海人族の街
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テセラ海は、ヘスペリアから見た時とは別の顔をしていた。
商船の甲板で、カエルは海面を見つめていた。ヘスペリアの港町からルキアノスまで、沿岸を南下する三日の航海。船は小型の海人族交易船で、甲板は塩と魚の匂いが染みついていた。
二日目の午後だった。
船が海峡を抜けた時、カエルの全身に震えが走った。
海の深部から——何かが上がってきた。
微精霊でも微念でもない。しかしその両方に似た、異質なエネルギーの波動。海底から立ち昇るように、巨大な圧力が船底を通してカエルの両系知覚に触れた。
——これは。
記憶が呼び覚まされた。第二章十八話、ヘスペリアで嵐が訪れた夜。あの時も同じ質の——微念でも微精霊でもなく、しかし両方を含むような——異常なエネルギーを感じ取った。
原力の波動。
テセラ海の深部に、何かがある。古代から眠る力の残滓が、時折目を覚ますように脈動している。
カエルはその感覚を記憶に刻み、船旅を続けた。
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ルキアノスは、崖の斜面に張り付くように作られた集落だった。
石と珊瑚で組まれた家々が、テセラ海を見下ろす急斜面に段々と連なっている。路地は狭く、階段が多い。人間族の町とは設計思想が違う——海人族は垂直方向の移動を苦にしない。
集落の空気は潮と海藻の匂いに満ちていた。路地のあちこちで海人族の男女が網を繕い、魚を干している。赤褐色の肌、首筋のうっすらとした鰓の痕跡。子供たちが崖から海に飛び込み、笑い声を上げていた。
カエルは集落の長老を訪ねた。
海人族には、人間族の大学にあたる学問機関がない。知識は長老から口伝で継承される。母が海人族の深層パターンを研究していたなら、必ず長老に接触したはずだ。
長老の住居は集落の最上部にあった。珊瑚の壁に海藻で防水処理を施した、半ば洞窟のような建物。入口には木彫りの微精霊の像が並んでいる。海人族の信仰——彼らは微精霊を「海の意志」として崇拝していた。
長老は老齢の女性だった。真っ白い髪を編み込み、顔中を皺が覆っている。だが目は——海そのものの色をした瞳が、鋭く澄んでいた。
「シルヴィアの息子か」
カエルが母の名を出した途端、長老の目が見開かれた。
「その目——母親に似ている。シルヴィアは微精霊の深層パターンを研究していた。海の底で微精霊が見せる本来の姿を、記録したがっていた」
「母がここに来ていたことをご存知なんですね」
「何度も来た。最初は一人で。二度目からは——男を連れていた」
カエルの呼吸が浅くなった。
「ヘスペリアの教授だ。背が高く、白い髭の男。二人は——最初は仲が良かった。学者同士の議論というやつだ。だが——」
長老が目を細めた。
「——ある時、激しい口論になった。男は怒って去った。去り際に叫んでいた——『同源説の証拠を隠すな』と」
カエルの血が引いた。
同源説——微念と微精霊の同源性。母が原力を発見し、その知識を公開しようとした。相手の男は——独占を主張した。
「その男が去った後、母は何か言っていましたか」
長老は首を振り、そして付け加えた。
「去り際に——男はエルダリスの学術機関について聞いていた。森人族の記録に何かがあると考えたのだろう」
エルダリス。母の出身地。森人族が管理する世界樹の根脈。そこにも原力の痕跡があるのか。
カエルは長老に深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「シルヴィアの息子。お前があの女と同じ道を歩くなら——気をつけろ。海は深い。深すぎる場所に潜れば、二度と浮かばない」
その忠告が、マグヌスの「深入りしすぎるな」と重なった。だが長老の言葉には、マグヌスの忠告にはなかった感情があった。
——心配。純粋な心配。
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集落を出る時、海を振り返った。
テセラ海の紺碧の下に、何が眠っているのか。原力の波動がまた微かに脈を打った気がした。
この海の底に──忘れられた神の痕跡があるのかもしれない。
カエルは次の目的地——テセラ海の対岸の廃学術都市——に向かう船を探した。証拠は積み重なっている。だが、まだ足りない。
——「その男は去り際にエルダリスの学術機関について聞いていた」
マグヌスは母の出身地の情報にも手を伸ばしていた。どこまでも——執念深く。




