影の気配
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マグヌスが不在の夜だった。
学会の晩餐会。戻りは深夜になると、朝の段階で師匠自身が告げていた。ルーナは自室で本を読んでいる。マグヌスの住居は静かだった。
カエルは廊下を歩いた。裸足で。足音を消して。
研究室の扉を開けた。鍵はかかっていない。日中、師弟が自由に使う共有の空間だ。書棚が壁一面を覆い、中央に大きな机が二つ。窓からテセラ海の月光が差し込んでいる。
カエルは研究室の奥に進んだ。
——鍵の部屋。
研究室の最奥に、もう一つの扉がある。いつもは書棚の影に隠れるように存在し、マグヌスが近づくことすらしない場所だった。
重厚な樫の扉。鉄の錠前。扉の周囲の壁に——微かな紋様が刻まれている。カエルは今まで気づかなかった。いや、気づけなかった。紋様は意図的に目を逸らさせる術式が施されているのだろう。注意を向けなければ——ただの壁の模様にしか見えない。
カエルは扉の前に立った。
まだ入らない。今夜は——確認だけだ。
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目を閉じた。
微念を研ぎ澄ませた。
教会魔法の知覚拡張。意識を薄く広げ、周囲の微細なエネルギーの流れを感じ取る。マグヌスから教わった技術そのものを、マグヌスの秘密に向けて使う。
——そこに、何かがある。
扉の向こうから——微かな力の気配が漏れていた。
教会魔法の残留痕跡。微念の流れを感じる。だがそれだけではない。もう一つ、別の性質を持つ何かが——微精霊の痕跡に似た、だがどこか異なる——
カエルの眉が動いた。
二つの体系。
教会魔法の微念の痕跡と、精霊魔法の微精霊の痕跡。その両方が、この扉の向こうから漏れている。二つの異なる——しかし、どこかで重なり合う——力の気配。
原力。
碑文で読んだ古代の知識。母が発見した統一力場理論。微念と微精霊の根源にある一なる力。
——この部屋の中に、原力に関わるものがある。
カエルの心臓が速くなった。
統一力場理論の実験機材か。母の研究ノートの完全版か。あるいは——マグヌスが独自に原力の実験を続けた痕跡か。
扉の向こうの力の気配は——穏やかだが確かだ。一定のリズムで脈打つように、弱まり、強まりを繰り返している。まるで何かが——生きているかのように。
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カエルは微念の知覚を閉じた。
額に汗が浮いていた。
この扉の向こうに——全てがある。
母の暗号メモが示す「Sの住居に隠した研究ノート」。各地の証言が指し示す「マグヌスが独占しようとした知識」。筆跡が証明する「消された名前の正体」。
全ての糸が——この一つの扉に収束している。
鉄の錠前を見つめた。普通の鍵ではないだろう。術式による封印が施されているはずだ。扉周囲の紋様がそれを示している。
しかし——カエルには二つの体系がある。教会魔法と精霊魔法。一つの体系では解けない封印も、二つの視点から見れば——
いや。今夜は確認だけだ。
カエルは一歩退いた。
扉から離れ、研究室を出た。
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自室に戻り、扉を閉めた。
椅子に座り、深く息を吐いた。
鍵の部屋の原力の気配。あの脈動。あの異質な——しかしどこか懐かしい——力の感触。
母の研究の残滓が、あの部屋に眠っている。
「次にマグヌスが不在の時——開ける」
カエルは机の上の蝋燭に火を灯した。炎が揺れ、壁に影を投げた。
最後の準備を始める。




