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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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兄妹の食卓

――――――――――――


* * *


 兄が帰ってきた。


 玄関の扉が開いた瞬間、ルーナは台所から飛び出した。「兄さん!」


 カエルは二ヶ月ぶりの顔だった。日に焼けて、頬が少し痩せている。旅の荷物を床に置いたまま、ルーナを見て微笑んだ。「ただいま」


 ——よかった。


 ルーナは兄の外套を受け取りながら、安堵が胸を満たすのを感じた。二ヶ月。手紙は二度来たが、どちらも短く、どこにいるかも曖昧だった。心配していた。


「お師匠様が『夕食までには片付けてきなさい』って。兄さんの好きなもの作ったよ」


「ありがとう」


 カエルの声は穏やかだった。けれど——どこか、遠い。


――――――――――――


 ルーナの毎日は充実していた。


 兄が旅に出てからの二ヶ月、マグヌスの研究室で古典写本の分類を任され、火曜と金曜に論文の指導を受けた。来月には学術誌への投稿も控えている。大学の同期が羨むような研究環境を与えてもらっていた。


 お師匠様は変わらず優しかった。


 ルーナが言葉を詰まらせると、静かに待ってくれる。論文の方向性に迷うと、三つの選択肢を示してくれる。——ルーナの学問は、マグヌスの導きなしには成立しない。それはもう事実として受け入れていた。


 今の生活が、好きだ。


 朝、研究室の窓を開けて海風を入れる。午前中は古典語の写本と向き合い、午後はお師匠様と議論する。夕方にはルーナが台所に立ち、三人分の食事を作る。


 三人。お師匠様と、兄さんと、ルーナ。


 家族だった。


――――――――――――


 夕食の席で、カエルは旅の話をした。


 海人族の街の活気。鉄背山脈の冷えた空気。廃都の文書館の静けさ。話しぶりは穏やかだったが、具体的なことは何も言わなかった。何を調べていたのか。何を見つけたのか。


 ルーナは気にしなかった——兄には、いつも自分だけの考え事がある。


 食後、カエルが言った。


「ルーナ。明日の夜、二人で話したいことがある」


 真剣な顔だった。


 ルーナは首を傾げた。「何?」


「明日でいい。……今日は疲れた」


 兄は笑った。だが目が笑っていなかった。


――――――――――――


 自分の部屋に戻って、ルーナは窓辺の椅子に座った。


 何の話だろう。


 恋愛の相談かもしれない——そう思って、少し笑った。兄さんにそういう話があってもおかしくない年齢だ。二十三歳。ルーナ自身は二十一。そろそろ、そういうこともあるだろう。


 でも——。


 ルーナは笑みを消した。


 兄の「暗い目」。あの目は、旅に出る前からあった。母の暗号メモの解読を始めたあの頃から——何かに取り憑かれたような目。兄は少しずつ変わっていった。


 あの目が——旅の前より、深くなっている。


 胸の奥で何かが縮んだ。


 ——今の生活を、壊さないで。


 ルーナは窓から海を見た。テセラ海の夜の波が、月光に細く光っていた。穏やかな夜だった。


 明日の夕暮れ——兄さんは何を話すのだろう。


 ルーナは蝋燭を吹き消した。不安を抱えたまま。



* * *

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