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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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66/70

ルーナの選択

――――――――――――


* * *


 兄と海岸で話してから、三週間が経っていた。


 ルーナは日常を送っていた。朝、起きる。研究室に行く。お師匠様の指導を受ける。論文を書く。夕方、台所で三人分の食事を作る。夜、自分の部屋で本を読む。


 何も変わっていない。何も変わっていないはずだ。


 ——なのに。


 兄の言葉が、頭から離れなかった。


 「師匠が、母さんの死に関わっている可能性がある」


 押し出しても、押し出しても、戻ってくる。朝起きた瞬間。写本の頁をめくった時。お師匠様の声を聞いた時。


 ルーナは首を振った。何度目かわからない。


 信じない。信じないと決めた。兄の調査が間違っている。お師匠様はそんな人じゃない。


 ——そう決めたのに。


――――――――――――


 火曜日の午後。論文指導の時間。


 ルーナはお師匠様の書斎にいた。


「お師匠様。お母さんのこと、もっと教えてください」


 自分でも驚いた。口が勝手に動いた。


 マグヌスは羽根ペンを置き、ルーナを見た。書斎の窓から差す午後の光が、師匠の白髪まじりの髪を柔らかく照らしていた。


「シルヴィアのことか」


「はい。……あまり聞いたことがなくて」


 マグヌスは微笑んだ。穏やかで、温かい。いつもの笑み。


「お前の母はお前に似ている。その優しさも、才能も」


 ルーナの胸が温かくなった。


「ルーナ、お前が古典語の写本に見せる集中力は、母親譲りだ。シルヴィアも同じだった——研究に没頭すると食事も忘れてね」


「……わかります。私もよくそうなります」


「ほら、そっくりだ」


 マグヌスが笑った。ルーナも笑った。


 この人が——母を殺した人間のはずがない。


 こんなに優しく母の話をする人が。母に似ていると言ってくれる人が。


 ——やっぱり、兄さんが間違えてる。


――――――――――――


 しかし。


 マグヌスが母の話を続けた時——ほんの一瞬だった。


「シルヴィアの研究は……末期には少し、独自の方向に進んでいた。まあ、天才にはよくあることだが」


 ——間。


 一拍の間。マグヌスが言葉を選ぶ間。


 ルーナの中で——何かが引っかかった。


 お師匠様は普段、言葉に詰まることがない。講義でも。論文指導でも。議論でも。常に言葉は滑らかに、淀みなく流れる。


 なのに——母の研究の「末期」について話す時だけ、一瞬の間があった。


 気のせいだ。


 ルーナはそう判断した。気のせいに決まっている。疲れているんだ。兄の言葉に影響されて、ないものを見ているだけだ。


 ——押し殺した。


 その直感を。胸の奥に沈めて、蓋をした。


――――――――――――


 夜。


 ルーナは自室で本を読んでいた。が、同じ文を三度読み返しても頭に入らなかった。


 立ち上がって、部屋を出た。


 廊下は暗かった。壁の一箇所だけ、小さな常夜灯が橙色に光っている。兄の部屋は——廊下の突き当たり。


 扉の下から——灯りが漏れている。まだ起きている。


 ルーナは兄の部屋の前まで歩いた。


 立ち止まった。


 ——兄さん。


 手を上げた。拳を握って、ドアの木面に近づけ——


 止まった。


 何を言えばいい?


 「信じる」と言えるのか。——言えない。お師匠様を疑うことはできない。


 「ごめんなさい」と言えるのか。——何に対して? ルーナは何も悪いことをしていない。


 「一緒に調べよう」と言えるのか。——それはお師匠様を疑うことを意味する。


 拳が——空を掴んだ。


 指が開き、力なく下がった。


 ルーナは腕を下ろした。


 ノックしなかった。


 振り返り、自分の部屋に歩いた。一歩ずつ。足音を立てないように。


 扉を閉めて、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めた。


 ——兄さん。


 声にならない声。


 兄の部屋の灯りは、まだ消えなかった。



* * *

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