼んだ。ギルドで何度か顔を見たことがある。エルメスとも接点があった男だ。
「……知ってるのか、俺のことを」
「少しだけ」
「……そっか」
キリトはため息をついて、井戸の縁に背中を預けた。
「単刀直入に聞く」
リリアは水桶を地面に置いた。
それから、キリトの顔をじっと見た。そして、胸元に顔を近づけた。
「お、おい……」
くんくんとキリトの匂いを嗅いでいた。
「……優しい匂い」
「も、もういいだろ。ちょっと離れてくれ。俺にはアズナって恋人がいるんだ」
「ごめんなさい。癖なんです」
「その癖、直したほうがいいぞ。そんなことより、聞きたいことがある」
「どうぞ」
「エルメスのこと、おかしいと思わないか」
リリアは人差し指を下くちびるに押し当て、僅かに考えた。
「……なぜ、私に聞くんですか」
「ギルドで声をかけてただろ。あの時の顔、覚えてる。あいつに何かを感じてる顔だった」
鋭い。リリアは少しだけ目を細めた。
「……聞かせてください。あなたは何を感じましたか」
「感じたってより……おかしいんだよ」
キリトは言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。
エルメスが昔どんな女だったか。リスクを冒さず、仲間を利用し、自分の利益しか考えない女だった。
それが今、まるで別人のように動いている。言葉遣いすら変わった。あいつは俺のことを「キリト」と呼ばなかった。いつも「あなた」か「そっちの」だった。なのに再会した日、「キリトはどうしますの」と名前で呼んだ。一瞬で取り繕ったが、あの一瞬は確かにあった。
「……それで、私に何を期待していますか」
「答えを持ってるかもしれない、そう思っただけだ」
リリアは少しの間、黙っていた。
それから静かに言った。
「……私も、見てました」
「やっぱり」
「ダンジョン攻略の日。あの瞬間、彼女の首筋の紋様が一瞬だけ、強く光りました」
キリトの眉が跳ねた。
「紋様?」
「彼女の首筋に、黒い紋様があります。あなたには見えませんか」
「……見えない」
「私の目には見えます」
リリアは静かに続けた。
「最初に会った時から、ずっと。それが今は、以前より濃くなっています」
「……なんだよ、それ」
「分かりません。でも、あれは人間の魔力じゃない」
キリトは沈黙した。
頭の中で何かが繋がっていく音が、自分でも聞こえるようだった。
あの日、確かにエルメスを殺そうとした。実際に死んだと思った。だけど、彼女は生きていた。まるで何事もなかったように、平然としている。
あの日、自分が去ったあとで何かがあった。そう考えたほうが辻褄が合う。
ダンジョンで起きること……。
「……まさか」
「断言はできません」
「でも、可能性はある、ってことか」
リリアは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「あいつ……一体何者なんだ」
キリトは声を絞り出した。
「分かりません」
リリアは正直に言った。
「でも、見続けることはできます」
「……それだけか」
「今できることは、それだけです」
キリトはもう一度ため息をついた。長い、長い溜め息だ。それからぼそりと言った。
「……俺、どうすればいい」
「何もしなくていいと思います。今は」
「なんで」
「動けば、向こうも動きます」
キリトは顔を上げ、リリアを見た。
白いローブの小柄な神官が、静かにこちらを見ていた。感情を抑えた顔だが、目の奥に何か確固たるものがある。この子は怖がっていないのだと、キリトは思った。
「……あんた、変わってるな」
「よく言われます」
「怖くないのか」
「怖いです」
間を置かずに答えた。
「でも、知りたいという気持ちの方が、今は強いので」
キリトは苦笑いした。
「そういう奴が一番危ないんだぞ」
「そうかもしれません」
リリアは水桶を持ち上げた。
「また何か気づいたら、教えてください」
「……ああ」
キリトは井戸の縁から離れ、路地の出口に向かいかけた。
その背中に、リリアが静かに声をかけた。
「キリトさん」
「なんだ」
「一人で動かないでください。今は、まだ」
キリトは振り返らなかった。
しかし足が止まった。
「……わかった」
それだけ言って、路地を出た。
リリアは水桶を脇に抱え、空を見上げた。
夕暮れが、街を橙色に染めていた。
◆
路地を抜けてしばらく歩いたところで、キリトはまた立ち止まった。
「……だな」
独り言を言う癖が、最近酷くなっている。
後ろから声がした。
「珍しい組み合わせだな」
振り向くと、男が立っていた。
赤髪をかき上げ、涼しい目でこちらを見ている。右腕の袖が、風に揺れた。その先には、何もない。
アルエルだった。
「……紅蓮の」
「アルエルだ」
アルエルはキリトの隣に並んだ。追ってきたわけではないらしい。ただ、通りかかった。そういう歩き方だった。
「さっきの神官と、何を話していたんだい」
「……聞いてたのか」
