拒絶
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自分の声が——自分のものではないように聞こえた。
「兄さんは——お師匠様を疑うの?」
言った瞬間、涙が溢れた。
テセラ海の夕日が、浜辺の全てを赤く染めている。波が繰り返し砂を洗っている。隣に兄が立っている。世界は何も変わっていない。
——変わったのは、ルーナの中だけだ。
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兄さんの言葉が、頭の中で反響していた。
——師匠が、母さんの死に関わっている可能性がある。
嘘だ。嘘に決まっている。
暗号メモ。海人族の証言。筆跡。空白期間。後見人申請。
全部、間接的なものだ。直接的な証拠はないと、兄自身が言っていた。つまり、間違いかもしれない。兄の解釈が歪んでいるだけかもしれない。母の死に囚われて、見えないものを見ているだけかもしれない。
——そうだ。きっとそうだ。
そう思おうとした。
けれど——兄の目は嘘をつく人間の目ではなかった。
ルーナは砂の上に座り込んだまま、膝を抱えた。海風で乱れた髪が頬に張り付いている。涙が膝の上に落ちた。
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お師匠様。
十年前。十三歳のルーナは、言葉が出なかった。母を失った衝撃で、声が枯れた。何日も、何週間も、ほとんど喋らなかった。兄の前でだけ小さく頷く程度。
マグヌスが——声を取り戻してくれた。
最初は、ただ隣にいてくれた。何も言わず。ルーナが古典語の写本を眺めているのを見て、「読んでみるかい?」と聞いた。ルーナが小さく頷くと、一行ずつ、一緒に読み解いてくれた。
少しずつ。少しずつ。
言葉が戻った。声が戻った。学問という窓を通して、世界と繋がることができるようになった。
お師匠様を否定するということは——ルーナ自身の十年間を否定するということだ。
声を取り戻してくれた人。学問を教えてくれた人。「お前には才能がある」と信じてくれた人。論文の枠組みを一緒に考えてくれた人。ルーナの世界の土台を作ってくれた人。
その人が——殺人者?
それは——ルーナの全てが嘘だったということを意味する。十年間の温もりが嘘。「才能がある」という言葉が嘘。論文指導が嘘。毎朝の「おはよう」が嘘。
それを認めることは——自分自身を殺すことと同じだった。
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涙が、声になった。
「お師匠様は——」
ルーナは顔を上げた。兄を見た。
「お師匠様は私の声を取り戻してくれた」
声が震えていた。潮風に千切れそうなほど細かった。
「毎日、毎日面倒を見てくれた。私が何も喋れなかった時——ずっと隣にいてくれた。論文が書けなくて泣いた時も、黙ってお茶を淹れてくれた」
カエルは立ったまま、黙っていた。海風が兄の外套の裾を揺らしていた。夕日が沈みかけている。兄の顔が、赤い光と影の境で揺れていた。
「あの人がそんな人なわけない。——あるはずがない」
兄が口を開いた。
「ルーナ。俺も信じたくない。だが——」
「信じたくないなら信じなければいい!」
ルーナは立ち上がった。砂が散った。
兄が冷静に語れば語るほど——ルーナには「信頼する師匠を引き裂こうとしている」ようにしか見えなかった。証拠を並べれば並べるほど、兄の理詰めの言葉が刃になって、ルーナの世界を切り裂いていく。
「私は信じない。兄さんの調査が間違ってるんだ。絶対に——間違ってる」
走った。
砂浜を。石段を。息が切れても、足は止めなかった。
背後で兄が名を呼ぶ声が聞こえた——気がした。潮風に紛れて、消えた。
石段を駆け上がりながら、ルーナの耳に残ったのは——波の音だけだった。
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