母の言葉
――――――――――――
暗号メモ正本の最終段落。
カエルは机の上に正本を広げ、蝋燭の灯りの下で残る暗号に挑んだ。第19話の深夜に解読した「この知識は世界のものだ」の後に、まだ数行の暗号が続いていた。最も複雑な暗号構造。母が全力で隠した最後のメッセージ。
時間をかけた。三晩。古代語の語源辞典と、母の暗号パターンの癖を交差させ、一文字ずつ解いた。
そして——最終段落の全容が、浮かび上がった。
――――――――――――
「この研究ノートの完全版は、私の研究室——すなわちSの住居——に隠してある。壁の奥、古代の封印様式で。簡単には見つからない。しかしカエル、お前なら辿り着ける」
カエルの手が止まった。
Sの住居。
S——シルヴィア。
母の住居。
カエルの脳裏で記憶が組み替わった。マグヌスの住居——あの建物は大学の敷地内にある古い石造りの一軒家だ。マグヌスが長年使っている。周囲の建物より古く、壁の石材も年代が異なっている。
母がヘスペリア大学に在籍していたのは——3150年代から3170年。マグヌスの研究室のある建物は——大学の記録によれば、その時代には「女性研究者用の住居」として使われていた。
カエルは目を閉じた。
——母は、あの建物に住んでいた。今のマグヌスの研究室——鍵のかかった部屋がある、あの建物に。
母が「Sの住居に隠した」と書いた研究ノートの完全版は——あの建物のどこかに、古代の封印様式で隠されている。
そしてマグヌスは——おそらく、それを発見した。発見し、鍵の部屋に移した。
全てが——繋がった。
――――――――――――
暗号メモの最後の一行を、カエルは声に出さず読んだ。
「カエル。お前がこの暗号を解いたということは、お前は私が思った通りの人間に育ったということだ。真実を恐れない人間に。——母より」
長い沈黙。蝋燭の炎が揺れている。
カエルは正本をゆっくりと巻き、保護管に収めた。
全ての解読が——終わった。
――――――――――――
次にカエルは、机の引き出しから小さな革袋を取り出した。
中身を確認する。暗号メモ正本の写し。各地で集めた証言の記録。筆跡の照合メモ。出版記録の空白期間のリスト。後見人申請日付の記録。ヴェリウスの通信記録の写し。碑文の書き写し。
全ての資料を——隠す必要がある。
万が一、マグヌスがカエルの調査に気づき、先手を打ってきた場合。カエルの部屋が捜索される可能性がある。資料を一箇所に置いておくのは危険だ。
カエルは革袋を持ち、部屋を出た。
深夜の廊下を歩き、大学の敷地内にある古い礼拝堂に向かった。かつて使われていた祈りの部屋の床石の下——カエルだけが知っている空間。古代語の封印を施し、革袋を収めた。
——これで、もし俺に何かあっても。
ルーナなら見つけられる。妹も古代語の心得がある。カエルの封印パターンを知っている。
最悪の場合への——保険。
――――――――――――
自室に戻った。
窓の外が白み始めていた。
東の空に——テセラ海の水平線が灰色から青に変わり始めている。星が一つ、また一つと消えていく。
カエルは窓辺に立った。
全ての糸が、一つの場所に収束した。
鍵のかかった部屋。
母が研究ノートを隠した建物。マグヌスがそれを見つけ、封じた部屋。教会魔法と精霊魔法の二重の残留痕跡が漏れる部屋。
あの部屋を——開ける。
カエルは深く息を吸った。冷たい夜明けの空気が肺を満たした。
覚悟は、とうに決まっている。