「たまたま近くにいただけさ。内容までは聞こえなかったが、顔は見えた」
アルエルは笑わなかった。
「エルメス嬢のことを話していただろう」
断定だった。
キリトは警戒した。だが、アルエルの目に敵意はない。どこか疲れたような、それでいて諦めていない目だ。
「……なんで分かる」
「君の顔が、そういう顔をしているから」
「そういう顔、って」
「何かを飲み込めずにいる人の顔だ」
キリトは口を閉じた。
アルエルは続けた。
「僕も、気になってる」
「……エルメスのことか」
「ああ」
短く言った。
「理由を聞いてもいいか」
キリトが問うと、アルエルはしばらく黙った。
それから、少しだけ苦笑するような顔をした。
「直感だ」
「……直感」
「言霊を使う時、相手の意思が邪魔をする。人間は必ず、無意識に抵抗する。それが自然なんだ」
アルエルは空を見上げた。
「エルメス嬢には、それがなかった」
「……それが、おかしいのか」
「どうだろ? ただ、普通じゃない。意思がないわけじゃないんだ。戦っている間、彼女は確かに判断していた。的確に。無駄なく。だが僕の言霊を受け入れた時だけ、まるで自分の意思を持たないかのように、一切の抵抗がなかった」
キリトは黙って聞いていた。
「何かが、いる」
アルエルは静かに言った。
「エルメス嬢の中に。あるいは、エルメス嬢の代わりに動いている何かが」
「……さっきの神官も、同じことを言ってた」
「だろうね」
アルエルは目を細めた。
「あの神官は見えているんだろう。僕には見えないが、感じることはできる。似たようなものだ」
しばらく沈黙が続いた。
夕風が路地を吹き抜けた。
「……どうするつもりだ」
キリトが問うと、アルエルは少しだけ間を置いた。
「見る。今は、それだけだ」
「動かないのか」
「動けない」
アルエルは自分の右腕の袖を、一度だけ見た。
「それに――彼女は僕たちを救ってくれた。それだけは事実だ。何者であれ、その事実は変わらない」
「……お人好しだな」
「そうかもしれない」
アルエルは笑わなかった。
「ただ僕は、よく分からないものを、よく分からないまま斬りたくない。それだけだよ」
キリトは何も言えなかった。
◆
その夜遅く、キリトとリリアは礼拝堂の前で再び顔を合わせた。
示し合わせたわけではない。キリトが考えごとをしながら歩いていたら、礼拝堂の前にリリアがいた。それだけだ。
「アルエルさんとも話したんですか」
「……筒抜けだな」
「この街は狭いので」
リリアは礼拝堂の石段に腰を下ろした。キリトも、少し離れた段に座った。
夜の礼拝堂は静かだ。蝋燭の光が窓からわずかに滲んでいた。
「……アルエルの腕、治せないのか」
キリトが唐突に言った。
リリアは少し驚いたような顔をした。それから、静かに答えた。
「この街の治癒魔法では、欠損の再生はできません。もっと高位の神殿か、特別な術者が必要です」
「お前なら、どうだ」
リリアは少しの間、黙った。
「……なぜ私に聞くんですか」
「なんとなく。お前が普通の神官じゃないのはわかる」
「普通ですよ」
「神眼を持ってる神官が普通なのか」
リリアは答えなかった。
「……欠損の再生は、難しいです」
「難しい、じゃなくて、できないのかって聞いているんだ」
「難しいです」
同じ言葉を繰り返した。
キリトは横目でリリアを見た。
リリアは膝の上に手を揃えて、真っすぐ前を向いていた。表情は穏やかで、何も語っていない。
「……それ、答える気がない顔だな。姉ちゃんがいつもそんな顔してた」
「そんなことはありません」
「あるだろ」
「……」
微笑んだ。
何も答えない微笑だった。キリトはやれやれと首を振った。
「とっつきにくい奴だな、お前」
「よく言われます」
「それさっきも言ってたな」
「本当によく言われるので」
しばらく、二人とも黙った。
礼拝堂の蝋燭が、窓の向こうで揺れた。
「……なあ」
「エルメスの中にいる何かが、悪いものだと決まったわけじゃないよな」
リリアは前を向いたまま答えた。
「……まだ、分かりません」
「あいつが紅蓮を救ったのは、そいつのせいかもしれない。そういう可能性もあるか」
「あります」
「だったら――」
「だったら、何ですか」
キリトは言葉に詰まった。
「……わかんねぇ」
「私も、分かりません」
リリアは少しだけ、空を見上げた。
星が出ていた。
「ただ」とリリアは言った。
「彼女が何かに操られているなら、それがいいことであれ悪いことであれ、本人は苦しいかもしれない、と思っています」
キリトは黙って聞いた。
「もしも本当に彼女がエルメスさん本人ではないのなら、本物のエルメスさんは、どこにいるんだろう、と。時々考えます」
風が吹いた。
石段の上で、白いローブが静かに揺れた。
「あいつ……本当に、生きてるのかな」
キリトが、ぼそりと言った。
答えは返ってこなかった。
ただリリアは、星を見上げたまま、小さく息を吐いた。
礼拝堂の蝋燭が、また一度だけ、揺れた。




