兄妹の食卓
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兄が帰ってきた。
玄関の扉が開いた瞬間、ルーナは台所から飛び出した。「兄さん!」
カエルは二ヶ月ぶりの顔だった。日に焼けて、頬が少し痩せている。旅の荷物を床に置いたまま、ルーナを見て微笑んだ。「ただいま」
——よかった。
ルーナは兄の外套を受け取りながら、安堵が胸を満たすのを感じた。二ヶ月。手紙は二度来たが、どちらも短く、どこにいるかも曖昧だった。心配していた。
「お師匠様が『夕食までには片付けてきなさい』って。兄さんの好きなもの作ったよ」
「ありがとう」
カエルの声は穏やかだった。けれど——どこか、遠い。
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ルーナの毎日は充実していた。
兄が旅に出てからの二ヶ月、マグヌスの研究室で古典写本の分類を任され、火曜と金曜に論文の指導を受けた。来月には学術誌への投稿も控えている。大学の同期が羨むような研究環境を与えてもらっていた。
お師匠様は変わらず優しかった。
ルーナが言葉を詰まらせると、静かに待ってくれる。論文の方向性に迷うと、三つの選択肢を示してくれる。——ルーナの学問は、マグヌスの導きなしには成立しない。それはもう事実として受け入れていた。
今の生活が、好きだ。
朝、研究室の窓を開けて海風を入れる。午前中は古典語の写本と向き合い、午後はお師匠様と議論する。夕方にはルーナが台所に立ち、三人分の食事を作る。
三人。お師匠様と、兄さんと、ルーナ。
家族だった。
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夕食の席で、カエルは旅の話をした。
海人族の街の活気。鉄背山脈の冷えた空気。廃都の文書館の静けさ。話しぶりは穏やかだったが、具体的なことは何も言わなかった。何を調べていたのか。何を見つけたのか。
ルーナは気にしなかった——兄には、いつも自分だけの考え事がある。
食後、カエルが言った。
「ルーナ。明日の夜、二人で話したいことがある」
真剣な顔だった。
ルーナは首を傾げた。「何?」
「明日でいい。……今日は疲れた」
兄は笑った。だが目が笑っていなかった。
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自分の部屋に戻って、ルーナは窓辺の椅子に座った。
何の話だろう。
恋愛の相談かもしれない——そう思って、少し笑った。兄さんにそういう話があってもおかしくない年齢だ。二十三歳。ルーナ自身は二十一。そろそろ、そういうこともあるだろう。
でも——。
ルーナは笑みを消した。
兄の「暗い目」。あの目は、旅に出る前からあった。母の暗号メモの解読を始めたあの頃から——何かに取り憑かれたような目。兄は少しずつ変わっていった。
あの目が——旅の前より、深くなっている。
胸の奥で何かが縮んだ。
——今の生活を、壊さないで。
ルーナは窓から海を見た。テセラ海の夜の波が、月光に細く光っていた。穏やかな夜だった。
明日の夕暮れ——兄さんは何を話すのだろう。
ルーナは蝋燭を吹き消した。不安を抱えたまま。
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