ルーナの選択
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兄と海岸で話してから、三週間が経っていた。
ルーナは日常を送っていた。朝、起きる。研究室に行く。お師匠様の指導を受ける。論文を書く。夕方、台所で三人分の食事を作る。夜、自分の部屋で本を読む。
何も変わっていない。何も変わっていないはずだ。
——なのに。
兄の言葉が、頭から離れなかった。
「師匠が、母さんの死に関わっている可能性がある」
押し出しても、押し出しても、戻ってくる。朝起きた瞬間。写本の頁をめくった時。お師匠様の声を聞いた時。
ルーナは首を振った。何度目かわからない。
信じない。信じないと決めた。兄の調査が間違っている。お師匠様はそんな人じゃない。
——そう決めたのに。
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火曜日の午後。論文指導の時間。
ルーナはお師匠様の書斎にいた。
「お師匠様。お母さんのこと、もっと教えてください」
自分でも驚いた。口が勝手に動いた。
マグヌスは羽根ペンを置き、ルーナを見た。書斎の窓から差す午後の光が、師匠の白髪まじりの髪を柔らかく照らしていた。
「シルヴィアのことか」
「はい。……あまり聞いたことがなくて」
マグヌスは微笑んだ。穏やかで、温かい。いつもの笑み。
「お前の母はお前に似ている。その優しさも、才能も」
ルーナの胸が温かくなった。
「ルーナ、お前が古典語の写本に見せる集中力は、母親譲りだ。シルヴィアも同じだった——研究に没頭すると食事も忘れてね」
「……わかります。私もよくそうなります」
「ほら、そっくりだ」
マグヌスが笑った。ルーナも笑った。
この人が——母を殺した人間のはずがない。
こんなに優しく母の話をする人が。母に似ていると言ってくれる人が。
——やっぱり、兄さんが間違えてる。
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しかし。
マグヌスが母の話を続けた時——ほんの一瞬だった。
「シルヴィアの研究は……末期には少し、独自の方向に進んでいた。まあ、天才にはよくあることだが」
——間。
一拍の間。マグヌスが言葉を選ぶ間。
ルーナの中で——何かが引っかかった。
お師匠様は普段、言葉に詰まることがない。講義でも。論文指導でも。議論でも。常に言葉は滑らかに、淀みなく流れる。
なのに——母の研究の「末期」について話す時だけ、一瞬の間があった。
気のせいだ。
ルーナはそう判断した。気のせいに決まっている。疲れているんだ。兄の言葉に影響されて、ないものを見ているだけだ。
——押し殺した。
その直感を。胸の奥に沈めて、蓋をした。
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夜。
ルーナは自室で本を読んでいた。が、同じ文を三度読み返しても頭に入らなかった。
立ち上がって、部屋を出た。
廊下は暗かった。壁の一箇所だけ、小さな常夜灯が橙色に光っている。兄の部屋は——廊下の突き当たり。
扉の下から——灯りが漏れている。まだ起きている。
ルーナは兄の部屋の前まで歩いた。
立ち止まった。
——兄さん。
手を上げた。拳を握って、ドアの木面に近づけ——
止まった。
何を言えばいい?
「信じる」と言えるのか。——言えない。お師匠様を疑うことはできない。
「ごめんなさい」と言えるのか。——何に対して? ルーナは何も悪いことをしていない。
「一緒に調べよう」と言えるのか。——それはお師匠様を疑うことを意味する。
拳が——空を掴んだ。
指が開き、力なく下がった。
ルーナは腕を下ろした。
ノックしなかった。
振り返り、自分の部屋に歩いた。一歩ずつ。足音を立てないように。
扉を閉めて、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めた。
——兄さん。
声にならない声。
兄の部屋の灯りは、まだ消えなかった。
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