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原力の殉教者  作者: とりまな
手がかりの糸
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帰還

――――――――――――


 隊商の荷馬車の上で、カエルは揺られていた。


 鉄背山脈の南麓を回り込む街道。乾いた風が砂埃を巻き上げ、幌の隙間から差し込む陽光が荷物の上に白い筋を描いていた。カイロスを発って七日。ヘスペリアまで、あと三日。


 周囲の商人たちは昼寝をしたり、荷物の帳簿をつけたりしている。カエルは幌の隙間から遠くの山並みを見つめていた。


 見ているのは——十年前の記憶だった。


――――――――――――


 十三歳。


 ルーナと二人、マグヌスに引き取られた日。村から馬車に乗り、ヘスペリアの街が見えた時、ルーナが「すごい……」と呟いた。カエルは何も言えなかった。母を失って五年。村の人々に世話になりながら過ごしてきたが、まだ世界が灰色に見えていた。


 マグヌスの住居に着いた時、師匠は玄関で待っていた。背の高い、穏やかな笑みを浮かべた男。「長旅だったろう。さあ入りなさい」


 その声が——温かかった。


 温かさに飢えていた。母を失い、村を離れ、知らない街に連れてこられた子供にとって、あの温かさは——何物にも代えがたかった。


 訓練が始まった。十四歳。カエルは才能があった。マグヌスは惜しみなく教えた。微念の理論、教会魔法の体系、古代語の基礎、聖典の読み方。毎晩、師弟で書斎の机を囲み、蝋燭が燃え尽きるまで議論した。


「カエル。お前は鋭い。その鋭さを——正しく使いなさい」


 師匠の言葉を、今でも覚えている。


 ルーナもまた、マグヌスの元で花開いた。最初は人見知りだった妹が、少しずつ学問への情熱を見せるようになり、やがて師匠を「お師匠様」と呼ぶ声には無条件の信頼が宿った。


 家族のようだった。


 いや——家族だった。


――――――――――――


 荷馬車が段差を越え、体が跳ねた。


 カエルは目を閉じた。


 十年間。マグヌスが教えてくれたことの中に——嘘はあったのか。


 微念の理論——正しい。教会魔法の体系——正しい。古代語の読み——正しい。学問的な指導そのものに、嘘はなかった。その知識は本物であり、カエルとルーナの成長は現実のものだった。


 ——しかし、その「動機」が。


 カエルは革の保護管を懐に感じた。暗号メモ正本の重み。九つの証拠が指し示す、一つの結論。


 マグヌスは母と共に原力を発見し、その知識を独占しようとした。母がそれを拒んだ。後見人申請は母の死の二日前に出された。


 全てが——計画的だったのか。


 「お前たちを引き取りたい」——あの言葉も。「長旅だったろう」——あの温もりも。


 カエルの胸の奥で、何かが軋んだ。


 怒りではなかった。


 悲しみだった。


 怒りならまだ良かった。怒りには力がある。人を動かす。だが今、カエルの中にあるのは——言葉にならない喪失感だった。十年間信じてきた「家族」が——最初から「研究素材」だったかもしれないという、底の抜けたような虚しさ。


 いや——違う。全てが虚構だったとは思わない。


 訓練中に見せたマグヌスの真剣な目。ルーナの論文を褒めた時の柔らかい笑み。あの瞬間の感情まで全て演技だったとは——信じられない。信じたくない。


 しかし。


 母を殺した人間が——その子供を引き取り、育て、「家族」として接していたのだとしたら——


 「……師匠として教えてくれたことは、本物だった」


 カエルは呟いた。声は風に散った。


 「しかし——その動機が」


――――――――――――


 日が傾き始めた頃、カエルは母の暗号メモの内容を頭の中で改めて整理した。


 母——シルヴィア・ハルモニアが発見した「原力」。微念と微精霊の根源にある、統一された力。古代の碑文が証明する歴史的事実。精霊鍛造術の中に残る原力の痕跡。廃都の文書館に残された共同研究の記録。


 母はこの発見を——世に出そうとした。


 「この知識は世界のものだ」


 それが母の遺志だった。暗号メモの断片、各地に散らばる証言、全てが一つの意志を示している。原力の知識は、教会と精霊術師の両方のもの。人類全体のもの。一人の学者や一つの組織が独占すべきものではない。


 マグヌスは——それを独占しようとした。


「同源説の証拠を隠すな」——海人族の長老が聞いた叫び声。


 母が拒んだ。マグヌスが排除した。そして母の研究の上に——自らの業績を築こうとした。


 カエルの目が細くなった。


 これは母個人の復讐の話ではない。


 母が命をかけて守ろうとした知識——統一力場理論、原力の存在、二つの体系の根源的統一——を、正しい形で世に出す。それが、母の遺志を継ぐということだ。


 その理解が、カエルの中で静かに根を下ろした。


――――――――――――


 三日目の午後。


 街道の丘を越えた時、テセラ海の青が視界に広がった。


 ヘスペリア。


 白い建物が海岸線に沿って連なり、大学の尖塔が空に突き出ている。あの尖塔の下に——マグヌスの研究室がある。鍵のかかった部屋がある。


 そして——ルーナがいる。


 カエルは荷馬車から降りた。商人たちに礼を言い、街道を歩き始めた。


 ルーナに言わなければならない。


 自分たちの面倒を見てくれている師匠の部屋に、母を殺した『フクロウ』の手がかりがあるかもしれない。それを探るために——彼を裏切って鍵の部屋へ入らなければならない。


 それは波乱を呼ぶ告知だとわかっている。ルーナの世界を壊すかもしれない。学問の全て、日々の安定、信頼の土台——全てが崩れるかもしれない。


 だが——知る権利がある。


 母の真実を。母が何を発見し、何を守ろうとし、なぜ死んだのかを。ルーナにも——知る権利がある。


 黙っていることは——ルーナを「守る」ことではない。マグヌスの嘘の中に閉じ込めておくことだ。


 カエルはヘスペリアの門を潜った。


 夕暮れの街路に、海風が吹いていた。塩と日干し煉瓦の匂い。懐かしい。二ヶ月前と何も変わらない街並み。


 だが——カエルの目は変わっていた。


 疑念は確信になった。悲しみは覚悟になった。


「ルーナ——聞いてくれるだろうか」


 カエルはマグヌスの住居に足を向けた。

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